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CURRENTS Tame Impala (Hostess) by SOICHIRO TANAKA
AKIHIRO AOYAMA
YUYA SHIMIZU
September 01, 2015
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CURRENTS

サイケデリアとは可能性のことを指す。どんなことも
起こりうるということ。「起こるがままに任せてみよう」。

1)
今、目の前には、夥しい数の言葉と音楽の死体が累々と転がっている。ストリーミング・サーヴィス? 最高だな! もう何でも聴けるじゃないか。これでまたポップ・ミュージックはさらに表現としてのアクチュアリティを失い、テイストの慰みものという墓場に追いやられていくに違いない。「もはやこれ以上、音楽なんて必要ないんですよ。誰も聴かないんだから」と、調子に乗ったオルキヌス・オルカが他人のふんどしで相撲を取る。「自分が取りあえず何かを聴いていることに安心したいだけ。自分が聴いたと思い込んでいるものを語りたいだけ」。筋金入りのインディ・キッズだった男が言うからには、そうなのかもしれない。だとすれば、素敵な話。誰も音楽を聴かなくなる。音楽という鏡の中に映る自分しか見なくなる。ヘイル・トゥ・ナルシシズム! ったく。また皮肉からかよ。

2)
テーム・インパラの3rdアルバム『カレンツ』は全米、全英それぞれのチャートで第4位と第3位に輝いた。だが、正直もうわからない。そうした情報がこの日本語インターネットの世界で、どれだけの意味を持つのか。そこは無闇な情報の洪水。玉石混交の情報で溢れ、もはや共通のコードや解読盤は存在しない。シェーンベルクの無調音楽を楽しむにも何かしらの法則があったはずなのにね。君が少しだけ立ち止まって、少しだけ考え、ほんの小さな判断を下すほんの少しの時間を、量と速さによって押し流そうとする情報の汚濁の中、全米ナショナルチャート第4位、〈ピッチフォーク〉のレヴューで9.3点を獲得、〈サインマグ〉小林祥晴と田中宗一郎が大絶賛、サイケデリック・ロックからメインストリーム・ポップへの転身――そうした言葉が何かしらの意味を持つのかどうかは、もはや想像もつかない。リキティキタヴィはどこに? マングースはもういない。

だが、君は何かしらの情報の繋がりから、このアルバムを自分の手元にたぐり寄せる。信用に足るソースから。だが、信用に足るソースって今どこにあんの? 政治家や企業やマスメディアの言葉にはもはや誰も耳を貸さないというのに。きっと佐野元春なら歌うだろう。「♬誰が本気にするもんか」。大切なのは、俺のキャビアとキャピタリズム。そこにあるのは絶え間ない椅子取り合戦。だが、もはや政治家や企業やマスメディアの言葉には耳を貸さない君も、どのサイトに行っても出くわす行動ターゲティング広告に鼻白ませている君も、ソーシャル・プラットフォームを介した知人たちとのコミュニティや、自動選別アルゴリズムといったアーキテクチュアの誘導には疑問を挟まない。彼らは無言だから。無言のまま、君の無意識を支配するから。例え、疑問やためらいがあったとしても、君はしぶしぶそれを受け入れる。便利だから。悪いことじゃない。無駄な時間や労力を省き、しかも自分は間違っていないと安心することが出来るのなら。そんな君の姿を欄干ごしに眺めながら、わざわざ奴隷扱いしたりするのは、英雄気取りの俗物だけだ。

しっかし、どこもかしこもドローンだらけだな。でも大丈夫。目をつむって受け入れさえすればいい。かくして2+2=5と相成りました。めでたしめでたし。

今この瞬間も、日本語SNSの世界では夥しい数の言葉が乱れ飛んでいる。誰もが不特定多数に向けて語ることが可能になった素晴らしき未来の到来。だが、優れた王さえいれば、封建社会こそがすべての安息と平和への近道と信じる男がこんな風に言う。その名はチンギス・ハーン。「おまえは望む。誰もが、語るにあたわぬ泥のさえずりを垂れ流すことを許され、降り積む泥に世の紙をすべて尽きる未来を。文字によって結ばれた豚と豚が、ゆるい糞の汚濁に遊び、どの豚も同じような喃語をさえずり交わす未来を。誰もが、消し去れぬ文字を持って、等しく曝き合い、晒し合う未来を。狼は望まぬ。語ること自体、語られる自体を」。だが、コソボ紛争の際には思わずチョムスキーよりもソンタグの言葉に傾いた君も、ロベール・フォーリソンの忌むべき書物に序文を寄稿したチョムスキーは歴史修正主義を擁護したわけではない、そう固く信じているかもしれない。「愚かにもね」と、抜け目ないオルカちゃんの一言。

だが、少なくとも日本語SNSの世界ではコンテクストは失われてしまった。それぞれがそれぞれの文脈によって他人の言葉を好き勝手に解釈し、好き勝手に引用する。これって対話なの? 文脈を剥ぎ取られた言葉はコミュニケーションのツールとして機能しない。死骸でしかない。誰もが望んだはずの未来って、こんな言葉の彼岸だったの? 誰もが世界に向けて語ることの自由を手に入れることと、それがゆえに今この瞬間にも言葉の死骸がひたすら増え続けていること。君はそのふたつの間で引き裂かれている。狭い金だらいの中に浮かぶ死の間際の鯉のように口をパクパクさせながら。声は出ない。勿論、誰の耳にも届かない。期待なんかしちゃダメなんだよ、ブリュースター・マックラウド。

すると、やおらピート・タウンゼンドが歌い出す。あの懐かしい孤独という場所から。「♬夜を恐れるな/君の口から漏れた悲鳴は君にしか聞こえない」。でも、パパ、もう孤独なんてどこにもないんですよ、ありがたいことに。だが、老いさらばえたタウンゼント翁は歌い続ける。「♬光から目を逸らすな/君が夢見る夢は君にしか見えない」。見えるよ。確かに見える。でも、やっぱりその光を他の誰かと一緒に見たいじゃないか、パパ。

3)
テーム・インパラの3rdアルバム『カレンツ』のいたるところには、自分自身が、これから先どんな風に変わっていくのか皆目検討もつかない音楽業界の一部であることの徒労感が滲み出している。その中での孤独が透けて見える。産業としてではなく文化としてポップ音楽がどんな風に発展していくのか? 「文明ではなく文化にしか関心がないなんて、サイードの読みすぎなんじゃないの?」と、余計な口を挟むオルキヌス・オルカのことはとりま無視で。いずれにせよ、ポップ産業の未来を握っているのは、情報と流通のインフラを握るプラットフォームの持ち主たる企業と、それにしぶしぶ追随するしかない疲れたリスナーたちであり、もはや表現――最近ではコンテンツって呼ぶんだって♡――を生み出す作家たちに委ねられてはいない。という視点もある。少なくともこの『カレンツ』には、自分自身が無力なインディ音楽の作家であることの徒労感が滲み出している。いたるところで。

音楽をインディ・コミュニティの一員であることの免罪符にしたのは誰だ? そんなごくごく狭い世界の中で、自らの一挙一動を、その政治的妥当性をこと細かに査定され続けるのはもうたくさん。アンダーグラウンドからの信頼? もはやすべてのポップ音楽は商品でしかないことは自明の理。にもかかわらず、そんな現実に目をつぶって、巨大な資本に近づいたものだけを批判して、悦に入るだなんて。自分だけは間違っていないってこと? かなり笑えるな。

本作におけるリリックの大半はパーソナルな傷心の体験をモチーフにしたラヴ・ソングの形式を持ったものであれ、何かしら巨大な力に追い立てられることをオブスキュアに綴ったものであれ、どれも「以前いた場所から切り離されてしまうこと」について語られている。つまり、この『カレンツ』という作品は、否応なく余儀なくされた「変化」についてのアルバムなのだ。

だからこそ、目を見張るサウンドの「変化」についてだけ注目したい。テーム・インパラの過去二作を知る者なら、間違いなく驚きをもって迎えられるだろう抜本的な変化。メインストリーム・ポップへの迎合? セルアウト? 大胆なエレクトロニクスの導入はまだ想像の範疇。だが、彼らのシグネチャー・サウンドだったギターはほぼどこにも見当たらない。

かつてはリフ主体で組み立てられていたソングの大半はコード進行を軸に、よりポップス的な構造に移行した。と同時に、実はこれまでも彼らのサウンドの最重要パーツだったベース・ラインがどのトラックでもその中央に居座ることになった。それがゆえのソウル、R&Bへの接近。甘ったい70年代AORにまで片足を突っ込んだメロウな和声、とろけるようなファルセット・ヴォイス。何よりもそれがアルバム全体の印象を決定付けている。生ドラムを排したことを筆頭にプロダクションもすっかりクリーンに。生々しさよりも理路整然さが選択された。そして、徹底したミニマリズムへの傾倒。リズム・パターンの新奇さよりも音を鳴らさないこと、それによって生まれる空間そのものが語るレコード。すると、すかさず素っ頓狂な声を上げるオルカちゃん。「俺たちのテーム・インパラはどこに行った?」。

4)
サイケデリアとはLSDのことではない。可能性――それこそがサイケデリアという言葉が指すもの。と、何十年も前から我が友人ニコラ・テスラは言ってきた。つまり、どんなことも起こりうるということ。ほんの些細なあやまちが思いもしなかった陰惨な悲劇に繋がることも、誰も相手にしなかった素っ頓狂な思いつきが素晴らしい未来を生み出すこともある。68年の愛の夏において世界平和を唱えることはアシッドの恍惚がもたらす勘違いだったのかもしれない。だが、そうした錯覚は現実を変えた。間違いなく。そんな過去の歴史がまた今を奮い立たせている。いたるところで。ここでも。

サイケデリアとは可能性のことを指す――そうした定義に従うなら、このアルバムこそがサイケデリアだ。ここには大胆な変化と、限りない変化への執着がある。何があっても変わり続けること。どんなことも起こりうるということ。可能性は無限だということ。

もし本作を象徴するアルバム冒頭の“レット・イット・ハプン”のビートを「ディスコ・ビートとしか」認識出来ないのなら、この曲をダフト・パンクの“ゲット・ハッピー”との「類似だけで」何かしら納得してしまっているなら、君は何も聴いていない。反復するリズムによる陶酔というクラブ・ミュージックの形式を持ちながら、4や8ではなく、6小節の円環を基本にした構造しかり。和声やコード進行はソウルやファンクがそうであったような限られたルートの円環ではなく、幾度となく変わり続ける。7分1秒からの、3つのメロディが重なっていくさまはクラシック音楽の世界で言う対位法にも似た技法だ。反復の中での変化。いくつもの引用を組み換えることで別な何かに変えること。これはすなわち、抵抗しきれない時代の変化という汚濁の中にあっても、さらなる変化は起こりうるということ――そのアナロジーでもある。

2012年の2ndアルバム『ローナイズム』に続き、新たな傑作という冠を手にした『カレンツ』という作品がリプリゼントするのは、抗しきれない変化の波に押し流されようとも、いまだ可能性は失われていない、さらなる新たな変化はここから引き起こされる、そんな絶え間ない変化への執着と信頼。ここにあるのは不断の運動。尽きることのない始まり。変化、変化、変化。変化を越えていく、さらなる変化だ。

5)
積み重なった痛みと徒労が少しずつ滲み出し、やがてすべてが恍惚に溶けていくようなメロウネス、そして、かろうじて心と身体を弾ませるグルーヴの融合を軸とした『カレンツ』は、これまでの彼らを愛したファンを戸惑わせることになるだろう。戸惑いや驚き、畏怖の念ではなく、安心や慰めだけを表現に求めるなら、このアルバムは君には無用の長物だ。外界のあらゆるノイズから自分自身を遮断し、2015年という名の、うらぶれた砂浜に打ち寄せては返す潮騒のメロディが淡いまどろみに誘うレコード。今一度さらなる変化を準備するために孤独という場所に帰るためのレコード。

だが、今の君がそれを必要としているかどうかはもはや俺にはまったく想像がつかない。66年の春から、不安げなブライアン・ウィルソンの歌声が聴こえてくる。「♬神のみぞ知る」。そして、50年近い時を越え、ケヴィン・パーカーはその言葉に応える。「♬起こるがままに任せてみよう」。

今、目の前には、夥しい数の言葉と音楽の死体が累々と転がっている。勿論、それを殺したのは、あなたであり、この俺だ。だが、贖罪意識に足を取られるなんてご免被りたい。好き勝手にやらせてもらうぜ。勿論、時代の変化に抗することは出来ない。だが、諦めるつもりも毛頭ない。変化は受け入れるしかないものであると同時に、引き起こすものでもある。サイケデリアとは可能性のことを指す。これから先も、どんなことも起こりうるということ。と同時に、それは今すでにここで起こっているということ。だからこそ、ただ静かに呟く。叫ぶのではなく。「起こるがままに任せてみよう」。お楽しみはこれからだ。

文:田中宗一郎

一元的なサイケデリック・サウンドから逸脱し、
より本質的な意味でのサイケデリアへ

2009年夏、テーム・インパラが〈サマー・ソニック〉で初来日のステージに立った時の印象は今でもよく覚えている。揃いも揃ってヒッピー・ライクな長髪のメンバーが派手なパフォーマンスもなく一心不乱に鳴らす、ブルージーでヒプノティックな60年代的ロック・アンサンブルに、「なんて時代錯誤的なんだろう!」と驚いたものだ。

しかし、今にして思えば、当時は、テーム・インパラとそのマスターマインドであるケヴィン・パーカーの持つポテンシャルに気付かず、過小評価を下していたと言わざるを得ない。彼が単なるレトロ趣味に留まらない才能の持ち主であることを世界的に示した2010年のデビュー作『インナースピーカー』、そして極めて現代的な音響感覚によってモダン・サイケデリアの音像を更新し、金字塔を打ち立てた2012年の『ローナイズム』。この前二作を通して高まり続けた期待を受けてリリースされる三作目『カレンツ』は、テーム・インパラ/ケヴィン・パーカーのポップ・クリエイターとしての本領が余すことなく発揮された一枚である。これまで“サイケデリック”の一語で形容されることの多かったバンドだが、本作に至ってはそんな殊更のカギカッコも必要なく、全ての構成要素が大文字のポップスへと昇華されている。

本作で際立って聴こえてくるのは、ロックやサイケといった一元的な見方を無効化するような、R&B、ファンク、ディスコ的な側面。抑制の効いた展開から長尺をかけて恍惚へと導く、ダンス・ミュージック的な趣向が開陳されたリード・トラック“レット・イット・ハプン”。インディR&Bやチルウェイヴにも通じる内省的な美を垣間見せる“イエス・アイム・チェンジング”や“パスト・ライフ”。マイケル・ジャクソンさえ髣髴させるようなベース・ラインが印象的な“ザ・レス・アイ・ノウ・ザ・ベター”等々。マーク・ロンソンのアルバムにケヴィン・パーカーが複数の曲でゲスト参加していると聞いた時には意外に思ったものだが、本作を聴けば両者の関連性もすんなりと理解できる。

本作でテーム・インパラが一元的な“サイケさ”から逸脱し、より多面的な次元へと到達したのは間違いない。とはいえ、ケヴィン・パーカーがサイケデリアと完全に袂を分かったのかといえば、決してそうではないだろう。〈NME〉のインタヴューで、彼はこんな風に言っている。

「サイケデリアとは、『この楽器+この楽器+このスケール=サイケデリア』というものではないし、特定のジャンルでもない。ギターやシンセとは関係ない。サイケデリアというのは、センセーションだ。人々を突き動かす時間、自分の肌の外側に自分がいると感じられるような場所のことなんだ」。

ケヴィン・パーカーという一個人の内側から生み出された音楽が、ポップ・ミュージックの体を取って普遍性を携え、外へ外へと広がり伝播していく。ケヴィン・パーカーの言葉を信じるとすれば、彼とテーム・インパラは、より本質的な意味において、今でも世界中の誰よりサイケデリアを体現しているのではないだろうか。

文:青山晃大

効能と安全性が保証された
ジェネリック・サイケデリック

初めてテーム・インパラを観たのは2009年、まだ3ピースだった頃に〈サマー・ソニック〉に出演するため来日した彼らが、その翌日に原宿アストロ・ホールで行われたジェニー・ルイスの単独公演に、フロント・アクトとして出演した時のことだ。終演後、以前から知り合いだったジェニー・ルイスのサポート・メンバーに、「君は前座のバンド好きでしょ?」と声を掛けられたのは自分の趣味を見透かされているようで笑ってしまったが、実はそこまでのめり込めたわけではなかったし、その証拠にライヴの印象もほとんど残っていない。

もしかしたら、彼らがオーストラリアの〈モジュラー・レコーディングス〉所属だということへの偏見もあったのかもしれない。当時のモジュラーといえば、(ウルフマザーという例外を除けば)カット・コピー、ヴァン・シー、レディホークといったエレ・ポップ系アクトを濫造していて、そんなレーベルからデビューしたサイケ・バンドという触れ込みに、どこか信用ならないものを感じていたことも確かだ。

だから彼らが2010年の『インナースピーカー』、そして2012年の『ローナリズム』という2枚のアルバムでモダン・サイケの救世主として祀り上げられた後も、世間の熱狂を尻目に静観していたのだが、中心人物のケヴィン・パーカーがほぼひとりで作り上げたという本作は、若干趣が違うようである。というのも、オープニングを飾るリード・トラックの“レット・イット・ハプン”からしてサイケデリックなギターは鳴りを潜め、8分近くに渡って時代錯誤なシンセのリフと、ステディなディスコ・ビートが繰り返されるのだ。本作から〈インタースコープ〉と契約した彼らが、今になって〈モジュラー〉のレーベル・カラーに寄った作品をリリースするというのも皮肉だが、ただ、かねてから「サイケデリックとは特定のジャンルではなく、聴き手の意識を違う場所に飛ばすような感覚だ」と言ってはばからなかったケヴィンからすれば、これも自然な発展なのだろう。

サイケから出発してディスコに接近したバンドといえば、テーム・インパラと同郷のビー・ジーズがいるが、実際本作のサウンドは、ロサンゼルスでマジック・マッシュルームを食べてハイになったケヴィンがドライヴ中に聴いた、ビー・ジーズの“ステイン・アライヴ”にインスパイアされているという(そういえば“コーズ・アイム・ア・マン”の最初に公開されたヴァージョンのヴィデオには、ジョン・トラボルタ風のCGキャラクターが登場する)。要するに時代錯誤な点においては変わらないのだが、それが近年のブルー・アイド・ソウルや80’sリヴァイヴァルと奇跡的にシンクロしてしまったのが、本作を「今年を象徴する一枚」たらしめている要因なのではないだろうか。

『カレンツ』というタイトルには、電流や潮流といった意味の他に、“現在の”という意味も含まれる。内なる声の主(『インナースピーカー』)を探して世俗を離れていた(『ローナリズム』)ケヴィンが、図らずも現在の潮流に乗る形になったのが本作と言えそうだが、それはかえって、彼らの個性を埋没させる結果にも繋がっているのだ。

シングルを含む一連のアートワークは、ケヴィンのアイデアを元にワンオートリックス・ポイント・ネヴァー作品で知られるロバート・ビーティーが完成させたものだが、それはダフト・パンクがサントラを手掛けた映画『トロン:レガシー』のリミックス盤にも参加していたエレクトロ・ミュージシャン、コム・トゥルーズの2011年作『ギャラクティック・メルト』を連想させる。そのせいだろうか、音楽性こそ変われど、「過去の作品を甘口にアレンジしてわかりやすく提示するバンド」という、彼らへの評価は変わっていない。それがオリジナル以上の成功を収めてしまうのは漁夫の利だと言いたくもなるのだが、普段からブリトニー・スピアーズやカイリー・ミノーグを好むというケヴィンのポップ・ミュージックへの偏愛と、バランス感覚の賜物だろう。

なるほど、本作はオリジナルではないかもしれないが、大衆への普及を目的とした「ジェネリック・サイケデリック」として服用すれば、その効能と安全性は保証されている。けれども、彼らが自分にとって特別なバンドにならない理由もまた、そこにあるような気がしてしまうのだ。

文:清水祐也

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