女性に対する性暴力と警察との闘いを発端とする骨太の娯楽作『スリー・ビルボード』、1960年代初頭のマイノリティたちの秘かな連帯をファンタジーに託した『シェイプ・オブ・ウォーター』、ポリティカル・コレクトネス以降になおも不気味に漂う黒人の息苦しさをB級スリラーとして語った『ゲット・アウト』、同性同士のラヴ・ストーリーを純化した映像で見せる『君の名前で僕を呼んで』……今年のアカデミー賞関連作は、大方の予想通り現代のアメリカ社会の動向(さらなる多様性への志向、ジェンダー・ポリティクス、人種問題など)を大いに反映したラインアップとなった。では、そこに加わったスティーヴン・スピルバーグはどうかと言えば、ストレートど真ん中の反トランプ/反共和党の一撃を叩きつけている。ベトナム戦争時代においてニクソン政権に対し報道という立場から闘った〈ニューヨーク・タイムズ〉、そして本作のメインとなる〈ワシントン・ポスト〉の過去の偉業を掘り起こすことは、もちろん現在トランプが「フェイク・ニュース」と口汚く罵るリベラル系新聞を正々堂々と擁護するものだ。ともすればメッセージが自己目的化してしまいそうなものだが、そこはスピルバーグ、見事なライティングとカメラワークでどこまでも洗練された娯楽作として仕上げている。繰り返し父と息子の物語を描き続けてきたスピルバーグ。彼自身がアメリカ映画の「父」となったいま、そこにあるのはただ、やるべきことをやる、といったシンプルなアクションだ。
では、政治の左右に拠らない倫理のあり方について見つめてきた「父」、クリント・イーストウッドはと言えば、テロに偶然居合わせた普通の青年3人(とはいえ、うち2人は軍人)がアメリカン・ヒーローになる顛末を描いている。極端に反テロのプロパガンダ映画になる危険性を孕みつつも、前作『ハドソン川の奇跡』同様の「危機に居合わせた人間たちが、やるべきことをやる」ことで政治に左右されない本質に肉薄しようとする。しかし本作における最大のポイントは何と言っても、主要3人だけでなく、事件が起きた列車に乗り合わせた乗客や被害者の多くを本人が「演じている/再現している」ということ。それはフィクションとドキュメンタリーの壁をあっさりと破壊し、もはや「映画」そのものの根幹を揺さぶる過激なものだ。だが、あくまでも全体的な仕上がりは簡潔な、それでいてイーストウッドらしい情感のこもった「映画」となっていることに恐れ入る。アメリカン・ヒーローを描き続けてきたイーストウッド、そしてアメリカ映画。それをラディカルなやり方で巨匠が「普通の人びと」に開け放ったのが本作だ。
イーストウッド主演、ドン・シーゲル監督の『白い肌の異常な夜』(71)と同じ原作の映画化に挑んだのは、これまで少女や女性の説明のつかない憂鬱をメロウな映像で掬いあげてきたソフィア・コッポラ。南北戦争時代のバージニア州を舞台にしているとはいえ、美しい女性たちがある場所に幽閉されており、鬱屈した欲望を持て余しているという点ではデビュー作『ヴァージン・スーサイズ』(99)と同じ。ニコール・キッドマン、キルステン・ダンスト、エマ・ワトソンと新旧のフィメール・アイコンを配しているのもじつにソフィアらしい。だが、これまでの彼女の映画にあった、憂鬱のビタースウィートな感覚はここにはない。集団として、女性たちの感情が複雑に歪んでいく様をどこか突き放して映している。最近ではニコラス・ウィンディング・レフンの『ネオン・デーモン』(16)を思い起こすテーマだが、ソフィアによる本作のほうがより抽象的で曖昧な、それでいて残酷な冷たさがある。映画作家としてのソフィア・コッポラの成熟を見る一作だ。フェニックスが担当する音楽もひたすら不穏。
こちらは切なくも美しい、女の映画。目下パブロ・ララインが最前線を走るチリ映画界だが、セバスティアン・レリオ監督もその勢いを伝えてくれる気鋭である(本作が5作め)。年上の恋人である壮年男性を病気で喪ったトランスジェンダー女性マリーナが、その後彼女に正面から吹きすさぶ「風」に立ち向かっていく姿が描かれる。マリーナを実際にトランスジェンダー女性であるダニエラ・ヴェガが演じているということも含め、LGBTテーマの一作としていまらしい作品だとカウントできるかもしれない。だが、映画の佇まいはクラシックのような色彩感覚と演出によって成立しており、その中央で背筋を伸ばして歩き続けるマリーナを「かつての大女優と同じように中心に置きたかった」と監督は言う。社会の隅に置かれていた人物が、美しい映画の中央で真っ直ぐに歩く姿を。差別者たちは彼女を痛めつけようとするが、彼女はそれに復讐するのではなく自身のなかの愛を見つけていくことで、自分自身として生きていくことを獲得するのだ。ちなみに、流麗な音楽を担当しているのはマシュー・ハーバート。
ミヒャエル・ハネケの映画を一作でも観たことのある人間なら誰でも、このタイトルが嫌なものであると直感するだろう。その予想通り本作もまた、ハネケが何度も何度も……本当に執拗に描き続けてきた、ヨーロッパの(プチ)ブルジョワたちの醜悪な生態図だ。建設業で財を成しているある家族が群像的に――と言うより観察的に――映される。SNSなど現代的なモチーフが出てきてはいるが、それもかえって彼らしい(最新のテクノロジーやライフスタイルを享受することで、特権階級にいる気分になっている人間たちをハネケは繰り返し見下すように描いてきたからだ)。実際、移民や難民の窮状、格差、SNS文化といった今日的なテーマが散見されるが、中心にあるのは他者の死への無関心だ。それは社会においてだけでなく、家族間においてもあっさりと成立してしまう。人間性はどこに行ってしまったのか? 社会の構造のせいなのか、そもそも人間の本性が空虚なものなのか? そもそも、人間性とは何なのか? そんな途方もない問いを、老いてなおハネケは無情に突きつけている。