2017年ベスト・ミュージック・シティを選ぶとするなら、それはアトランタではなく、間違いなくロンドンだろう。そこでの主役は誰か。どんな時代も英国ポップ音楽を更新させてきたジャマイカ移民たちの末裔だけではない。ナイジェリアやガーナからのアフロ・ディアスポラの二世、三世たち。そして、彼らの同胞たるワーキング・クラスの白人たち。つまり、人種混交の街、ロンドンそのものが2017年の主役だったのだ。そうした混交の成果は、2010年代初頭からロンドンのアンダーグラウンドで培われてきた新世代アフロ・ビート/アフロ・ポップと、2016年夏のドレイクの“ワン・ダンス”以降、完全に世界言語となったバッシュメント(ダンスホール・レゲエ)をひとつにしたアフロ・バッシュメント。海の向こうのトラップを経由した、その新たなジャンルが「ハイプか? 時代の徒花か?」と囁かれた2017年春を経て、それを時代のシグネチャー・サウンドとして確固たるものにしたのが、この22歳のグライム・ラッパーによる正式な1stアルバムだ。移民問題と雇用機会の減少を契機にしたブレグジッドを経験した翌年におけるしかるべき帰結。本作は生まれるべくして生まれた2017年英国を代表する傑作。と同時に、アルバムの幕開け、1曲目のビートは音色こそ現代的だが、90年代ゴールデン・エイジのヒップホップそのもの。つまり、ラップがもはや国籍や民族によって規定されるアートフォームではないことを本作は高らかに宣言する。ポップ音楽がそれぞれのフッドをリプリゼントするローカルな表現であると同時に、ユニバーサルな言語であることを証明した1枚。トラップ特有の1拍目の重低音キックが消え、ベース・ラインが復活した2017年を象徴する1枚でもある。このアルバムに触れもしない音楽メディアは今すぐこの世から姿を消した方がいい。(田中宗一郎)
まるでバケツの中にでもいるように薄汚れた雨が降っては溜まる、ノース・ロング・ビーチの街で、ヴィンス・ステイプルズはずっとその外側に広がる世界へ思いを馳せていた。地元やヒップホップ・サークルの慣習は、お前を狭苦しい場所に縛り付けるだけじゃないのか? 俺はそんなものに興味はない。欲しいのは金や車や良い女じゃなく、どこまでも広がる自由と可能性なんだ――。魚は自分が住む水槽のサイズに合わせて大きくなるという「デカい魚の理論」には、彼のそんな思いが込められている。それをリリック以上に雄弁に語るのは、地元西海岸の新鋭ザック・セコフを筆頭に、フルーム、ソフィーら世界各地の若手エレクトロニック・プロデューサーを招き、インダストリアルやテクノへと大胆に振り切った尖鋭的なクラブ・サウンド。現行ヒップホップの慣習から大きく逸脱し、枠組を拡張する近未来的なビートに促されるように、後半に進むに従い彼の言葉はフッドを超えて、自身の内側と外側へ双方向の拡がりを見せていく。そして、最後に再び彼の上に降り注ぐ雨。だが、それは以前の視界を遮る濁った雨ではない。七色に煌めいて無限の可能性を乱反射させる、音の雨だ。(青山晃大)
ファーザー・ジョン・ミスティの曲を全く聴いたことがない人でも、通算3作目となる本作2曲目の“トータル・エンターテイメント・フォーエヴァー”が終わる頃には、この人(2016年からNetflixで観られるようになった)『ブラック・ミラー』好きでしょ、と感じるかもしれない(という点で2017年らしい作品とも言えそうだ)。そのドラマは、テクノロジーの発達と依存を背景に持つ、今現在とかなり近い未来(数年後から数十年後?)に生きるわたしたちの人間性に毎回揺さぶりをかけてくる。で、次の曲を聴くうちに、最初の予感が確信に変わる。と、同時に、そこでは、物憂げなピアノを基調とした室内楽のように端正な音楽が、いつの間にかオーケストレーション(なんとギャヴィン・ブライヤーズが関与)の音の壁に取り囲まれている。壮大さをまとえばまとうほど、彼の内省的な視点あるいは自己分析が手前にせり出してくるのは、13分以上に及ぶ“リーヴィングLA”に顕著だ。もっとも、ポップ・カルチャー全般に潜む病理を、時に引用地獄のような状態にもなりながら突っつくうちに、「社会批評についての皮肉っぽい社会批評」が曲になったりして、無意識に『ブラック・ミラー』の領域に迷い込んだと言うべきか。何度でも聴ける作品だ。(小林雅明)
リリックよりも、曲以外での喋りのほうがマジうけるカーディ・Bがブレイクした2017年。dick やらpussyやらが歌詞に出てくるのは、彼女と同じだが、自分の声と歌に託した言葉、それが平明ゆえに深い表現となり、微妙な心模様も掬い上げ、女性たちにもっとも信頼されるアーティストとなったのが、このセザだ。シングル化された“ラヴ・ガロア”、“ザ・ウィークエンド”、“スーパーモデル”に共通しているように、本作収録曲中での彼女は、サイドチック、つまり、(交際)相手の男に、彼女とは別に本命の女性がいる設定に置かれていることが多い。このあたりも、同性リスナーの「あるある」意識に働きかけ、確かな説得力を生んだはずだ。そんなセザが、2016年に、ライター及び客演者として参加した“コンシダレーション”で始まる『ANTI』では、結果から言えば、強調されたのは、リアーナの規定路線寄りのサウンドのほうだった。それが、ここでは、王道ポップ/R&Bサウンドの「アンチ」とまでは呼べないものの、オルタナティヴではあろうとする迷いのなさが、音数は少ないけれど多様な楽曲群にはっきりと表れている。(小林雅明)
「俺たちは大丈夫だ」。アフリカン・アメリカンの連帯を象徴するアンセムとなった“オーライト”で、ケンドリック・ラマーが同胞たちにそう語りかけてから、二年の時が経つ。その間に、世界は「大丈夫」なんかじゃなくなってしまった。極右の台頭、リベラルの敗北、フェイク・ニュースの蔓延とポスト真実。この狂った世の中で、私たちはどうすれば大丈夫でいられるのか? 〈i-D〉のジャーナリストからそんな問いをぶつけられ、ケンドリック・ラマーはこう答えた。「俺はいつだってコミュニティへと立ち戻る。シンプルなことさ。」そう、ケンドリック・ラマーにとってこの『ダム』は、一義的にはヒップホップというコミュニティ、コンプトンというコミュニティへと立ち戻ったラップ・アルバムだ。以前と比べると、トラックは極めてシンプルで、ゲストも最小限。ここには『グッド・キッド、マッド・シティ』の胸がすくような青春譚もなければ、『トゥ・ピンプ・ア・バタフライ』の豊かな歴史とそこから導き出される教訓もない。分かりやすい起承転結の代わりにあるのは、善と悪、弱さと邪悪さ、虚栄心と謙虚さ、愛と欲望、ありとあらゆる相反性に引き裂かれながら、複雑にこんがらがった世界と懸命に向き合う男の姿だ。良心が呼び込んだ死と、奇跡に導かれた生。その二つを起点としたストーリーは曲順を逆にした再生によって反転し、そこからパラレルな意味が立ち上がる。一見シンプルだが、複雑怪奇な意味と未だ解き明かせない謎を内包したこのレコードは、今この瞬間に我々が生きる世界の在り方そのもののようではないか。そんなアルバムを、ケンドリック・ラマーは一言、こう名付けた。ダム、くそったれ。(青山晃大)
2017年 年間ベスト・アルバム
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