『ザ・ライダー』(17)のクロエ・ジャオ監督と、ノンフィクション『ノマド 漂流する高齢労働者たち』の映画化権を持っていたフランシス・マクドーマンドの出会いから生まれた一作。そこではセーフティネットが機能せず、リタイアできない高齢の人々が季節労働をしながら車中で暮らすさまが描かれます。ただ、そんな生活を強いる社会背景も映っているものの、フォーカスは彼らの尊厳にある。フランシス・マクドーマンド演じるファーンは配偶者と家を失ったとき、荒々しい自然のなか一人移動することを選ぶのです。彼女がそこで見るもの、出会う人々(実際にノマド生活を送る人々が演じています)は、これまで不可視だったアメリカ。と同時に、それはアメリカ映画で伝統的に描かれてきたフロンティアや、列車に飛び乗るホーボーたちの「じっとしていられない(restless)」気質とも響きあう。アメリカ的なロマンと、資本主義社会による犠牲、そして反資本主義という選択。そのすべてを中国で育った女性が撮ったことに驚きます。クロエ・ジャオの待機作にMCU『エターナルズ』やユニバーサルの吸血鬼プロジェクトがあるのは、ハリウッドがそこに大きな可能性を見ているのでしょう。彼女の映画のノンフィクション的な作りが大作をどう変えるのかに注目。
ごくアメリカ的な映画といえば、A24とプランBによる話題作『ミナリ』も。それなのに大半のセリフが韓国語というだけで賞レースでは外国語映画扱いになり、論議を醸しています。ストーリーはリー・アイザック・チョン監督の子ども時代がベース。アメリカに移住したジェイコブ(スティーヴン・ユァン)は韓国からの移民向けの農作物で一山当てようと、アーカンソーに農場を買います。慣れない土地に引っ越した一家の苦闘と日々の生活。子育てを助けるためやってきた祖母スンジャ(ユン・ヨジョン)、それに監督の分身のような末っ子デビッド(アラン・キム)がユーモラスな逸話の中心です。ただジェイコブのアメリカン・ドリームはタフな状況にさらされ、彼の本心に妻は失望し、悲劇も訪れる。シンプルながら骨太な物語が魅力です。韓国らしい「家族」の強さと、それぞれの「個人」の希求の対立。それをアジアからの移民の視点で描くところに新しさがあります。
絶好調の韓国映画界からは、若い女性監督が次々に出てきているのもいい。彼女たちが最初のモチーフに選ぶ「子ども時代」を見ていると、これまでなかったようなエモーションが湧いてきます。それはノスタルジーだけでなく、自分にも確かにあったリアルな感情がアートとして昇華される新鮮さ。『はちどり』(2018)や『わたしたち』(2016)同様、ユン・ダンビ監督による『夏時間』にもそれを感じました。父と弟とともに夏休みの間、祖父の家に住むことになったオクジュ(チェ・ジョンウン)。そこへ叔母ミジョンも転がり込んできます。母は不在でも、そこに集まった家族にはひとときの団欒が生まれる。でもオクジュの目には大人の欺瞞や狡さも映っていて、それをどうにもできないもどかしさが、自分や周りを傷つけてしまう。家族と自分の関係をどう捉えるか、オクジュがそこに気づく瞬間が、何も起きない夏休みを特別なものにしています。雑然とした家や庭の佇まい、スイカや冷麺など食卓の風景は国や時間を超えて郷愁を誘うはず。
サバービア・ホラーや異星人乗っ取りSFは珍しくないものの、『ビバリウム』にはいまの世代にとっての恐怖が吹き込まれています。それは、家を持つこと。マイホームの夢はもはや非現実的になっていて、たとえ無理をして手に入れても一生ローンに縛られる。そこでの暮らしも育児も悪夢感を増すばかり。そんな世代が消費主義社会に抱くディストピア感、不条理感がストーリーを動かします。トム(ジェシー・アイゼンバーグ)とジェマ(イモージェン・プーツ)が不動産会社に案内されてやってきたのは、画一的な家が並ぶ郊外の住宅地。その家の一つに置き去りにされた二人は、どうしても住宅地の外に出ることができない。味のない食料はアマゾンの定期便のように段ボール箱で配達され、すぐに赤ん坊まで箱に入って届けられます。トムとジェマはその状況にどう対応するのか? ビバリウム(生態系を観察する飼育箱)に入れられた生物と、その観察者が反転していく展開が不気味。セットや美術がシュールで、いろんな映画やアートの引用に溢れています。監督は『ブラック・ミラー』シリーズなどを手がけてきたアイルランドのロルカン・フィネガン。
いま最高に旬のスター二人が演じる、スタイリッシュで官能的な室内劇。ドラマ『ユーフォリア』のクリエイター、サム・レヴィンソンが少数のスタッフとともにロックダウン中のカリフォルニアで秘密裏に撮った一作——と聞いたせいか、期待値は上昇する一方。ゆえに、実際に観るとゼンデイヤとジョン・デヴィッド・ワシントンの演技と存在感、美しい家での演出は楽しんだものの、脚本の未熟さがどうしても気になりました。とにかくセリフが多すぎる、直接的すぎる。たとえば同様の作品を撮り続けてきたデュプラス兄弟がNetflixのために製作した『ブルージェイ』(2016)と比べるとわかるように、ここには余白と緩急がない。言葉とエモーションももっとレイヤーを持たせないと、緊張感が保てません。とはいえマルコムが映画監督で、恋人マリーを題材にした映画を撮ったばかり、という設定は興味深い。監督とミューズ、作品と批評というテーマに現代的なアイデンティティ・ポリティクスが加わっています。振り返ると、『ユーフォリア』は対象が「いまのティーン」であるところが鍵だったんだな、とわかる一作。