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OBSCURE RIDE cero (カクバリズム) by KOREMASA UNO
SHINO OKAMURA
June 01, 2015
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OBSCURE RIDE

「折衷」から「曖昧」へ
——『Obscure Ride』が繋ぐ「失われた13年」

「Contemporary Eclectic Replica Orchestra. Contemporary Eclectic Replica Orchestra.」。まるで自らバンド名を再定義してみせたようなアルバム冒頭の曲“C.E.R.O”のリフレイン。このアルバムが目指しているものは、そこであまりにも明確に宣言されている。「2015年に『Eclectic』のレプリカを鳴らす楽隊」。Eclecticは「折衷主義/折衷的であること」を意味し、2000年頃から一つの音楽的趣向を表す言葉としてアメリカのラジオ局などでジャンル名としても用いられてきた言葉だが、この『Eclectic』がケニー・シーモア(アンジー・ストーン、ミッシー・エリオット、モニカらの作品に参加してきたキーボーディスト)、ロン・ロング(プリンス、ラリー・グラハムらのツアーに参加してきたベーシスト)、マイク・キャンベル(トム・ペティ&ハートブレイカーズのギタリスト)、バシリ・ジョンソン(マイルス・デイヴィス、シャーデー、マクスウェルらのツアーに参加してきたパーカショニスト。その後、マイケル・ジャクソン「ディス・イズ・イット」ライヴのバンドにも参加)、アーロン・ヘイク(ポール・サイモン、ドナルド・フェイゲンらの作品に参加してきたサックス/フルート奏者)らをニューヨーク/マイアミのヒット・ファクトリー・スタジオに招集して、2002年に小沢健二が作り上げた同名作品のことを直接的に指していることは間違いない。言うまでもなく、その伏線として昨年12月にリリースされた『Orphans/夜去』に忍び込ませてあった『Eclectic』収録曲“1つの魔法(終わりのない愛しさを与え)”のカヴァーがあったわけだが、実際にあの曲を自分たちの手と頭と声を使って実演してみたこと、そして同じ12月に突如リリースされたディアンジェロの3rdアルバム『ブラック・メサイア』が今作の方向性を加速させることになったというのは、先日メンバーが取材の席でも話してくれたことだ。

2000年にリリースされたディアンジェロの2ndアルバム『ヴードゥー』。『Voodoo』の強い影響下にあった2002年の小沢健二の『Eclectic』。『Eclectic』の強い影響下にある2015年のceroの『Obscure Ride』。本作を聴いていると、そんな大きな物語が13年ぶりにようやく再び動き出したかのような興奮を覚えずにはいられない。勿論、本作ではネイティブ・タン一派~コンシャス・ヒップホップ~ソウルクエリアンズの流れや、ハイエログリフィックス周辺への目配せもされているし(まぁ、それらの集大成がディアンジェロ『ヴ―ドゥー』でもあったのだが)、メンバーは同時代のロバート・グラスパーやホセ・ジェイムスから受けた刺激(まぁ、いずれも熱狂的なディアンジェロ・フォロワーでもあるのだが)についても語ってくれたが、要はそこにあるラインを日本のミュージシャンが久々に、強い意志を持って、(彼らは涼しい顔をするかもしれないが間違いなく)血の滲むような修練と、『Eclectic』とは比べるべくもないが2015年日本のインディーズ作品としては破格の手間と製作費をかけて繋ごうとしたのだ。そして、これが最も重要なことだが、そんな彼らの無謀にも思える試みは、本作で目を見張るような成果を生み出している。

2002年の小沢健二が、あの奇跡のように美しく、どうしようもないほど孤独で、少々イビツな作品に『Eclectic』と名付けたこと。当時、自分はそこにどこか失意や絶望を帯びたニュアンスを感じ取らずにはいられなかった。そして、それ以降のさらなる長い沈黙、次作における歌の消失、復活後のライヴでもほとんど『Eclectic』の楽曲が演奏されることがないこと(2010年の『ひふみよ』ツアーで一曲だけ、“麝香”が演奏されただけだ)からも、その思いは強くなるばかりだった。一方、ceroは今作を『Obscure Ride』と名付けた。「折衷」と「曖昧」。いずれの言葉も、非黒人ミュージシャンがブラック・ミュージックの(イミテーションではなく)本質に近づけば近づくほど何度も不意に襲われるに違いない、ある種の「後ろめたさ」を表しているようにも思えるのだが、ceroの「曖昧」には失意や絶望の色はない。あるいは、「曖昧」と名付けることで失意や絶望と向き合うことを周到に回避していると言えるかもしれないが。

いずれにせよ、本作『Obscure Ride』は素晴らしく刺激的で、愉快で、心が躍る作品だ。そして、同時代において日本のメジャー/インディ問わず何か特定のシーンと強引に結びつけたりするのがバカらしくなるほど孤立した作品だ。しかし、ここでその「孤立」をことさら強調するのはよそう。きっと彼らはその「孤立」の隠れ蓑として、「曖昧」であることを選んだのだから。

文:宇野維正

レプリカであること、オブスキュアであることの正義
そこからもたらされる豊かさにこそ創造性がある

冒頭“C.E.R.O”のリリックで、いみじくもバンド名を“Contemporary Exotica Rock Orchestra”から“Contemporary Eclectic Replica Orchestra”へと宗旨替えを宣言したように、本作には本来“R”の位置にあった“Rock”の要素はもはやほとんどない。ほとんど、というより、まったく、と言ってもいいだろう。その代わりに、サポートの厚海義朗(ベース)と光永渉(ドラム)を加えた5人体制でライヴをするようになってから顕在化してきていたブラック・ミュージックへの傾倒が鮮やかに一つの形となっている。16だけではなく32分も用いて丁寧に裏拍を強調したビートにしっかりとヴォーカル、ギター、鍵盤を寄り添わせ、細部に渡りR&Bやソウルのマナーを学んだような成果を発揮しているのも、色々な曲調を盛り込むことによって多様性を出した前作『My Lost City』までとは大きく異なる点だろう。

だが、重要なのは“Rock”にとって替わって挿入されたのが“Replica”という言葉であるということだ。

確かに本作はヒップホップや現代のジャズまでを視野に入れたブラック・ミュージック・スタイルという一定のトーンで統一されている。例えば、縦のグリッドでアンサンブルを見た場合、おそらく音の打点は全ての楽器パートにおいてある程度揃っているのではと思えるほど、一聴した限りでは調和良く滑らかに耳に入ってくるし、抑揚をあからさまにつけずに、終始熱量を保ちながらまわしていくような淡々とした演奏も過去作品にはなかったものなのも確か。だが、よく聴くと、音の打点こそ合っているが、聴きすすめるうちに、打ち込みや同期に頼らない、バンド演奏特有の揺らぎや隙が顔を出して来る瞬間が割と多く見られ、高城晶平のフロウもマナーに従い切れずに崩れるところが出てくる。あるいは、前から持っていた資質であるとはいえ、ここまで鮮やかと宗旨替えしたことにまだどこか慣れていないのか、自分たちで自分たちの演奏、楽曲に照れているようなフシがふと感じられる瞬間もなくはない。

だが、それがマイナスなのかと言えば違う。むしろ、だからこそいい。黄色人種である日本人の彼らが、遠く離れた島国からブラック・ミュージックに向き合うものの、決してがっちりと取っ組み合うのではなく、距離をとったからこそ必要とされる想像力で埋める余裕を残す。人種問題、宗教問題、歴史認識をとりあえず横に置いておき、代わりに想像力でR&B、ヒップホップ、ソウル、ジャズを引き寄せていく作業。だから、R&Bやヒップホップのマナーの消化が間に合わなかったとか、スキルが追いついていないということでは断じてない。意識的に間に合わせない、追いつかせないことから生まれる自在な解釈と創作性に、彼らはロマンティシズムを感じているのではないだろうか。例えば、高城晶平、荒内佑の書くソウルは90年代以降のネオ・ソウル風、対して橋本翼の書くソウルは70年代のニュー・ソウル調だ。そこに歴史に従っての統一感を持たせず、こうした違いをも彼らは積極的に楽しんでしまう。それこそ、彼らが初期にお手本にしたアーティストの一つ、細野晴臣がトロピカル三部作において大いなる想像であれほどカラフルに架空の南国情緒を描いてみせたように。

だからこその“Replica”ということではないかと思う。レプリカ=写し、模写。その言葉にはニセモノという意味が多分に含まれるが、彼らは最初から「ホンモノとは何か?」と作品を通じて疑問を投げかけてきた。これこそが僕らならではの音楽です、独自のものです、オリジナルなんです、と言ってしまうのはたやすい。だが、彼らはそういう言い方もおそらくしないだろう。そういうことを聴き手に思わせる曲も作らない。果たしてこれはホンモノなのかニセモノなのか。本作はR&Bなのか、ヒップホップなのか、ソウルなのか。レコード棚のどこに置けばいいのか。ceroというバンドの前ではそんな質問はもう全く意味のなさないものだからだ。

そういう意味では、ceroは完璧なまでにそのスタンスを変えていない。最初からレプリカであることの快楽、心地良さ、面白さを体現し、無邪気にそのレプリカであることを楽しんできた。Obscure=曖昧な、という言葉をタイトルに与えたことの理由も多分同様だろう。荒内佑は本作制作前に、そもそもオン・グリッドではないJ・ディラのビートを解析してみたりもしたという。だが、そこから彼らは生演奏へと移行させ、そのプロセスで打ち込みを使用したものの、最終的には全てをバンド・サウンドで完成させた。オン・グリッドではないビートを自分たちの新たなスタイルの中に組み込もうとしたその意欲に対し、曖昧な運転と称する謙虚とも言えるセンスの良さには脱帽するしかないが、あえて曖昧であると宣言することにある種のエクスキューズが生じることも彼らは覚悟をしていたのかもしれない。けれど、ceroは自分たちは曖昧であるとエクスキューズすることをも、もしかすると恐れていないような気がする。それこそが先達に対する礼儀、マナーの一端であり、そこに次の扉を開けるカラクリがあることをきっとわかっているからだ。

ポピュラー音楽の歴史的遺産、過去の優れた仕事はどのように継承されていくべきか。その明確な回答は一つではない。ただ、これだけは言える。熱心な研究、真摯な学習を経ての創造性溢れる自由なレプリカは決して否定されるべきではないということ。今年、ロビン・シックがマーヴィン・ゲイの遺族に訴訟され敗訴に至った事件をきっかけに、大衆音楽の魅力が豊かに継承されていく素晴らしさが分断されてしまう危険性を感じた人も少なくないと思うが、同じ年に、遠く離れた島国からこんなに痛快なレプリカ・ブラック・ミュージックが放たれたことは歴史的にも重要だ。日本で今、こういう作品が誕生したことを筆者は本当に誇りに思う。

文:岡村詩野

小林雅明、田中亮太による『Obscure Ride』のレヴューはこちら

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