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BEAUTY BEHIND THE MADNESS The Weeknd (Universal) by MASAAKI KOBAYASHI
AKIHIRO AOYAMA
September 10, 2015
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BEAUTY BEHIND THE MADNESS

性と倒錯と恍惚への拘泥、決して覚めない悪夢としての生、そして、
マイケル・ジャクソン――いくつもの闇への執着と依存の物語

“リアル・ライフ”と題された曲で、ウィークエンドの最新作『ビューティ・ビハインド・ザ・マッドネス』は始まる。

ウィークエンドことエイベル・テスファイが、どこからともなく現れ、いきなり注目されるきっかけとなったのは、2011年のミックステープ『ハウス・オブ・バルーンズ』。そこでは1曲目から、連れてきたギャルにとりあえずエクスタシー呑み込んでもらわなきゃ何も始まらないような、そんなムード作りに励み、続く“ホワット・ユー・ニード”で口説きにかかり、「キメセク」に持ち込もうとする、一方“グラス・テーブル・ガールズ”ではガラスのテーブルの上に白い粉を用意してパーティ、“ロフト・ミュージック”では超酩酊状態……。

こうした世界(観)は、ある種のラッパーたちによって、これまで比較的平常心のまま、無造作に取り上げられてきたものだったが、ここまで、この世界に浸かったまま、情感を込めて歌い続けるシンガー・ソングライターもなかなかいない。ストレートに女性のことを歌っているのか、ドラッグのメタファーなのか、ドラッグへの愛なのか、わかりにくい表現を多用するあたりもまた、惑溺状態(いったい何に?)の産物と言えるのではないだろうか。

ただし、「キメセク」等によっていっとき現実社会からは逃避できたとしても、虚無感や空虚さに襲われる瞬間だけは避けようがない。その恐ろしい瞬間を埋める目的(作用)が、ウィークエンドの音楽にはあるのかもしれない。この時点で彼の音楽にアンビエントという形容詞がついてくることになるが「ハッと我に返った時に聴こえている音楽」でなければ、空虚さを埋められない、という理由からも、きわめてアンビエントなのである。

これが、続くミックステープ『サースデイ』になると、タイトルとなった「木曜日の女」を登場させ、彼女との関係(出会いや裏切り)が中心に据えられ、彼の世界は「キメセク」以外の領域にまで広がる、と同時に空虚さが埋められてゆく。ここで女性アーティストをフィーチャーしなかったのは、まだ自分内のダークな世界を自分だけで拡張できると思ったからなのだろう。それは、ミックステープ三部作を締め括る『エコーズ・オブ・サイレンス』、さらに、デビュー・アルバム『キス・ランド』でも踏襲される。その一方で、薬物依存傾向は残しつつも、前者以降、以前にも増して、(比較的普遍的な意味での)「愛」について考え、歌う傾向を強める。マイケル・ジャクソンとのチャネリングを行なうようになったのもこの頃で、1曲目から“ダーティ・ダイアナ”をリメイク、後者の“ワンダーラスト”でも、ビートはシンセ・ポップ調ながら、歌い出しからマイケルに近づこうとしている。

『キス・ランド』が、ミックステープ人気をきっかけにライヴ・パフォーマーとしてもブレイクし、カネと名声を手に入れたウィークエンドの第二章が新たに始まったという設定だとしても、彼独特の閉所/閉塞感がはっきりと残っていて、ここまでの4作で、スージー&ザ・バンシーズ、ビーチ・ハウス、コクトー・ツインズ、アルバムではポーティスヘッド等の楽曲を好んで、かつ大胆にサンプリングしていたのも、内向性を派手に響かせるためだったのか、と訝ってしまう。本作『ビューティ・ビハインド・ザ・マッドネス』からの超先行カットとして1年以上も前に発表された“オーフン”も、本来はそのデビュー作収録予定曲だったのではと思えるほどの既定路線。

それが変化を見せ始めたのは“アーンド・イット”だろうか、「ウィークエンド、オーケストラと歌う」とでも言うべき趣向のこの曲は、映画『フィフティ・シェイズ・オブ・グレイ』のサントラ用に書かれたものだ。オーケストラが格調高く、壮大に曲を奏でれば奏でるほど、映画の主人公のゴージャスな生き方に対応するだけでなく、三拍子の拍が弱まるたびに、リッチであるがゆえに彼の抱える空虚さというか空白の部分が見えてきそうで、劇中のダークなSMプレイではないにせよ「キメセク」で虚しさを埋めていたウィークエンドの起用は、きれいに合致している。もっとも、ここで見せつける成功者のドヤ顔は、本来なら前作にこそふさわしいものだったのではないか、とも思われるが、ここでのストリングスのセンスが、アルバム冒頭の“リアル・ライフ”でも有効利用されているように聴こえる。

その“リアル・ライフ”では、母親の言葉、続く2曲目“ルーザーズ”も「負け犬だけがいつまでも学校に通ってる」と歌われ、“ダーク・タイムス”と題された12曲目では哀切を込めて自らの「不遇の時代」を振り返り、ブルーズへの繋がりさえのぞかせている。最新のインタヴューなどでも、エイベルは自らの「キメセク」体験をつまびらかにしていて、前作までは、その密室空間内から歌っていたのが、ここでは、扉をあけ放ち、退けていた現実(過去も含む)にも顔を向けるようになったとも言えそうだ。“ダーク・タイムス”ではエド・シーランを、“ルーザーズ”でも、新進男性シンガー、ラビリンス(迷路?)と競演している。

とはいえ、ウィークエンドにとっての“リアル・ライフ”とは何なのか、謎めいたままだ。密室の扉を開けた彼は、本作でようやく自分の作品に生身の女性を登場させる。そこまではわかる。が、2人は、声を重ねて繰り返す。「自分はあまりに空虚で冷たい人生の中毒になっている」。この声の主は、ラナ・デル・レイ。よりによって、彼女は、この曲を「リアル・ライフは、わたしが見る夢よりも、非日常的」と締めくくるのである。そして、最後の曲で声が聞こえてくる。

こうした倒錯は、“アイ・キャント・フィール・マイ・フェイス”に象徴的に表れている。この曲が、ドラッグのメタファーで覆われていることは、ウィークエンドの過去の曲を知る者には特に驚きはない。が、(ヒット・ソング製造機とも言われる)プロデューサーのマックス・マーティンが提供した楽曲(のビート)が、ディスクロージャーfeat.サム・スミスの“オーメン”の方に思い切り寄せているのを聴けば、ひとまずは違和感を覚えるだろう。思えば、ウィークエンドの歌う歌詞そのものは、ケミカルが暗躍するようなクラブ・シーンの光景と直接的に繋がっているのに、そうしたタイプの曲は、かろうじてカヴィンスキーのシンセがレトロウェイヴな“オッド・ルック(ザ・ウィークエンド・リミックス)”くらいしかなかった。つまり、“アイ・キャント・フィール・マイ・フェイス”の曲内容とビートの組み合わせは、本来なら「当たり前」のものなのだ。それが理由で、この曲が、2015年を代表するポップ・ソングの1曲に成りえたのかどうかはわからない。その支えとなったのは、(過去作から繰り返され)この曲にも出てくるマイケルとのチャネリングなのかもしれない。

その点では、今度は“ビリー・ジーン”を連れてきてしまったかのような“イン・ザ・ナイト”(これも、マックス・マーティン制作曲)などを聴いていると、マイケルとのチャネリングが、本作の裏テーマでもあるかのような気さえしてくる。しかも、ウィークエンドはマイケルの歌の、とりわけダークな部分に興味を抱いているようだ。いや、そこから敷衍するなら、ウィークエンドも、マイケルも、それぞれのダークな資質にこそ、人気の源泉があるのかもしれない。

勿論、ダークと言っても、先に触れた“ダーク・タイムス”しかり、ダークにもいろいろな種類がある。そして、アルバムは、“エンジェル”で、かつて『サースデイ』で描かれたようなグダグダな女性関係への依存を断ってやる、的な意志が天使たちと共に歌われ、一条の光が差し込んできたかのような印象を残して終わる。こうしたクライマックスの創出も、『フィフティ・シェイズ・オブ・ザ・ダーク』とまではいかなくとも、「ダークの諸相」を歌い続け、本作でも歌い続けているウィークエンドならではのものなのだ。

文:小林雅明

ドラッグとセックスと孤独に身を焦がすカルト・ヒーローは
こうしてポップ・スターへと理想的な転身を遂げた

インディR&B界のカルト・ヒーローから、メインストリームを総べる本物のポップ・スターへ。ウィークエンドことエイベル・テスファイによるここ1年の歩みは、そんな風に称するのがふさわしいだろう。昨年9月にリリースされたアリアナ・グランデとのデュエット曲“ラヴ・ミー・ハーダー”を皮切りに、映画『フィフティ・シェイズ・オブ・グレイ』への提供曲“アーンド・イット”と本作からのシングル“ザ・ヒルズ”が、いずれも全米トップ10入りのシングル・ヒットを記録。続く“キャント・フィール・マイ・フェイス”は、自身初の全米1位を獲得したのみならず世界各国で大ヒットし、2015年を代表するサマー・アンセムの一つとなった。それは、ほとんどメディアにも出ることなく、商業的な側面からは明らかに距離を置いていた活動初期に比べると、人が変わったかのようにも思えるほどの激的な変化だった。

とは言え、この最新作『ビューティ・ビハインド・ザ・マッドネス』を聴けば、商業的な成功を経ても、ウィークエンドの本質的な部分は何ら変わっていないことに気付くはずだ。「オレは何も変わらない/何も学んじゃいない」と歌われる“リアル・ライフ”から始まる本作のリリックで繰り返されるのは、セックスとドラッグに溺れながら、愛を与えられそうになると拒否し、それでいて孤独の痛みに頭を抱える破滅的な男の姿。それはミックステープ3部作の頃からウィーケンドが何度も歌ってきた、永遠に変わることのない表現テーマである。“テル・ユア・フレンズ”では、成功に伴い顕著になった周囲の見る目の変化にまつわる言葉が歌われるが、そこでも彼は「オレはあの髪型のニガー/ドラッグをやること、ビッチをファックすること、リアルな人生を送ることについて歌ってる」と自身の表現について要約している。

音楽的にも、けばけばしいパラノイアが支配していた前作『キス・ランド』とは打って変わって、全体に初期のムーディかつシルキーな感覚が戻ってきているのが概ねの特徴。その点では、ミックステープ三部作の大半を共に作り上げたイランジェロが計7曲でプロダクションに復帰したことによる貢献は大きい。また、カニエ・ウェスト、エド・シーラン、ラナ・デル・レイといった大物ゲストも、それぞれに持ち味を活かしつつ、ウィーケンドの世界観に一層の奥行きを付加している。

ただ、本作は単なる原点回帰的な作品だけには留まらず、彼がここ1年で獲得した新たな側面も提示する。その最大の功労者は、“ラヴ・ミー・ハーダー”と“キャント・フィール・マイ・フェイス”によって、ウィークエンドにポップ・スターダムへと通じる道を指し示した大物プロデューサー、マックス・マーティンだ。彼は本作に“キャント・フィール・マイ・フェイス”を含む3曲で参加しているが、それらはどれもウィークエンドらしいメランコリアをベースにしつつ、ビッグ・コーラスを携えたエモーショナルな楽曲。“ダーティ・ダイアナ”のカヴァーに象徴されるように、ウィークエンドは初期の頃からマイケル・ジャクソンをロール・モデルの一つとしてきたが、マックス・マーティンが携わった3曲はその志向性を全面的に開花させた、大文字のポップ・ソングに仕上がっている。

インディペンデントな活動で耳目を集めたアーティストにとって、商業化と自立的な表現の両立は常にナイーヴな問題である。その点において、本作は自分の表現の核たる部分を見つめ直しつつ、より外部へと開かれたプロダクションを用いて全体をまとめ上げた、理想的な「ポップ・スターとしての第1作」と言っていいだろう。

文:青山晃大

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