SIGN OF THE DAY

シャムキャッツ interview part.1
暮れていく夕日に幸せを感じる人にも
気持ちが沈んでいく人にも、優しさと
厳しさを届けるポップを目指して
by SOICHIRO TANAKA March 06, 2015
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シャムキャッツ interview part.1<br />
暮れていく夕日に幸せを感じる人にも<br />
気持ちが沈んでいく人にも、優しさと<br />
厳しさを届けるポップを目指して

笑いがとまりませんね。バンドの凄まじい成長に同時代的に立ち会うことが出来るというのは。当初から、『AFTER HOURS』の続編的な位置付けの5曲入りEP――とアナウンスされていたこともあって、どこか「付け足しっていうか、ちょっとしたヴァリエーションっていうか、オマケ程度のものなんじゃないの?」という印象を持っているリスナーもいるかもしれません。でも、安心して下さい。てか、驚いて下さい。5曲入りながら、この『TAKE CARE』はアルバムとしての統一感を持ち、彼らの新たなモードの一端を刻み込んだ確固たる一枚。

収録曲が5つということもあり、以下の対話の中では各曲の音楽的な側面、歌詞の内容について、かなり根掘り葉掘り話題にしているので、各論はそちらをどうぞ。なので、ここではざっくりと位置付けていくことにしましょう。総論はあまり好きではありませんが、今回は乱暴に行きます。そういうモードなんです、今。

「躍動感あるメロウネス」という点では、『AFTER HOURS』とは明らかに地続き。しかしながら、彼らシャムキャッツはどの楽曲においても、これまでにない新たなトライアルに取り組んでいます。では、この『TAKE CARE』における一番のトライアル、それは何かと言えば、構成の部分にあります。所謂J-POPの世界ではプロダクションと並んでもっとも軽視されがちな「構成」です。構成? メロディやコード進行、リズムが重要なのはよくわかる。でも、音色だの、プロダクションならまだしも、構成がとても重要というのはよくわからん、と思われる方もいるかもしれない。でも、3分なり、4分なりの曲から我々リスナーが感じるフィーリングという部分において、実はこの構成というのはもっとも重要だったりするんですよ。

80年代後半以降の日本のポップ音楽――所謂J-POPの特徴のいくつかは、海外のポップ作家が使っているヴァース、コーラス、フック、ミドル・エイト、ブリッジといった言葉ではなく、Aメロ、Bメロ、サビ、大サビといった言葉を恒常的に使うことで出来上がってきた、と言えなくもない。そう、もっとも端的な例は、所謂サビ原理主義ですね。イントロもヴァースもブリッジも言わば、刺身のつま。ミドル・エイト(=大サビ)はコーラスをさらに盛り上げるために機能する。すべてはコーラスをどかーんとエモーショナルに盛り上げるために存在するという、世界に誇るJ音楽におけるとても特異な構成です。でも、70年代までの歌謡曲には、今のようなサビ原理主義というのは一般的じゃなかったんですよ。今ほど画一的ではなかった。「♫ソー・ラーイジング・サーン」。

それに対し、そもそもコード進行よりもリフ主体で作られている欧米のロック音楽の場合、構成はとてもシンプルになります。リフ主体のヴァースの繰り返し+ちょっとした展開。もっともわかりやすい例は、キンクスの“ユー・リアリー・ガット・ミー”辺りでしょうか。こうしたスタイルはそもそもは12小節のブルーズ形式のヴァリエーションということです。“ブルー・スウェード・シューズ”でも“カモン・エヴリバディ”でも“ツイスト&シャウト”でも“ザットル・ビー・ザ・デイ”でも構いませんが、黎明期のロックンロールにはコーラスと呼べるパートは存在しません。至極乱暴に言えば、こうした形式こそがロック音楽なわけです。

でもって、話が長くなりそうなので、いきなり時代が飛ぶんですけど、そう考えると、90年代初頭――つまり、J-POP黎明期とほぼ同じ時代ですね――ピクシーズに影響を受けたニルヴァーナが同じ4つのコードを繰り返しながら、音量と音圧、音色の変化によってヴァースとコーラスを作り分けたのは、かなりの発明だったんです。“スメルズ・ライク・ティーン・スピリット”を思い出して下さい。極端な音圧の変化によって、「コーラス>ヴァース」という明確なヒエラルキーを生じさせ、コーラスにおける表現を過剰にエモーショナルに組み立てる。これは画期的なアイデアでした。良くも悪くも。

このスタイルをもっとも極端な形で引用したのがブラーの“ソング2”。これは明らかに彼ら流のグランジ批評とも言えます。性格悪いですからね、デーモン・アルバーンは。この曲、コーラスに一部展開があるものの、同じ4つのコードを繰り返しながら、半ばパロディのように過剰に「コーラス>ヴァース」というヒエラルキーを強調した作りになっています。このヴァース/コーラス/ヴァースというスタイルは、90年代オルタナティヴの特徴のひとつでもあります。でもって、かなり長い期間、その影響下にあった大方のゼロ年代以降のJ-ROCKというのは、このスタイルから抜け出せずにいた/いるというわけです。

あるいは、現在のアメリカのメインストリームのポップ音楽における流行は、1曲全体を通して、限られたルートの円環で構成されていて――実際、マーク・ロンソンの“アップタウン・ファンク”なら2コード、テイラー・スウィフトの“シェイク・イット・オフ”なら3コード、ジェシー・Jの“バング・バング”はほぼ1リフです――リズムの抜き差しとウワモノの変化によって、コーラス(あるいは、フック)を際立たせるというスタイル。これはファンクの発展系でもあるヒップホップ、あるいは、ダンス・ミュージックからの影響の強さを物語るものだと言ってもいいかもしれません。ただ和声的な視点からすると、J-POPのように過剰にドミナント・モーションを利用することで感情的に揺さぶりをかけてきたりはしないので、いい意味でエモーショナルさに欠けているんです。まあ、至極乱暴に言えば、クールだってことですね。

いずれにせよ、コーラスに比重を置いた構成というのは、何よりも過剰に感情に訴えかけることに向いているということ。となると、『AFTER HOURS』以降のシャムキャッツ――「曲と歌詞によって何かしらのストーリーを語ろう」とするスタイルにはあまりそぐわない可能性がある。現在の彼らの「躍動感あるメロウネス」という方向性にとっても、同じことが言えます。つまり、この『TAKE CARE』における「新たな構成の模索」というトライアルは、とてもロジカルなプログレッションなわけです。

ひとつだけ具体例を挙げておきましょう。それ以外は以下の対話を参照して下さい。5つのトラックの中でももっとも代表的なトライアルが見て取れるトラックが“CHOKE”。この曲はコーラス(=サビ)を持たないAB形式なんですね。2つのパートが代わる代わる繰り返される構成です。わかりやすい例を挙げると、坂本九の“上を向いて歩こう”とか、美空ひばりの“真っ赤な太陽”とか、ビートルズの“オー・ダーリン!”とか。勿論、この2つのパートをそれぞれヴァースとコーラスと呼ぶことも可能です。ただ、今どきの大半のJ-POPやJ-ROCK、あるいは、“スメルズ・ライク・ティーン・スピリット”のようにヴァースが脇役、コーラスが主役という主従の関係はなく、あくまでそれぞれのパートが並列に扱われている。

これ、ちょっとだけ構成/曲の展開に意識的になって、実際に聴いてみて下さい。出来ることなら、今すぐに『TAKE CARE』を手に入れて、実際に確認してみて欲しい。構成そのものが過剰にエモーションを爆発させることを抑制している分、AとBそれぞれのパートやその時々の演奏とアンサンブルにおける感情的な機微がとても際立って聴こえるんです。言葉のニュアンスもとてもキメ細やかに聴こえてくる。詳細は以下の対話に譲りますが、いや、実際、この“CHOKE”は素晴らしい。初めて聴いた誰もが「え、これがシャムキャッツ?」と驚くこと必至の仕上がりながら、すべてが最高。新たな傑作の誕生と言っていいと思います。

では、話題を少し変えましょう。この『TAKE CARE』という作品全体の感情的なモードの話です。手法として、形式として、曲構成に様々な変化があるのはわかった。それによって感情的な表現がきめ細かくなったことも何となくわかった。じゃあ、感情的なモードとしてはどんな作品になっているのか。お答えします。端的に言うなら、とても儚げながら、穏やかな陽光のきらめきを感じさせた『AFTER HOURS』に比べ、少しだけ不穏なものになっています。

前作同様、穏やかな光のきらめきを感じさせる作品なのは間違いない。ただそこに、うっすらとした影が忍び込んでいる。確実に。何よりも、件の“CHOKE”――シャムキャッツにしては珍しくマイナー・キーを持ったこの1曲の存在が大きいんですけど。吉田秋生の作品とのアナロジーを用いるなら、『AFTER HOURS』が『海街diary』だとすれば、この『TAKE CARE』に収められた5曲のキャラクターたちの日々の営みには、『BANANA FISH』や『YASHA-夜叉-』にあったような、避けがたい影が刻々と忍び寄る足音が感じられる作品なのです。あくまで、うっすらと、ですが。

そうなった理由について仮説を立ててみましょう。昨年2014年の春にリリースされた『AFTER HOURS』以降、中東全域は勿論のこと、世界はさらにかなりえらいことになってきています。と、敢えて他人事のような書き方をしてみました。19世紀以来のエネルギー問題を軸に、そこに民族や宗教といったアイデンティティの問題が複雑に絡み合って、一元的にはとらえられないいくつもの複雑な対立が顕在化している。かつてサイクス・ピコ協定によってバラバラにされたクルド人3000万人の民族自決の願いを、大国と企業が利用しようとしていることなどはその最たる例かもしれません。

冷戦終結以降、例を見ないほどのいくつもの対立はアメーバ状に増え続け、しかも、その対立構造は複雑を極め、状況はどこまでもカオティックになってきている。でもって、勿論、我々の暮らすこの島国も、そうしたとても複雑なパズルの1ピースを確実に担っているわけです。どれだけ鈍感な人間でもそうした実感をさすがにひしひしと感じているはずです。で、この『TAKE CARE』には、そうした時代の不穏なムードに対するリアクションが感じ取れるのです。

ただ、この作品を語る/楽しむ上で、もっとも重要なポイントはそこではない。だって、時代のムードに呼応した作品を作るなんて、作家としては当たり前。むしろ、彼らシャムキャッツはそうした時代のムードに飲み込まれてしまうような作品は作らなかった。それこそが重要なんです。

だって、現実をなぞるような表現なんていらないじゃないですか。そんなの嫌と言うほどわかってるんだから。それに、現実に対する対処療法のような表現もいらないじゃないですか。安っぽい慰めとか、気晴らしとか。言わんや、途方に暮れた作家の苦悩とか諦めとか、ホントどーでもいいんです。犬も食わない。そういう作品を作ってしまう作家というのは、表現そのものの可能性をみくびっているんですよ。おっと、口が滑った。もとい。いや、現実とやらにあてられすぎて、創作の目が曇らされているんですよ。

では、ここでひとつ質問です。

サム・クックが、ジョン・レノンが、テイラー・スウィフトがあっけらかんとした表情で「IT'S GONNA BE ALRIGHT」と歌った時の説得力って何だと思います? 世の中は解決不能に思える問題で山積みなのに。大丈夫なわけないのに。でも、何故だと思います? 彼らが心の底からそう信じているから? そうなるように願っているから? 馬鹿だから? 違います。答えは簡単。彼らがそんな風にあっけらかんと歌うことで、実際にそうなっていくからです。そう言わないことで、誰もがもうダメだと思ってしまうことが許せないからです。だって、アホらしいじゃん、そんなの。笑えないよ。

そもそも表現というのはすべて絵空事です。嘘と言ってもいい。実際、何の役にも立ちやしない。すべからく表現者なんて誰もがピエロなんです。もっとも実は科学者だってそうなんですけどね。我が友人ニコラ・テスラなんてまさにそう。では、何故、そんな絵空事を必死になって作ろうとする作家や、それをどこまでも必要とする俺のような人種が存在するのか? その理由も簡単。現実と呼ばれているものがあまりに退屈だから。だからこそ、表現というのは思わず気持ちがわくわくするような絵空事でなければならない。リアリズムほど退屈はものはないんです。表現が現実を模倣してどうすんの? 馬鹿らしい。現実なんかより表現の方が偉いんだから。今になって、「いや、実は恐竜には毛が生えていたんですよ」と大真面目に言い出す科学者より、おそらく誰もがその存在を信じていない妖怪ばかり書き続けた水木しげるの方が偉いに決まっている。だって、確かなものなんてないんだから。何ひとつとして。

現実なんかより表現の方が偉い、そう断言する理由。サンプルをひとつ挙げてみましょう。ようやく公民権法が可決されたばかりの60年代半ば、それまで誰もが想像もしていなかった白人と黒人のキス・シーンをジーン・ロッテンベリーが全米中に放映したことが、どれだけ重要な歴史的事件だったか。それがどんな風に現実に作用したか。我らがマーティン・ルーサー・キング・ジュニアなら、わかってくれるはずです。そう、我々には何よりも絵空事が必要なんです。想像力という名前の。

少なくとも俺は、正義と悪だの、テーゼとアンチ・テーゼだの、メインストリームとカウンターだの、状況を理解するために手っ取り早く二項対立を生み出して、さらに認識をややこしいことにしてしまう紋切り型の安っぽい想像力だけはゴメンなんです。そうした退屈な二項対立をあっけらかんとデ・コードしてしまう新しいテーゼに触れたい。絵空事でいい。きらきらと光り輝くような理想的なヴィジョンを見たい。読みたい。聴きたいんです。それに刺激され、鼓舞され、何かしらのヒントを受け取ったと錯覚した我々ひとりひとりが実際に世の中を変えていく姿が見たい。だって、世界がそんな素敵な馬鹿で溢れて、実際にその姿を変えてきたことは歴史が証明しているんだから。今、忘れられているだけ。だって、変化はそこからしか始まらない。現実に最初に揺さぶりをかけるのは表現の仕事なんです。だからこそ、そんな絵空事を夢見る作家がそれを可能にしようと懸命になってる作品が読みたいし、見たいし、聴きたい。この『TAKE CARE』のような。

つまり、この『TAKE CARE』は、「今、この2015年に表現は何をすべきか?」という命題にもっとも真摯に向かい合った作品だと言えます。受動的ではない、と言い換えてもいいかもしれない。ここには本来、作家なら当たり前に持っているべき「表現が現実に先立つことで、実際に現実を変えていく」という矜恃がある。

細かい説明なんかしません。きちんと聴けばわかる。もしかすると、一部の馬鹿な音楽語り屋にはわからないかもしれない。でも、あまり直接的な説明はしたくないんです。以下の対話が何かしらのガイドラインになればいいな、と思いつつも、この拙文も含め、余計なノイズになってないといいけど、という不安で一杯。もうすでに余計なことばかり書きすぎているしさ。だって、作品から作家自身やファッキン・ジャーナリストが思いもしなかった文脈を汲み出すことが、皆さんリスナー/読者にとっての最大の楽しみであり、最大の喜びなはずだから。ただ、頭の悪すぎる、エゴイスティックで、ステレオタイプな文脈だけは勘弁して欲しい。マジで。

だってさ、我々は映画『アメリカン・スナイパー』が右からも左からもイラク戦争を称揚するための作品だと受け取られたり、映画『永遠のゼロ』が日本アカデミー賞を総なめにするという呆れてモノも言えない愉快な世界に暮らしているわけです。言わんや、この島国には、現行の政府が集団的自衛権の行使を推し進める上で『アメリカン・スナイパー』には学ぶべき点があるなどとヌカす輩さえ存在する。「え、そこがポイントなの?」つって腰を抜かさないように注意して下さい。まあ、力のある表現はいつだって身勝手な形で利用される運命にあるんですよ。俺だっていつもやってるだろうしさ。悲しいかな。でも、俺ならこれを指して、過酷な現実なんて言葉は使わない。退屈な現実と呼びさえすればいい。へっちゃらなんです。くわえ煙草と口笛さえあれば、さらりと受け流すことが出来る。

ただ、こうした世界的な知性の現状からすれば、この『TAKE CARE』という作品は、誤解される以前に、少しばかりわかりにくいかもしれない。淡泊に感じられるかもしれない。何故なら、彼らシャムキャッツは敢えて、わかりやすい感動も直接的なメッセージを掲げることも周到に避けようとしているから。おそらく現実の退屈さに我慢できなくなった気の短い連中の中には、「もっと直接的な表現の方が求められている」と言う輩もいるでしょう。でも、そんなのシニシズムだ。下らない。今の長渕剛を聴いても、俺にはため息しか出ないよ。てか、『逆流』のヴァイナル持ってたんだ、俺は。売ったけど。

少なくともシャムキャッツは、この『TAKE CARE』において、すべてのリスナーの中にある知性と聡明さと良心に訴えかけました。表現が政治家や広告屋や活動家のようなわかりやすいスローガンを掲げたりしたら、終わり。すべての市井の人々の知性と聡明さと良心を軽んじたりしたら、それこそ終わりなんです。つまり、彼らシャムキャッツは、誰よりも「あなた」に期待しているんですよ。

乱暴に言うなら、この『TAKE CARE』という作品は、現実という名の下に君を不安にさせる退屈な風評に惑わされるな。手に届く場所のきらきらと輝く確かな喜びと苦い悲しみをしっかりと抱きしめろ。何が現実なのか決めるのは君だ。だって、君には愛するヒトとモノ、そして歌がある。という作品でもあります。この『TAKE CARE』という作品には、市井の人々の生活や想像力が退屈な現実に屈することはない、そして、表現の力は市井の人々の生活や想像力をどこまでも後押しすることが出来る、という矜恃があります。しかも、余計な使命感とか、ヒロイズムに足を取られることなく、のんびりとした表情を忘れていないところが絶妙なんです。イカすな、まったく!

「我々が暮らすグローバル社会においては誰もが間違っている」というごく当たり前な前提は忘れられがちです。それがゆえに、誰もがことさら自らの正義を主張することで、さらにいくつものアメーバ状の争いが世界中に巻き起こっている2015年。奇しくもシャムキャッツと曽我部恵一という別々の作家が、どちらも必死に怒りをこらえながら、「踊りませんか?」と歌いかけたというシンクロニシティ。これに心の底から打ち震えているのは、きっと俺ひとりではない、そう願っています。どんな酷い時もクールでい続けること、と同時にちょっとした心遣いを忘れないこと。その、今もっとも大切なことを彼らの作品は伝えています。

これから先、クリント・イーストウッドの新しい映画を何本観れるかはわからない。トマス・ピンチョンの新しい小説しかり。ボブ・ディランの新しいアルバムしかり。近い将来、間違いなく彼らの新しい作品に接することは出来なくなる。レナード・ニモイはもういない。羅針盤は次々と失われていく。それを想像するだけで、少しばかり空恐ろしいんです。どんな酷い時代にもクールであること、そして、スプーン一杯の心遣いをポケットに忍ばせることの重要性が忘れられてしまうかもしれない。それがとても恐ろしいんです。

でも、もしかすると、2015年の春の到来を待ちながら、あなたはこう感じているかもしれない。この美しき国ニッポンにはシャムキャッツがいる。と、この島国の為政者の秀逸なコピーを引用するという余計な皮肉をまじえつつ、拙稿を終わらせることにしましょう。リヴ・ロング・アンド・グラスパー。君に幸あれ。




●今回の『TAKE CARE』という作品は、『AFTER HOURS』の続編ということなんですけど、どういう意味において続編なのか、まずはざっくりとレジュメしてもらえますか?

夏目知幸(以下、夏目)「『AFTER HOURS』は、ひとつの街を音楽で表現するっていうもので。いろんな人がいて、いろんな視点があって、っていう。でも、まだ描き切れてない人たちがいるなって思ったところがあって。それに、同じ景色を見てても、違う感情になっている人間っていっぱいいるだろうし。たとえば“AFTER HOURS”っていう曲だと、高速道路の音を聞いて寝息みたいだなって思ったりして、女の子のこととか考えたりしてる。まあ、そんなに切羽詰ってはいない、ちょっと疲れてはいるけど――っていう奴の歌だったと思うんです。でも、同じ音を聴いてイライラする奴もいるだろうし、もうここにはいたくないって思う奴もいるだろうし。ちゃんとそういうのも描かないと、作品として実は完成してないんだろうな、と思って」

●高架下の騒音に対して、ポジティヴに感じる人もいれば、ネガティヴに感じる人もいて、いろんな捉え方が存在する。それを書くことによって、どういった効果を狙ったんだと言えますか?

夏目「すごい大きなことを言えば、諦める必要はないっていう感じ。過ごすっていうか、生きるには値するところにいるはずだよな、って気分になってくれたらいいなって」

●自分とは違ういろんな立場や考え方の人間を見た時に、めげさせられることもあるけど、同時に、「ああ、なるほど。それもありなんだ」って思わせたいっていう部分もありますか? 要するに、自分自身と違うアングルを提示された時に、むしろ可能性が見えるようにしたいっていう。

夏目「近い、うん」

●ソングライターの中には、「俺には世界がこういう風に見えるぞ、こういう見方がひとつ正しいんじゃないか?」っていう表現をする人もいるけど、それとは違うってことだよね?

夏目「そうですね。勿論、自分の考えを映画監督のように役者たちに反映させている部分はたくさんあるけど。今って、自分の考えをストレートに言うっていうスタイルでやっても、すべてがスローガンみたいになっちゃう気がするんですよ。でも、それは一番有効な手ではないような気がしてるんですよね。たとえば、アンチ・レイシズムの人たちがいるじゃないですか? 彼らのやってることは正しいとは思うんですよ。人種的なこととか、お国柄で人を判断して排除していくような人たちを、『いや、お前らは間違ってる』って言っているんで。極端に言えば、暴力には暴力をっていう形で対抗していくのは、まあ、なくはない手だと思う。けど、ちょっと嫌だな、っていう気持ちだけで、その人たちを支持出来ないっていうのは誰の心の中にもあると思うんですよね。そういう気持ちを発生させたくないっていうのがすごくあって」

●そこはデカいよね。確実にある。

夏目「プラス、自分がなにかアクションを起こすと、それがどんなアクションであっても、力のある人たちにとってプラスの行動にしかならないイメージがあって。この間のISISの事件にしてもそうで。政府が悪いって発言しないで、ただ彼らが死んだってことを尊ぶ行動をしたとしても、全部あっちの術中にハマっちゃってる気がするんですよね。たとえば、尊ぶための集会を開いたとしても、『こんなに尊んでいる人たちがいるんだから、やっぱり政府としてアクションを起こさなきゃ』って風になっちゃうし。『これはもう八方塞がりだな』と。要するに、行動っていうところに自分たちが移ったとしても、何もいい方向に作用しないんじゃないか、っていう考えがちょっとあるんですよね。そういう時に、一番表現として有効なものって考えると、やり方としては前作から続けている、ただそこにいる人たちの本当に一番何でもない瞬間をなるべくリアルに描く。それがいいんじゃないかなっていうところで、こういうスタイルになってるっていう」

●なるほど。そういった夏目くんの意識は主にリリックに反映されていると思うんですけど、サウンドについてはどうですか? 「ポップ・ソングを書く」っていうのが、『AFTER HOURS』の時の意識的な選択だった。で、今現在、ポップ・ソングを書くこと自体がシャムキャッツの方向性なんだ、っていう確信はありますか?

夏目「うん、そうですね。しっかりしたポップ・ソング作ったな、っていう感じがしてるんで。そういう意味で、人をわざと驚かす要素は入れてないですし。前作でやったことをさらにレヴェル高くしてやったってイメージなんで。自分たちはどういうことが出来るのか、もしかして前作はまぐれだったんじゃないか――みたいなことも、これを作ることによって確実なものに出来るかなっていう」

●ソングライティングの部分でポップ・ソングを書くっていうディレクションに向かったと同時に、プロダクションや演奏の部分においてもポップ・ソングを作ろうという意識がより明確になっている気がしてるんですけど、まず藤村くんで言うと、「スネアよりもキックよりも、ハットなんだ」っていうのが以前より明確にあったんじゃないですか?

藤村頼正(以下、藤村)「前よりはそうですね。ちょっと気をつけてるところです。サウンド的に、高い部分が前回あんまり気に入ってなかった部分があって。それに、ポップ・ソングを作るんだろうなっていうのがあったんで、立体感を出そうという意識があったかな、っていう感じですね」

●前作からの流れで、メロウでスロー・テンポなものになってくると、細かく刻む時の金物がより重要になってきた?

藤村「そうですね。あんまりやり過ぎてもウザいし、もうちょっと頑張るくらいがいいのかなって」

●全体としては、隙間もかなり意識しました?

藤村「はい、それはしましたね。あとは、結構、『AFTER HOURS』のバスドラの運びが似たようなのが多かったかな、っていうのがあって。それはよくも悪くも。で、似たようなものを使いつつ、もっと豊かにしたいなって、バスドラにおいては思っていました。それは結構出来たなかって」

●実際、やっぱり今、『たからじま』と聴き較べたりすると、「これ、別のバンドですね」っていう。

全員「ハハハハッ!(笑)」

藤村「まだまだ。でも、ゆったり成長出来ればいいと思ってるんで」

●その方がリスナーを置いてけぼりにしないから。あと、これを聴いて思ったのは、「あ、大塚くんはシャムキャッツのメンバーになったんだな」っていうね(笑)。

夏目「アハハハハッ!」

大塚智之(以下、大塚)「嘘ぉ?(笑)」

藤村「ああ、そうですね。4人の統一感が今までで一番あるんじゃないかな」

●やっぱり、『たからじま』までだと、明らかに異物である大塚くんのベースっていうのが、当時のシャムキャッツのカラーになってたんだけど、ここではちゃんと4分の1になってる。大塚くんが前に出たことで、むしろパーツになったっていう。そういう実感はありますか?

大塚「どうなんですかね? みんなが求めてくれたからっていうのもあるかもしれないです。『たからじま』の時と変わってないと言えば変わっていないんですけど、当時はああいう風にしないとロックすぎてポップにはならないかな? っていう感じがあったし。みんながロックな感じをやってるから、僕はそれを後押しするけども、ロックすぎるとちょっとな、っていうところもあったんで、整える方に向かってた。でも、『AFTER HOURS』とか『TAKE CARE』は、みんなが整えてポップスにしてくるから、僕は逆にもうちょっとラフな感じでやってるんです。自分の好きな感じとか、元の感じは崩さずに、バランス取って。僕はちょっと乗れる方にしようかな、ってバランスですね」

●じゃあ、『AFTER HOURS』と『TAKE CARE』との間で、意識の差みたいなのは?

大塚「レコーディングの話なんですけど、普通はドラムとベースとリズム・ギターでクリック聴いてやるんですけど、今回はクリックはまったく聴かないようにしてて。『AFTER HOURS』は、一応クリックも聴いてたんですよ。でも、もう聴かなくていいやと思って。さらにそのままのノリっていうか。それをやってる感じですね」

●じゃあ、『たからじま』、『AFTER HOURS』、『TAKE CARE』で言うと、今が一番自分のやりたいスタイルでやってる?

大塚「まあ、どういうグラフかわからないけど、みんながこうなってるから(下を指して)、僕がこうなってる(上を指して)みたいな感じになってて。結局、バランス的には同じなはずなんですけど。ある意味では、そこはバンドとして一貫しているはず。だから、やりやすいとか、やりにくいとかは……別に『たからじま』がやりにくいな、と思ってやってたわけじゃ(笑)」

●勿論、『たからじま』が悪いってことじゃないから!(笑)

大塚「まあ、そうですね。いろんなことがしやすくなったのかもしれないですね。むしろ、メロディックなことをやってるかもしれないけど、押さえる点は結構スタンダードというか。『たからじま』は逆に、『これしかないだろうな』っていう点しか弾けない感じだったんですけど、『AFTER HOURS』とか、さらに『TAKE CARE』とかだと、いろんなヴァリエーションがあるから。それのバランスを俺一人じゃなくて、みんなで、というか。リズムに関してもそうだし、音の運びに関しては俺と菅さんだと思うんですけど。『じゃあ、僕はこっちやるから、そっちやって』っていうのが、よりお互いわかって。そこの抜き差しをどうするか? っていう話になってるから。そういう楽しさはすごいありましたね。それがポップ・ソングだと思うし」

●じゃあ、菅原くん――って、尋問形式になってるな(笑)。

菅原慎一(以下、菅原)「でも、こうやって訊いてくれるのはありがたいですね。そうしないと、あんまり話さないっていうか」

藤村「そうそう」

●だったらいいけど(笑)。今回はなによりも、深いディレイと深いコーラスをかけた音色が耳を引きました。シングル・ノートでもコード弾きの時でも。これはあんまり使ってこなかったスタイルだと思うんですけど、どういったところから出てきたんですか?

菅原「多分、音色でいう新しさは、個人的にはそんなにないはずで。言ってみれば“渚”くらいから、シングル・トーンでリヴァービーなサウンドは、わりと自分の中で得意かな、っていうのはあったんで。たとえば『AFTER HOURS』で言えば“SUNDAY”とかもそうだし、そこは変えたというよりはブラッシュアップして、延長線上でよりよくしていった、っていう感じです」

●なるほど。でも、以前と同じスタイルのリヴァービーなサウンドとは言っても、やっぱり全体のアンサンブルにおいて全然聴こえ方が違いますよ。

菅原「ああ、そうですね。まあ、それはそうですよ」

全員「ハハハハハッ!」

菅原「細かいこと言うと、本当にそれは。トーンの感じも、だいぶ曲によって変えてるし、アンプも変えてたりしてるし。でも……あっ、そうだ、ギターを二年前くらいに変えたんですよ。ギターとアンプを変えて。で、機材を一新して作ったアルバムが『AFTER HOURS』で。正直、『AFTER HOURS』では弾き方がわかんなくて、ストラトでシングル・コイルの。それが、この一年間でいろんなところでライヴやって、海外のバンドとかも観て、いろんなレコードも聴いて、やっとわかってきて。いい音が出せるようになったな、っていうのがありますね。今使っているギターに合う音色とか、効果的な音色とか。それはエンジニアの(柏井)日向さんの私物を借りながら、手伝ってもらいながらやったって感じですね」

藤村「俺は、この(ミニ・)アルバムで一番好きなのは、菅やんのいい音色がバンッと全部出てるっていう。それがいいなと」

●そう。だから、音像的には後ろに引っ込んでるんだけど、あの音色でちゃんとあれだけアタック感が出てるギターの鳴りって、そんなにないから。普通はもっとストラトキャスターらしい、バランスがいい音が出ちゃうんだけど、ちゃんと6つの弦が別個に聴こえるっていう。

菅原「ああ、ほんとですか」

●うん。ジャズマスターとかテレキャスターみたいな、ちょっと野蛮なギターの方が、しっかりと弾けば、アタック音と6弦の差がきちんと出る。だから、ストラトって難儀なギターなんですよ。使いやすいから、気分よく弾けたなと思うけど、聴いてみるといまいち、っていうことも少なくない。

菅原「そうそう。ライヴは難しいんですよ、この辺は特に。でも、今回はそもそも、自分の中で『AFTER HOURS』でやり残したことがめちゃくちゃ実はあって。結果的に出来上がった盤に対しての満足度はすごい高いんですけど、あまりにも当事者じゃなさすぎる感覚があって。まあ、〈サイン・マガジン〉でも話したと思うんですけど。それはバンド・メンバーとしてというよりも、多分、ギタリストとして、プレイヤーとしての問題で。だから、これを作り始めた時から、『そこを挽回してやろう』ってずっと思ってたんですよ。おおまかなコード・ワークは夏目も持ってくるんですけど、それを一から作り始める時に……ビル建てる時に、まず土を耕して、土台固めて、柱建てて、ってやるじゃないですか? その土台作りの段階から、バンビ(大塚)と二人で、『どういう網を張っていくか?』みたいなのは――言葉にしては言ってなかったですけど、絶対それはお互いの音を聴いて作り上げたし。なので、今回は多分、“KISS”以外は結構、ポップスを作るにあたっての骨になる作業も出来たのかな、と思います。しかも、それをギターでやるっていう。そう、ギターで参加したいっていうのが今回はあって。キーボードもほぼ弾いてないんです。そこはもう大きな違いというか、実は」

●うん。“KISS”と“CHOKE”には、それぞれフルートやピチカートの目立つリフがあるから、それに耳を奪われがちだけど、全体としては『TAKE CARE』は明らかにギター・レコードだと思いますよ。

夏目「うん」

藤村「そこは俺もそう思ってた」

菅原「そうなんですよね。でも、難しくて。ギター・レコードって思われたくない気持ちがあるんですよ」

●(笑)なるほど。

菅原「それは多分、自分がギタリストが嫌いだから、っていうのもあって。この前、踊ってばかりの国と対バンして、ギターの林(宏敏)くんと話してたんですけど、二人ともギタリストが弾くギターがあんまり好きじゃない、って話が出て。ヴォーカリストが弾くギターが好きだよねって。多分それって、歌がすごくいいバンドのギタリストに必要な条件なんじゃないかな、と思って。だから、夏目の歌が乗るってことも考えつつ、でもギターの音が鳴ってるっていうのをやってたのかな、って感じがしますね」

●ただ、『AFTER HOURS』の時に少なからず感じていた、ギターに関するわだかまりみたいなものは、これでフラットになった?

菅原「ああ、そうですね。でもフラットに戻ったというか……意外と初めてなのかも。『たからじま』まではわりと好き勝手弾いてたけど、アンサンブル無視してたかな、っていうのはちょっとあって」

夏目「全員が無視してる感じだったよね、でも」

●その通り!(笑)

夏目「ンフフッ」

大塚「それを俺が整えてたんだよ、だから」

夏目「(笑)」

●いや、勿論、それがよかったんだよ?(笑)

菅原「ずっと自分で、バンドの中での個人の役割を考えてる、って言い続けて来てるんですけど、それが歪んだ現出の仕方をしていた部分がやっと整ってきたかな、っていうのはあって」

●わかりました。じゃあ、夏目くん。

夏目「はい」

●ソングライティングとサウンドの方向性が呼び込んだところもあるとは思うんですけど、『AFTER HOURS』よりも、夏目くんの歌い方がさらにソフトで、メロウに、そして若干キー高めになっている。これは、何がそうさせたんでしょうか?

夏目「本当に単純なところから言うと、『AFTER HOURS』を作った後から、女性シンガー・ソングライターの曲ばっかりを聴いてたんですよね。なんか、あんまり男の人の曲が聴けなくて。それが多分、素直に出たというのがひとつ。あと、男の人の曲だと、声が低くて渋い曲の方が好きだな、って思ってたんですよ、最近は」

●たとえば?

夏目「ニック・ケイヴも好きだし、昨日も車で聴いたトム・ウェイツとか、ビル・キャラハンとかですね。低いじゃないですか? 男性的なよさを歌で出すなら、あれくらい低い方がいいかな、っていうのがあって。で、年齢的にも、そろそろそっちの感じも出たらいいとは思うけど、まあ、無理だし。って考えると、むしろ自分から女性の方に寄っていってもいいのかなっていうアイデア。“LAY DOWN”とかやってみて、前の(アルバムの)曲で、そういう方向性もあるぞ、もう一度試してみるか、っていう。曲作ってる時に、もうちょっとキーを落としてもいいかな、とは思ったんですけど、アンサンブルとの兼ね合いもあって、いや、これは落とさない方がいいかな、だったら俺が上げとくかって感じでした。それこそ、傍から聴くと、『たからじま』の方がバンドってものを主体にして作られているイメージで、『TAKE CARE』に向かうにつれて、もっとソング・オリエンテッドになったって捉えられると思うんです。パッと聴きは。でも実際、僕としての意識は逆で。『たからじま』の方がもっともっとソング・オリエンテッドで、どんどんバンドっぽくなってきてる感じがするんですよ。だから、歌の方も、自分の歌いやすいキー……がなったりとか、好き勝手やれるエリアから、バンドがやりたい音像に合わせてキーが変わってきたかな、っていうイメージですね」

●うん、この『TAKE CARE』に関しては、確実にバンド・レコードだという気がします。

夏目「あと、そもそもの話でちょっと付け加えておきたいのは、この作品で初めて、構成っていうものから曲を作っていったっていうのがあるんですよ。『たからじま』の時は、無の状態から、『こういう感じだよね』っていうのですべてを作っていった。すごく変なバランスで成り立ってるから、なにかを変えたら全部が崩れるし、また違うバランスで作らないといけないっていう。でも、『AFTER HOURS』では、コード進行とリズムに対する意識が生まれて。で、次に取り掛かるとしたら、やっぱり構成かなと思って。A、B、Cでもいいし、A、A、B、Aでもいいし。とにかく、そういうポップスの構成を一回全部勉強してからバンドに落とそうと。“CHOKE”とか“WINDLESS DAY”でも、そういう話は(メンバー間で)したかな。わりと全部において、最初の構成のイメージは共有していたはずなんです。それがあったから、わりと作りやすかったっていう」

●なるほど。そういった形で夏目くんが曲を持ってくるっていうのは、三人からしても以前とは違うっていう実感はありました?

大塚「『AFTER HOURS』でやれなかったのは構成だから、次は構成をちゃんとやりたいって話は、夏目と俺は話した気がするけどね。みんなで言ってたっけ? 忘れちゃったけど」

藤村「俺は、そうハッキリとは聞いて……でも、話の流れの中でちょっと出てきたけど」

夏目「スタジオでは一応、最初書いたよね。構成こうしたいとか、ポップスではこういうのがあるとか」

菅原「今回はDTMの導入も結構デカいと思ってて。DTMで視覚化されてるから、(構成を組み替えるのも)楽だったっていうのもあるし。あらかじめ戻る場所で旗が立ってるから、『じゃあ、戻ってここだけ変えよう』っていう話が一番出来たかな、って感じがしますね」

大塚「確かに構成っていう枠で考えてると、どんな構成でも出来るって気持ちが」

夏目「あと、俺、一小節っていう単位をやっと理解したっていうのもあって」

全員「(笑)」

夏目「それがコントロール出来るようになりましたよね。『あっ、なるほど、8、8、4、8。で、一個足すとこれが出来るのか、ここだけ5』とか。そういうのも初めてわかったんで」

●いろんなものが本当に意識的だよね。

夏目「前作は、こういうもの作って受けなかったら、もう道はないな、って気持ちで作ったから、あんまり自分たちの作品について考えながら作ってはいなかったんですよ。目の前にあるタスクをこなしていって、なるべくやりたいことをやる、っていうので集中していった。けど、今回は結構意識的だったし。パソコン使って、振り返って、やり直したりとか。だから、まとまってるんですよね、頭の中で。やりたいこと、言いたいことが。なんで、馬鹿みたいなこと言うと(笑)、曲聴いてもらえばわかるかな、って気はしてる」




「シャムキャッツinterview part.2
最高に踊れるロックンロールがやりたい、
でも、まだその前に鳴らすべき音。それが
淡いきらめきに影が差す『TAKE CARE』」
はこちら。


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