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できれば愛を 坂本慎太郎 (zelone) by YUYA SHIMIZU
SHINO OKAMURA
August 17, 2016
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できれば愛を

刺激はないが浸かっていたい
倦怠期の恋愛のようなアルバム

恋におちると、人間の脳内にはフェニルエチルアミンと呼ばれるホルモンが分泌されるが、それは3年か4年で無くなってしまうのだという。だから最近再び話題になっているヒロシ&キーボーの“3年目の浮気”というヒット曲のタイトルも、意外と理にかなっていたというわけだ。

ゆらゆら帝国解散後、坂本慎太郎の3枚目のソロ・アルバムとなる本作もまた、恋愛で言えば倦怠期にあたる作品だと言えるだろう。前作で使われていたヴィブラフォンが石橋英子の弾くマリンバに置き換えられてはいるが、ドラムの菅沼雄太、ベースのAYAというリズム・セクションに変化はなく、坂本の弾くラップ・スティール・ギターや変調したムシ声といった前作の特徴的な要素も健在で、音楽的には良く言えば安定した、悪く言えばマンネリな作品になっているのだ。

前作『ナマで踊ろう』から既にその傾向はあったとはいえ、暴力的なまでに過激な歌詞があったがゆえにロックとしか呼べない作品になっていたのだが、「顕微鏡でのぞいたLOVE」がテーマだという本作は、ロックというよりはむしろ、下田逸朗あたりの気怠い歌謡曲を聴いている感覚に近い。イヌとキジを中古の車に乗せて鬼ヶ島へ向かうというシュールな“鬼退治”には(近田春夫がプロデュースした平山みきの『鬼ヶ島』を思わせる)中毒性があるが、それでも「眉間にチップを埋めてロボットになろう」と誘う、前作の“あなたもロボットになれる”の破壊力には及ばないからだ。

前作ではあえて誇張した表現を使っていたという坂本だが、現実が空想に追いついてしまったというか、歌詞の内容があまりにもリリース当時の社会状況に即していたために深読みされてしまったことは、彼にとっては不幸だったのかもしれない。そのせいか本作ではより普遍的で抽象的な表現へと向かっているのだが、結局は意図しない形で社会性を帯びてしまうのが、彼の作品の宿命なのだろうか。「写真で見たことが現実におきた/悲しいくらい俺は無力だ」と歌われる“超人大会”はここ数ヶ月の現実と照らし合わせると恐いぐらいだし、「ディスコは君を差別しない」と歌い、男と男、女と女の愛を描いた“ディスコって”を聴いたなら、先日フロリダのゲイ・ディスコで起きた銃乱射事件を連想せずにはいられないだろう。

普通の人に憧れるアウトサイダーの心情を歌った“他人”という曲は単なる皮肉なのかもしれないが、後期のアモン・デュールがそうであったように、ソロになって以降の坂本は、いかに普通=スタンダードな音楽に近づけるかに腐心しているようにも思える。だとすれば、「あの坂本慎太郎が普通の音楽をやっていることの面白さ」で本作を評価してしまうのは、かえって失礼にあたるのではないだろうか。本作がポップスとして成功しているかどうかはともかく、「風邪が治ったり、悩みが消える瞬間の感覚を引き延ばしたような音楽が作りたい」という坂本の狙いは上手くいっていると言えるし、ここには刺激がない代わりに、いつまでも浸かっていたい、ぬるま湯のような心地良さがある。けれども同時に、かつて彼のバンドが奏でていた、あの恋におちる瞬間のような、熱にうかされたようなロックンロールがそろそろ聴きたいと思ってしまうのは、自分だけではないはずだ。

文:清水祐也

この世界って誰も期待しないし干渉もしないマヌケな場所
でも、それはみなが寄り添い共存できる美しい場所

ちょうどリリース・デイトが同じだったこともあるが、ずっと坂本慎太郎とスピッツのそれぞれの新作を繰り返し交互に聴いていたのだが、両者は実はとても似た視座から作られているのではないか?と思えてきている。勿論、音の作りやプロダクションが全く異なることは言うまでもないことで、スピッツはここ数年、あらかたのわかりやすい試みに飽きてしまったかのようにストレートなバンド・サウンドに回帰していて、新作『醒めない』でもやんちゃなまでに溌剌としたパワー・ポップを聴かせているし、かたや坂本慎太郎は過去2枚のソロ作同様に最小限の仲間と共にストイックにミニマム・ポップを制作することに腐心。だが、どちらにも共通しているのは、「大きな宇宙から見たら、僕らはたかだか人間であり、小さな生命体でしかなく、でも、だからこそ愛おしいし、生き続けていく価値がある」という哲学にも似た命題を伝えようとする姿だ。

そうした生命力の希求を、スピッツの草野マサムネは小動物や架空の生き物、あるいはロック音楽への尽きない愛への再認識をモチーフにしながら描き、さて、坂本慎太郎はと言えば、このソロ3作目で「顕微鏡で覗いたLOVE」をテーマに、俯瞰した目線から狭小な世界=地球の中で起こっている出来事、そこに生きる人々を揶揄や自嘲も交えながら綴っている。

殊に坂本慎太郎のシニカルで自虐的な人類愛……言ってみれば「たかだか人間、されど愛」といったような、その冷めているようでヒューマンな独自のテーゼはさらに研ぎすまされ純化が進んでいる。とりわけ特筆したいのは“ディスコって”というニュー・ソウルとハワイアンが合体したような曲だ。ここで坂本はディスコを徹底的にリベラルな場所として捉え、そこには差別も侮辱もない、男女の性差もない、としている。だが、注目すべきは、リベラルだがその代りに誰も何も君に干渉しないし期待もしない、と突き放しているところだろう。どこかで絶望と諦めを実感しつつも、手を携えて協力し合っていこうとお花畑な人間讃歌を唱える曲は少なくない。けれど、坂本はただ、ただ、音楽が流れ、みなが踊り、誰かと誰かが出会い、あるいは一人になれる場所であるとし、それ以上でもそれ以下でもないとして淡々と描いている。ヘタな情緒は一切持ち込んでいない。

しかしながら、期待しない、ということは、期待しているということでもある。干渉しない、ということは、干渉するということでもある。と、坂本は一歩も二歩も引いて説いているのではないか。菅沼雄太のハネるドラムが牽引し、途中、石橋英子の剽軽なマリンバも聴こえてくる“マヌケだね”という曲では、投げやりにさえ聴こえるほどに散々“マヌケ”という言葉を使っているが、ここから伝わってくるのは、マヌケなものはすなわち愛すべきものである、マヌケとはすなわち好きだという意味である、とでもいうような、否定転じて極めて肯定的に対象に向き合おうとする強い意思だ。

誰も期待しないし干渉もしないマヌケな世界。それはみなが寄り添い共存出来る美しい世界。坂本も影響を受けたアーサー・ラッセルは、黒人とゲイそれぞれの美意識を共有させたオープンな音楽を創出しようとしていた。坂本もまた然り。こんなにも寡黙に断絶と闘おうとするロマンティックで歪んだ慈愛に溢れた音楽を私は、少なくとも今の日本において他に知らない。

文:岡村詩野

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