昨年の末に、いきなりという感じで〈サインマグ〉編集部からお題をいただきました。現在のアメリカのポップ・カルチャーにおけるフェミニズムというテーマで、何かしら軽めのエッセイを書いて欲しい、と。うーん、なるほど。確かに2014年という年は、今一度フェミニズムという言葉について再考をうながすような事件に事欠かない年ではありました。その結果、日本の女性誌でも次々にフェミニズム特集が組まれたりもしています。しかし、そこでちょっと気になるのは「ライオット・ガール」の扱いの軽さです。スリーター・キニーが10年ぶりに再結成して新作をリリースし、そのヴィデオをミランダ・ジュライが撮り、若い世代に語りかけようとしている今、あの90年代のパンク・ムーヴメントこそジャストな参照点になるはずなのに。この20年ほどの間に、ときに古臭くなり、ときに枝分かれして足を引っ張り合い、ときに言葉として嫌われたりもしている「フェミニズム」ですが、だからこそ、〈サインマグ〉編集部からも「2015年におけるポップとフェミニズムの関係、その見取り図のようなものが読みたい」というお題が出たのでしょう。スリーター・キニーが再結成し、新作をリリースすることの意味を炙り出しつつ、そこには「出来ることなら呑気で楽しい原稿が読みたい」という注釈までついていました。
これはどう考えても厄介ですし、「そんなに呑気な話じゃないんだよ!」と思いつつも、実は女性誌の読者以上に〈サインマグ〉を読むような今の日本の男の子に知って欲しいことだったりもするので、頑張って書いてみることにしました。よければ最後までお付き合いください。
主な登場人物:
スリーター・キニー
(90年代初めにオリンピアで始まったムーヴメント、ライオット・ガールの後期に結成されたバンド。のちにポートランドに拠点を移し、7枚のアルバムを発表する)
ミランダ・ジュライ
(ライオット・ガールに感化され、ポートランドでファンジン、パフォーマンス・アート、映画を制作。現在は主に作家、フィルムメーカーとして活動)
『セックス&ザ・シティ』の4人
(キャリー、ミランダ、サマンサ、シャーロット。ニューヨークを舞台にしたドラマで2000年代の自由な30代女性のタイプを代表)
リナ・ダナム
(2010年の映画『タイニー・ファニチャー』が評価され、HBOで4人の20代女性を主人公にしたドラマ『ガールズ』をクリエイトする28才。もうすぐシーズン4が始まる)
グレタ・ガーウィグ
(俳優・映画監督・脚本家。アーケイド・ファイア“アフターライフ”のヴィデオで踊っていた人)
ビヨンセ
(おそらく女性シンガーのパワー・ランキングでここ10年トップにいる人。2013年末にアルバム『ビヨンセ』発表)
テイラー・スウィフト
(2014年の5thアルバム『1989』がアメリカ最大のセールスをあげたアーティスト。25才)
ロード
(2013年の1stアルバム『ピュア・ヒロイン』が大ヒットしたニュージーランド出身の18才)
タヴィ・ゲヴィンソン
(ファッション・ブロガーからオンライン・マガジン〈ルーキー〉を創刊、現在は俳優としても活動。18才)
エレン・ペイジ
(俳優、27才。2007年『ジュノ』の演技で各賞受賞)
エマ・ワトソン
(俳優、24才。2001年『ハリー・ポッター賢者の石』のハーマイオニー役でデビュー)
キャスリーン・ハンナ
(ライオット・ガールの中心的存在、ビキニ・キルのシンガー。のちにル・ティグラとして活動。2013年には彼女のドキュメンタリー『The Punk Singer』が発表された)
「私たちは勝つし、負けるし、いっしょになってはじめてルールを破る/いっしょになってはじめてルールを作る」――“サーフェス・エンヴィ”
やっぱり改めて思うんですけど、90年代のライオット・ガールがよかったのは、女性のパワー・ステイトメントでありつつも、脆さを内包する「強がり」だったことだと思うんですよね。そこが当時、メディアに取り上げられるようになって「トラウマを抱えた女の子たち」なんてひどい見方を生んだゆえんでもあるわけですが、むしろアンダードッグであることに怒りと誇りの両方を抱えていたところに、フェミニズムとパンクとアバンギャルドなアートを一気にリヴァイヴァルさせた鍵があったような気がします。少女らしい服やティアラを着けていたのも、別に「カワイイものが好き」ということではなく――勿論それもありますが――歳をとって成長すると「ガール」ではなく「ウーマン」、さらには「ワイフ」や「マザー」でなければならなくなる、そのことに対する反抗だった。そして、自分の弱さを強さに変える試みだった。
オリンピアで始まったライオット・ガールに影響され、それが終わりを迎えていた95年にポートランドで暮らすようになったミランダ・ジュライは、昨年4月のインタヴューでこう答えています。
「当時の私の世界は、女の子たちが音楽をやって(私さえザ・ニードっていうバンドにいた)、自分で録音して、同じ家で暮らして、お互いに付き合って、変な服を着て、盗んで(政治活動として)、ファンジンと爆弾と爆弾作りについてのファンジンを作ることで回ってた。(中略)ライオット・ガールはつねに女の子たちをパワフルに感じさせてくれる仮面だったの――その下にはただの女の子の素顔があった」
親、上の世代、メインストリーム、そして「周りと違う」とされることへの反抗のためのコミュニティ。すっかり意味を変えてしまった今の「ガーリー」の語感に引っ張られがちですが、「Riot Grrrl」の「rrr」は「グルルルルル」という威嚇の唸り声だったのです。
「私はアンセムじゃない/昔はそうだった/私は私の歌を歌ったけど、今はアンセムなんてない/私に聞こえるのはただ/ひびきとこだまだけ」――“ノー・アンセムズ”
「私たちは絶対に値札をちゃんと見ない/払う段になるとツケは高い/私たちは安売りが大好きで/安い値段も大好き/いい仕事がなくなった今/ひどいことになるね」――“プライス・タグ”
ミランダはスリーター・キニーと、ポートランドで出会いました。そして彼女たちの10年ぶりの新曲“ベリー・アワ・フレンズ”のリリック・ヴィデオでは、仮面をかぶって出演しています。でもその仮面は奇妙にも、おじいさんのような異形の仮面です。
思えばこの10年間で、フェミニズムそのものは受け継がれつつも、その周りではいろんなことが変わっていきました。女性が「ガール」と自称するのも、いくつになってもカワイイものを愛するのも受け入れられるようになったし、むしろその意味でライオット・ガールや「ガーリー」は消費された。逆にサードウェイヴの後、フェミニズムという言葉のイメージは悪くなる一方だった気がします。「異議申し立てをする女」「自己主張する女」みたいな煙ったさにとどまらず、なんだか当たり前に「男嫌い」だと思われたり。昨年明らかにその流れが変わる前は、多くの女性と同じくレディ・ガガだってビヨンセだって、フェミニズムという言葉から距離を置こうとしていました。おそらくは女性のライフスタイルが多様化するうち、もっとも極端でネガティブなところを言葉として受け持ってしまったのでしょう。そして多様化自体はポジティヴだったのですが、女性のチョイスや考え方がどんどん枝分かれするうちに、ぶつかり合いも起きるようになりました。
わかりやすい例を挙げると、1998年~2004年のテレビ・ドラマ『セックス&ザ・シティ』みたいなものでしょうか。あれはざっくり分けると「キャリア志向」「結婚願望」「自由奔放」「恋愛志向」みたいな女性たちがそれぞれニューヨークで暮らすスケッチなのですが、今見るとみんなお金はたっぷりあるし、いざこざはあっても仲がいいし、そのへんがファンタジーとして非常にうまくできています。リアルじゃないですよね。2010年代に出てきた、同じニューヨークが舞台のリナ・ダナムのドラマ『ガールズ』とも、グレタ・ガーウィグ脚本の映画『フランシス・ハ』とも大違いです。二作とも、仲のいい女友達だからこそ「違い」が立ちはだかることや、何より不景気でカツカツな世の中で若い女性がどう自立するか、という根本問題にぶち当たるところがミソですから。ともかく、不景気とともに保守化する2000年代以降、フェミニズムはいったんお手上げ状態になったようにも見えました。
「ここにいる誰も気づかない/どんなアウトラインも私たちをとどめきれない/別に新しい波なんかじゃない、ただのあなたと私」――“ア・ニュー・ウェイヴ”
でも、2014年。おそらくきっかけとしては同性婚やLGBT運動の高まりがセックス・ポリティクスの議論を活発にしたのでしょう。男女、女性、ジェンダーの意識が高まりました。ポップ・カルチャーではそれに触れるのがトレンドっぽくなった、というほうが近いかもしれません。
小説と映画の『ゴーン・ガール』のヒットもその一例です。あれは女から見たミソジニーや男が女に見るファンタジーを俎上にあげつつ、カリカチュアと現実を行き来するエンタテイメントですよね。まあ、本音がぶっちゃけられてるところは面白いんですが、本質的なネクスト・ステージに向かうというより、落ちどころは「男は火星人、女は金星人」的なままだったりします(余談ですがあの映画で一番すごいのはベン・アフレックの配役。リンクレーター監督『Dazed & Confused』のムカつく先輩以来のハマり役でした)。
VMA2014でビヨンセが「FEMINIST」の電飾を背負って歌う姿も圧巻でしたね。ただそのあと、ジェイZ、それにブルー・アイヴィーと三人でステージに立ちにっこり笑うビヨンセはすべてを手に入れる超人的パワー・ウーマン以外の何物でもなく、「これがロール・モデルなのか」とやや不安を感じたのは事実。でも、フェミニズムのイメージにおける転換点を象徴していたのも事実です。
もう少し共感しやすいのは、テイラー・スウィフト、ロード、タヴィ・ゲヴィンソン、リナ・ダナムといった10代、20代の女性たちでしょうか。それぞれがそれぞれの分野で等身大の作品を作りつつ、共感しあい、仲間となり、おたがいにメインストリームできちんとビジネスとアートを両立させるインスピレーションと支えになっている。
前述のミランダ・ジュライのインタヴューを引用すると、彼女は今一番ライオット・ガールに近いものとしてタヴィのオンライン・マガジン〈ルーキー〉を挙げつつ、ライオット・ガールとの違いを語っています。
「見かけも違うし、れっきとしたビジネスなのよね。広告もあって、組織されてて、大人も働いてる。最近のキッズの多くがそうなんだけど、タヴィは親とも仲がいい。だから反抗/政治がもっと洗練されてて、具体的。彼女と彼女の友達は、(インターネット経由で)歴史やメインストリームのファッション、音楽、映画を意識しながら、若い女性であることの視点を慎重に提示してる。愛してるものが多いの。ライオット・ガールでは、私たちは数少ないものを愛して、よく知らないものの多くを拒否してた。でも抑圧的な国では、実際にライオットすべき対象がある。自分の父親よりずっと大きくて、抑圧的な父親像が」
アメリカと日本では、今、ライオットするべき対象はどう違って、どう同じなのでしょう。考えさせられます。
「私はアンセムが欲しい/絶対的な一つのアンセムが/答えと勢いが欲しい/沈黙にリズムを感じるために/暴力じゃなく武器が/力と力となるもとが欲しい」――“ノー・アンセムズ”
もう少しシリアスな2014年のカルチャーでは、若い女性のステイトメントとして、二つ重要なスピーチがありました。ひとつは人権運動のカンファレンスでカムアウトしたエレン・ペイジ。そして、国連本部でスピーチしたエマ・ワトソンです。どちらも個人の体験に裏打ちされた感動的なものなのでぜひ全文を聞いてほしいのですが、大々的にフェミニズムを打ち出すというよりは、もともとフェミニズムが持っていた意味――性別や人種やマイノリティへの差別をなくし、「男らしさ」「女らしさ」に縛られずに生きていけるようにしよう、と語りかけています。
実際、エマ・ワトソンが取り上げているのですが、今はむしろ男性への抑圧が大きい。「男は妻子を養わなきゃいけない」とか、「ヘタレるな」とか、女性以上に伝統的なタスクを背負わされているかもしれません。それが軽くなるだけで、男性だけでなく女性もずっと楽になる。男のプライドに配慮するのって、女にとってほんと大変ですからね。
フェミニズムという言葉の代わりに、こういったすべては「ジェンダー・イーコアリティ」と呼ばれるようになってきています。女性だけの問題じゃないんだよ、みんなが解放されるべきなんだよ、と。でも日本語だとそのまんま「男女平等」とか訳されてしまいそうで、怖いです。決定的に古い。英語でも日本語でも、もうちょっといいネーミングはないものか、ここ半年くらいずっと考えています。国連がキャンペーンを始めた「HeForShe」もイマイチしっくりこない。なんといっても、こういうことは言葉で決まりますから。
「偶像を掘り返し/仲間を埋めろ/私たちは野蛮で憂えてる/でも屈しない/心配だらけのまま/無気力な日々を/恐れながら生きてる/私たちの金ぴかの時代を」――“ベリー・アワ・フレンズ”
そう考えると、ライオット・ガールって、やっぱり抜群のネーミングじゃないですか。あらゆる要素がこの二語に集約され、こっちに向かって飛び出してくる。2014年はフェミニズム、いえ、ジェンダー・イーコアリティについて考えるきっかけに事欠かず、とても充実していたのですが、ライオット・ガールの再考察があちこちで起きていたのもよかった。「タヴィ、キャスリーン・ハンナのセーターをもらって着てるのに誰も気づかず、立腹」みたいな微笑ましい事件もあったし。
でも2015年になり、改めて今スリーター・キニーの新譜『ノー・シティ・トゥ・ラヴ』を聴くと、ここにつらつらと書いてきた流れにおいて、明らかに失われてきたものがあるのに気づきます。それは10年たっても変わらない怒り、むしろ以前にも増して矛盾やジレンマを抱えつつ、それでも誇りを持って発せられる怒りです。勿論、その矛先は外にだけでなく、それに迎合する自分にも、古びてしまった過去にも、「金ぴかの時代」にも向けられている。
最後にもう一度だけ、ミランダの発言を引用します。
「私や当時の仲間は、ときどき自分たちの中にいるライオット・ガールに侵されてるような気さえするの。若い世代のフェミニストは、メインストリーム対アンダーグラウンド、セルアウトみたいなものに罪悪感を感じなかったりするけど、私たちはいまだにこの古臭い問題に何度も立ち返ってしまう。ライオット・ガールはメインストリームに対する“ファック・ユー”だったから。あれはパンクで、破れたタイツで、めちゃくちゃにこんがらがってた。『私に助けなんて必要ない、暴れるかもしれないわよ』ってことだったし、それは今でも私の中にあって、私がこの世界で機能するあり方に関係してる。そしてライオット・ガールは私が20代で影響を受けたもののひとつで、それを誇りにしているの」
生きれば生きるほど、何かがクリアになるわけではなく、実はこんがらがってきますよね。それで言いたいことが言えなくなったり、端的になってしまったりもする。でも、それでもスリーター・キニーは言うことを選んだ。そのとき改めて告げられる“ファック・ユー”には、それにしか表現できない複雑な感情と意志があり、それにしか動かせないものがある、そんな気がします。そしてそれは、とっても逆説的ですが、フェミニズムどうこうよりもむしろ、音楽というアートにしかできないことだったりもするのです。
「私たちの言葉は堂々巡りで/ダンスは暗号/飼い慣らされずハングリーなまま/冷たいなかで燃えている」――“ベリー・アワ・フレンズ”