ロスを舞台にファッション業界の異様なまでの美への執着をホラー映画化した一本。なのだが、それを監督したのが『ドライヴ』(2011)のスマッシュ・ヒット以降ますますそのセンスを研ぎ澄ませてきたニコラス・ウィンディング・レフンであることで、映画そのものがエクストリームにファッショナブルなものになるという逆説、いや狂った相乗効果が起こっている。クラクラするまでの虚飾と、反射するネオンの光とギラつく音響のなか蠢動する女たちの欲望。『オンリー・ゴッド』(2013)を挟んでフェティッシュに突っ走り過ぎているような気もしなくもないけれど、一度ここまでやってしまったほうがいいという判断なのだろう。『LOVE3D』(2015)で主演を務めたカール・グルスマンが出演しているのは、ギャスパー・ノエの後継者なのだとあらためて宣言しているようでもあるが、どこか感傷を強めているように見えるノエよりもじつはウィンディング・レフンのほうがこの先振りきれていく予感もする。田舎から出てきた少女を演じるエル・ファニングの変貌をリアルタイムで見つめる一本でもあり、彼女の挑発的な視線に眩暈がする。
7年前に失踪した女性、プレイリーが発見されるが、盲目だった彼女の目が見えるようになっていた。養父母や人びとは彼女に尋ねる――「どうして目が見えるようになったの?」。まさにその問いが核心にある、謎に満ちたSFミステリー・ドラマだ。そもそも「見える」とはどういうことなのか? わたしたちは本当に「見えて」いるのだろうか? 制作は『ザ・イースト』(2013)で話題を集めたブリット・マーリングとザル・バトマングリ(マーリングが主演も務める)。現在のストリーミング・ドラマが大物監督だけでなく、イキのいい才能をピックアップしていることを象徴する作品だろう。『ザ・イースト』と同様ある種のカルトがモチーフとなっていること、あるいはここ数年のUSアンダーグラウンドの重要なモチーフであるニュー・エイジが見え隠れすることなどを踏まえると、いまのアメリカの不安と混乱が滲んでくるようだ。エピソードを重ねるほどに、謎が解明されるどころか深まっていくのが本作の醍醐味。スピリチュアルな思索に満ちている。
『嘆きのピエタ』(2012)、『メビウス』(2013)、『殺されたミンジュ』(2014)と近作でますます前人未踏の領域にまで足を踏み入れているように見えるキム・ギドクだが、福島原発事故を描いているという『STOP』(2015、日本未公開)と本作と来て、明らかに新境地に立とうとしている。はっきり政治的と言ってもいい。北朝鮮の漁師が船の故障で「南朝鮮」(韓国)に流され警察に尋問される様を描く本作があっけなく言ってのけるのは、資本主義だろうが共産主義だろうがシステムの下で苦しむのはいつだって庶民だ、ということだ。また、本作では欧米の映画においても現在非常に重要なモチーフが取り上げられている……越境だ。たしかにギドク作品にしては直接的なグロテスク描写は抑制されているかもしれないが、しかしこの現実こそがおぞましいのではないか? ひとは自分が生まれる場所を、従わなければならないシステムを選ぶことができない。タイトル・バック、南北を分断する鉄条網(=THE NET)が映される荒涼さに胸が痛む。
なんだかステキな感じの邦題がついてしまっているが、そんな生ぬるい作品ではない。原題は『サフラジェット』。サフラジェットとは、女性参政権運動家のなかの過激派のこと。すなわち、権利を求めるあまりはっきりと暴力を行使した女たちを回顧しているのだ。ビヨンセ、アノーニ、ヒラリーの敗北……2016年はフェミニズムの年でもあったが、100年前の女たちの怒りと闘争を揺れるカメラで生々しく再現するこの映画は、まさに「いま起きていること」としてそれを立ち上げようとする。こんな厳格な作品がキャリー・マリガン、ヘレナ・ボナム=カーター、メリル・ストリープといった人気女優たちを揃えて作れること自体に、女性たちの確固とした意思を感じる(制作陣も女性が集まっている)。クライマックスは詳しくは書かないけれども、彼女たちの活動が世界に広まるきっかけとなったある衝撃的な歴史的事件に「サフラジェット」たちは向かっていく。そうせねばならなかった切迫感を僕はまだ受け止めきれていない。その歴史の重みを、時間をかけて味わうための映画だろう。
2016年は本当に……、本当にたくさんの20世紀の巨人が去った年だった。20世紀が描いた自由と理想主義がどこへ向かうのか、思わずにはいられなかった。けれどこの映画を観て僕は思う……ああ、イオセリアーニがいるではないか、と。82歳となるグルジア(現ジョージア)出身のイオセリアーニの映画はいまなお、どこまでも超然としていて、過激で、そして映画が映画であることの自由をこともなげに示してみせる。中世のギロチン処刑の模様、どこかの戦場、そして現代のパリと場面を移していくこの映画に、明確で強いストーリーラインがあるわけでもないし、もちろん押しつけがましいメッセージもない。そこで生きる人びとのスケッチがまずあり、そしてそこでは(主に権力による)酷いことが起こり続けているのだが、そんなものには縛られないとばかりにドタバタとジャック・タチ風のアクションばかりが繰り広げられる……ほとんどスラップスティックなほどに。画面をやたら出たり入ったりする人びとの躍動が生み出すエネルギーときたら! 若い読者には、ウェス・アンダーソンのアナーキーなヴァージョンと言えばいいだろうか? どんなに現実が酷かろうと、映画は飄々とそこから逃げ回ってみせるのだ。