ボノボのミュージック・ヴィデオが、またスゴいことになっている。そして、また、反復が別の意味で活かされている。これは、ちょっと見、カメラが、一番手前の部屋から戸口を通って、次々に奥の部屋へと前進し、10数回部屋を突き進んでから、今度は、後退し続け、一番最初の部屋まで戻って終わるだけのように思えるかもしれない。ところが、手前の部屋に「引きこもっていた」若者が、奥の部屋に進むにつれ、どんどん巨大化し、最終的には身体の一部でさえ、部屋に入りきらなくなってしまっている(この部屋には「私の小さな部屋」と書かれた掛け軸がかかっている)。これは、奥の部屋にいくほど、小さな部屋になるように作り上げたセットを使って、撮り上げたと思われるが、強まる閉塞感と、いびつに肥大化する精神状態が、視覚化されている。
この欄で何度となく取り上げてきたように、MVではたびたび落下のイメージが使われる。が、ここでは、落下する(微妙なニュー・ディスコ感がちょっとだけクローメオっぽい)シャイ・ラヴの男二人が、針金入りのぐねぐね人形よりも、どうにでも自由自在にくねくね曲がるような身体になっていて、なぜか増殖していて、超巨大な女性(あるいは、等身大の女性?)がそれらをシャワーのように浴びると(愛の衝突=一目惚れ)、増殖し……というイメージの奔流。極めつけは、落下(恋に落ちるイメージ?)していたはずが、それぞれ画面の反対側から吹っ飛んできた男女がぶつかり、その衝撃で、互いの身体がゴムのように思いきり伸びて、縮むスローモーション場面。ユーチューブでは、この作品に意外に「低く評価」の人が多いのは、やはり、MVにも意味が求められている、ということなのか。
生命力というか、きわめて生物的な生殖力を表現させたら、このラッパーの右に出るものはいない、と言いたくなるのが、この、あべともなり。いきなり、こんなMV(編集と素材の組み合わせも巧み)を見せられたら、過剰すぎる、とか、狂っている、とか、気張り過ぎ、と思われるむきもあるかもしれない。が、ヒップホップにおけるラップの本当の大元は、自己紹介だったわけで、その後のものはすべてそのヴァリエーションなのだから、(未来に向かって何か言いたいはずなのに)その自己紹介の場で生命の起源的なDNAにまで遡って、そこがどうにも気になってライムしている彼のような人がいても、面白いのではないだろうか。
思い切ってブルーライトを、いわば照明代わりに使ったMV。恐らく、フィッシュバックが、この曲で歌っている信念の強さを、強烈なエネルギーと身体への影響力を持つブルーライトを当てる(最後には、浜辺で青色光だけを浴びている)ことによって、引き立たたせたかったのだろう。デビュー・アルバム『ア・タ・メルシィ』を出したばかりの彼女は、その歌唱表現(発声)などからレ・リタ・ミツコのカトリーヌ・ランジェを引き合いに出されることも多いが、フランソワーズ・アルディの憂愁やメロディ・センスも兼ね備え、ポップな旨味も含まれている。25歳の彼女がフランスに突然現れたわけではなく、(2年前にクリスティーン&ザ・クイーンズがブレイクした後は)、このシンセの音色にも表れているようなコールドウェイヴな感覚を持ついくつかのアーティストたちが、きっちりした作品を出し続けていて、昨年EPを出していた彼女にも、その流れが追い風になったようだ。
一聴した感じ、曲全体にどこか牧歌的な雰囲気が漂っているので、牧童と羊の群れ(しかも、敢えて露骨な着ぐるみ)にしたのだろうと思いきや、サンフランシスコのスラム/ヒップホップ・アーティストであるワツキーがここで扱っているのは、銃の乱射による大量殺人(事件)。ヴァースは、事件を起こした当人、ニュース・アンカー、そして、議員、それぞれの立場から書かれ、厳しい現実(と同時におきまりのフレーズ)がむき出しだ。クリッピングの一連のMVを手がけたカルロス・ロペス・エストラーダは、そのギャップに目をつけ、ワツキー自身が扮する牧童が読み聞かせた「恐竜の戦い」のせいで、暴力の味を覚え、その悪循環により、群れ(そして牧童)が自滅するまでを描いている。これが夢なら、羊が一匹、羊が二匹、とその数が増えることで、安らかな眠りにつけるはずが、ここでは、羊が一匹、羊が二匹と殺され、誰一人として安らかな眠りにつけないわけで、そんな悪夢のような現実から目を覚まさねばならない、とのイントロ/アウトロでの警鐘の鳴らし方もさりげないが、効果的だ。