僕はロックのライターではなく、ジャズのライターをやっている。普段はロバート・グラスパーだの、デヴィッド・ボウイの遺作『★』に参加していたサックス奏者のダニー・マッキャスリンだのについて書いているが、レディオヘッドのことを考えることはとても多い。というより、今、ジャズについて考えている人の多くはレディオヘッドのことを避けて通れなくなっている。
そもそもレディオヘッドというバンドが90年代以降の音楽シーンにとって最も重要な存在のひとつだということに異論がある人は少ないだろう。好きとか嫌いとかではなく、どのジャンルを中心に聴いているからとかでもなく、とりあえず、どんな聴き方をしていても、嫌でも名前が入ってくる存在だったのは間違いない。数多くの音楽家が影響をストレートに公言していたし、彼らの曲は多くのカヴァーを生んでいる。それが世代やジャンルや人種を問わないのはとても面白い。言うまでもなく、「ジャズ」もそこに入っているからこそ、僕はここ10年ほどやたらレディオヘッドのことを考えている。
そんな様々な評価や再評価を経て、リアルタイムでの熱狂というレイヤーをひとつ剥ぎとって、改めて、聴き直してみたら、いくつか気付いたことがある。ここではそんなことを書いてみようと思う。
初期の1993年の1stアルバム『パブロ・ハニー』、1995年の2ndアルバム『ザ・ベンズ』では名曲はあれど、「狭義のロック」サウンドという感じだったのが、1997年の3rdアルバム『OKコンピューター』からはロックから逸脱していくような動きを見せ始める。いわゆるロック・バンド的な形態ではなく、各メンバーが様々な楽器を演奏し、それらの音を変調させたりすることで、独特の音像を生み出しているこのアルバムは、ロックの金字塔のひとつだ。さらに、2000年の4thアルバム『キッドA』では、IDMやエレクトロニカ、テクノなどの要素を取り込み、ラップトップを使い、サンプリングやポスト・プロダクションを織り込んだサウンドで世界を驚かせた。そして、2001年には『キッドA』と同じ時期に録音された音源を『アムニージアック』というタイトルで発表している。
ここまで聴いてみて思ったのは、レディオヘッドは様々な変化をしてきてはいるが、あくまで「ロック・バンド」であり、厳密に言えば「歌もののロック・バンド」なんだなということだった。
例えば、同じようにポスト・プロダクションを駆使したり、テクノやドラムンベースなどから影響を受けたプログラミングと生演奏を併用させたり、ミニマル・ミュージックやミュージック・コンクレートなどの現代音楽やカンやファウストなどのクラウトロック、ジャズなどのアイデアをロックに持ち込んだり、楽器を音響的に奏でたりするバンドだと、シカゴ音響派とかポストロックと言われていたトータスやアイソトープ217°などがレディオヘッドよりも先に存在していた。
彼らは便宜上「ロック」という名前がついていたが、音楽自体はロックの枠を遥に超えていて、とてもロックとは呼べないようなものだったと思う。あと、トータスに関して言えば、最終的にアルバムに収録されている楽曲を改めてバンドが演奏することなんて微塵も考えてもいないようにも思えたのも印象的で、あくまで録音芸術だと割り切っていたところもあるように見えた。
それに比べて、レディオヘッドはあくまでロックの中にいて、ロックの枠組みを拡張しようとしていたように見える。「ロックの中にどうやって留まるか」、そんな縛りを感じるくらいにどれを聴いてもロックなのだ。
そして、『OKコンピューター』や『キッドA』には実験的に拡張を試みたが故の「いびつさ」や「不完全さ」がある。「ロックであること」と「ロックを拡張すること」、その対立が生み出すテンションがこの二つのアルバムを完成度がもっと高いはずの後のアルバムよりも特別なものにしているのは間違いない。そして、それらを最終的にはアレンジを変えて、ギター・ロック的なフォーマットに置きかえてライヴで演奏するということも考えていたように思える。彼らのそういった立ち位置こそがこのバンドを特別なものにしていたようにも思う。
そんな『OKコンピューター』『キッドA』のころのレディオヘッドのことを考えると、ブラッド・メルドーというジャズ・ピアニストが2002年に『ラーゴ』というアルバムをリリースしていることを僕は必ず思い出す。
“パラノイド・アンドロイド”の秀逸なカヴァーが収録されているこのアルバムはブラッド・メルドーがプリペアドしたピアノやホーン・セクション、様々なパーカッションなどを使い、ラップトップやエフェクターなどを使わずに音響的なサウンドに挑戦した作品だが、おそらくこれは『OKコンピューター』的な手法のメルドーなりの解釈でもあり、『キッドA』でのポスト・プロダクションによるサウンドへの生演奏によるチャレンジなのではないかと思う。
レディオヘッドがロック・バンドであることと、同時代の他ジャンルの音楽のプログラミングやポスト・プロダクションへの意識の間で揺れながらもロックの中に留まるために行っていたアイデアが、生演奏へのこだわりが異常に強く、「ジャズ」という枠組みに対する縛りも強いジャズ・ミュージシャンたちを刺激したことは想像に難くない。
ちなみに同じようなことをやっていたジャズ・ミュージシャンはヨーロッパにもいて、スウェーデンのエスビョルン・スヴェンソンはメルドーとほぼ同時期どころかむしろ早いタイミングで『OKコンピューター』的サウンドに生演奏で挑んでいた。こういった実験の成果は今でもジャズ・シーンに大きな影響を与え続けている。
ブラッド・メルドーというピアニストからレディオヘッドというバンドを再考してみると、もう一つ見えてくるのが、トム・ヨークというソングライターが作る楽曲の魅力であり、それらの多くがあくまで「歌モノ」である点だ。
ブラッド・メルドーは前述の『ラーゴ』以外でも幾度となくレディオヘッドの楽曲を取り上げていて、ほぼ定番のレパートリーになっている。メルドーの初期の代表作のひとつにもなっている『ソングス:アート・オブ・ザ・トリオ Vol.3』は、ジャズ的には新たなスタンダード・ソングを生みだした重要作であり、ソングスというタイトルがついている通り、「歌もの」の取り上げ方が実に面白い作品でもある。
メルドーが取り上げたことでスタンダード的に(ジャズ・シーンでも)有名になった曲はいくつかあるが、その中でもレディオヘッドの楽曲は重要な位置づけにある。マイナーなメロディが中心でエモーショナルではあるが、昂揚感のない楽曲たちは、ビバップ的に徐々にビルドアップしていって盛り上がっていくようなスタイルから離れて、よりクールな質感のサウンドを求めていた21世紀のジャズ・ミュージシャンたちにとって最高の素材になった。
そういったチャレンジをジャズ・ミュージシャンがしていた一方で、レディオヘッドは生演奏とエレクトロニクスやポスト・プロダクションとの融合の回答を求めて粛々と進化していたように思う。
とはいえ、シカゴでトータスがやっていたようなサウンドとは全く違うベクトルで進んでいた。トータスが『TNT』で、アイソトープ217°が『ジ・アンスタブル・モレキュール』でやっていたように生演奏とテクノロジーを聴き分けられないほどに調和させ、更にあらゆるジャンルを取り込みながらすべてをシームレスに融合させるようなやり方とはまるで違う。あくまでもロック・バンド的に歌が中心にあり、そのジャンルや手法が入り混じった違和感を敢えて刺激として残しているのがレディオヘッドのやり方なのかなと思う。
ただ、その中でも、徐々に洗練され、違和感の扱いが巧妙になっていったし、リズムの扱いに関しては作品を追うごとにレベルアップしていった。
『アムニージアック』では『キッドA』と同じ時期に録音されたとは思えないほどに、生演奏とエレクトロニクスの壁を感じなくなっていた。特にドラムの使い方が印象的で、露骨な打ち込みのビートとバンド・サウンドを混ぜるような強引さはなくなりつつも、敢えて、混ざりものであることをエッジに変える彼ららしさが見えるのが面白い。
『キッドA』の“モーニング・ベル”に聴けるようなシンプルな人力テクノっぽいリズムは悪くはないが、今聴くと割と凡庸にさえ聴こえてしまうが、同じような雰囲気のリズムものでも『アムニージアック』での“アイ・マイト・ビー・ロング”になると生のドラムとプログラミングが並走しているような感触があるし、次元の違う立体感を伴っていて、レディヘッドならではの個性が生まれ始めている。
さらに『イン・レインボウズ』での“15ステップ”になるとよりナチュラルに時に打ち込みと生を切り替えたような瞬間が出てきたりするし、『ザ・キング・オブ・リムス』ではかなり大胆にポリリズムを前面に出して、リズム構造自体を複雑にしたうえで、ベースラインで打ち込み感をかなり強く出しながら、より生感が強い音色の生ドラムと打ち込みのドラムを組み合わせて、バンド感と打ち込みのグルーヴの良さを共存させている。
『アムニージアック』を起点に打ち込みのグルーヴと人力のグルーヴの双方の質感の良さを活かすように併用しながら、グルーヴを追求し、リズムを進化させてきたレディオヘッドの変遷を聴くと、2013年にトム・ヨークがフリー&ジョーイ・ワロンカーという敏腕二人のリズムセクションを従えてアトムス・フォー・ピースを立ち上げ、『アモック』をリリースした経緯も見えてくる。
そこではアフロ・ビートを含め、複雑なリズムを取り入れた自身の楽曲を、強い昂揚感を伴った、しなやか且つ強くファンキーなグルーヴで鳴らしてみたかったトム・ヨークの思いが見えるような気がする。ただ、トムのメロディがフィジカルの要素が強いマッチョなバンドの演奏と合わさった時にケミストリーが起きていたかというと正直何とも言い難い。彼のメロディにはレディオヘッドが実践していたような生演奏と打ち込みを完璧には溶け合わせずに並走させ、拙さにも似たいびつさと熱を帯びすぎないクールな質感を共存させたビートの方がフィットしている気がするのだ。
つまり、レディオヘッドにはレディオヘッドというバンドにしか生み出せないマジックがあった。おそらくそれはトムのメロディの在り方とも関係があるような気がしている。
詳しくは、続く後編で書いていきたいと思う。
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レディオヘッドはジャズではない――彼らが
同時代のジャズ作家に与えた多大な影響から
ジャズ評論家、柳樂光隆が検証する:後編