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  • 燃ゆる女の肖像(2019) directed by Céline Sciamma by TSUYOSHI KIZU November 13, 2020 1
  • ホモ・サピエンスの涙(2019) directed by Roy Andersson by TSUYOSHI KIZU November 13, 2020 2
  • 国葬(2019) 粛清裁判(2018) アウステルリッツ(2016) directed by Sergei Loznitsa by TSUYOSHI KIZU November 13, 2020 3
  • 詩人の恋(2017) directed by Yang-hee Kim by TSUYOSHI KIZU November 13, 2020 4
  • シカゴ7裁判(2020) directed by Aaron Sorkin by TSUYOSHI KIZU November 13, 2020 5
  • 現在様々な形で女性のみによるドラマが変奏されているが、この映画はその純度をもっとも高めたものだ。1770年、革命前夜のフランス。貴族の娘エロイーズ(アデル・エネル)の見合いのための肖像画を依頼された画家マリアンヌ(ノエミ・メルラン)は孤島に渡る。描き描かれ、見つめ見つめ返すうちに惹かれ合うふたり。画家とモデルのエロティックなやり取りは繰り返し映画で描かれてきたが、本作では女性同士でその交感がおこなわれ、さらには監督と撮影監督も女性であることで「女を見つめる女のまなざし」が徹底される。セリーヌ・シアマはその過程をただ静かな映像で収め、あるとき女性たちのコーラスが画面を覆うとそのテンションはピークへと達する。社会の抑圧から隔絶された土地で、目の前にいる者の内側の炎を見出そうとすること。特別な誰かが振り向くこと、振り向かないことが、どうしようもなく心を動揺させること。情動の獰猛さとそれゆえの美しさを、絵画のように研ぎ澄まされた画面に封じこめた傑作。

  • あるいはスウェーデンの異才ロイ・アンダーソンによる本作も、絵画をモチーフとして人間の営みを見つめようとする。人物と物とを区別せず同様に扱った新即物主義のアーティストから影響を受けた画面は、映されるものすべてに焦点が当てられている(この手法はパンフォーカスと呼ばれる)。そうして素っ気なく切り取られる、市井の人間たちの人生の断片、長くは続かない喜劇と悲劇たち。老境の作家特有のとりとめのなさのようで、確固たる意志によって切り抜かれた一瞬にも見える不思議。それはおそらく人間たち、そして世界をできるだけ俯瞰的かつ非没入的に捉える試みで、「観察すること」によってわたしたちの生がひどく断片的なものになっていることを明らかにしていく。たとえば信仰を喪ったことを嘆く牧師は生きる意味を見出せずに苦しむが、誰も助けてくれない。久しぶりに見かけた旧友に無視された男は、自分が彼にかつて冷たく当たったことをそこで思い出すが、その痛みを真面目に聞いてくれる人間はいない。そうして映される孤独の断片のなかで、それでも次第に浮かび上がる人間の実存のちっぽけさと、だからこそほのかに感じられる愛おしさ。わたしたちはこの映画を前にして、世界をつぶさに見つめることを長い間忘れていることに気づくだろう。

  • 世界を丹念に見つめるという意味では、日本初公開となるセルゲイ・ロズニツァの画面の強度には圧倒されるしかない。今回上映される《群衆》ドキュメンタリー3選は、すべて各時代を生きた「人びと」をじっと見ることで時代精神や人間の不変的な何かを捉えようとする。スターリンの国葬のフッテージをかき集め、時系列に沿った強靭な編集で歴史の分岐点を問い直そうとする『国葬』。そのスターリンによる見せしめ裁判をモチーフにして、権力が群衆を扇動する様を明らかにする『粛清裁判』。そして、ユダヤ人が虐殺された強制収容所が観光地化している現在を映し、わたしたちが歴史の暗部に触れることの困難をえぐり出す『アウステルリッツ』。そこでわたしたちは《群衆》の膨大な顔を見続け、そのひとつひとつが「時代」を、そして「世界」を作り上げていることを思い知り、息を呑む。そこで映されているのは当然、わたしたちの姿そのものなのだと。

  • 『息もできない』(2008)や『あゝ、荒野』(2017)で、とくに日本の観客には「無骨で粗野だが、不思議な可愛げがある男」のイメージが固まりかけていたヤン・イクチュンだが、キム・ヤンヒの初長編にして男女三人の関係が繊細に移ろっていくこの佳作では、まったく異なる魅力を見せてくれる。イクチュンが体重を増やし、髪をボサボサに伸ばして演じるのは、才能はあるのだが自らの人生を切り拓く意思に欠けたままボンヤリと生きている詩人テッキ。妻が子どもを強く欲しがっていることとも真剣に向き合えない。そんなときドーナツ屋で働く青年セユンと出会い、彼に惹かれていくなかで、はじめて人生のままならなさに真剣に対峙することになる……。ある純朴な詩人の(同性に対する)「恋」をここではアイデンティティ性を問うものとして扱わず、アーティストがどのように世界を発見していくかの過程として描く。あるいはそれは「恋」とすら定義できない、何か別のものだったのではないか。詩人は名前をつけられないそれを具象するためにこそ、言葉を紡ぐ……だからこの映画にあるのは、アーティストがこの世界の片隅で創作を続けること、そのかけがえのなさである。

  • 大統領選直前のタイミングを目論んでNetflixで配信された本作だが、むしろ大統領選の結果がどうであろうと、運動がこの先どのような道を進んでいくのかを問うために作られた映画であるように思える。1968年、シカゴでおこなわれたデモが警察と衝突する事態に発展した事件を巡る裁判をモチーフにして、異なる左派運動グループがなかなか団結できない様をえんえんと描き続ける。膨大な台詞量を作劇のエンジンとするソーキンの手法はここでも貫かれているが、それ以上に映像のタッチや音楽によって非常に見やすく、娯楽的に作られているところがポイントであるように思える。「なかなか団結できない」ということは、同時に「包括的な想いや目的を共有したとき、それは大いなる力になりうる」ということでもあるが、本作はそれをとても清々しいものとしてエンターテインメントで見せていくのだ。大統領が国や共同体の未来を決めるのではなく、わたしたちこそが動かしていくのだという想いが、鮮やかに映画的興奮として昇華されている。

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