SIGN OF THE DAY

移り気なカメレオンなんかじゃない!
常に時代に対する鋭利な批評たりえた
プライマル・スクリーム全歴史。前編
by KOREMASA UNO March 25, 2016
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移り気なカメレオンなんかじゃない!<br />
常に時代に対する鋭利な批評たりえた<br />
プライマル・スクリーム全歴史。前編

1985年の1stシングル“オール・フォール・ダウン”リリースから31年。1987年の1stアルバム『ソニック・フラワー・グルーヴ』リリースから29年。そうだ。プライマル・スクリームの名が英国内のロック・リスナーに広く知られるきっかけとなったコンピレーション作品『C86』から数えて、今年はちょうど30年でもある。

V.A. / C86

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紙の音楽メディア〈NME〉がレーベル〈ラフ・トレード〉と協力して作った付録のカセットテープが、その後、日本でもネオアコやアノラックなどとも呼ばれるようになるインディ・ロックの新たな局面を切り拓いていくことになる、そんな牧歌的な時代を象徴する一つのモニュメント。パステルズ、ウェディング・プレゼント、ショップ・アシスタンツ、マッカーシー、スープ・ドラゴンズ……懐かしいバンドたちの名前がズラリと並ぶそのカセットテープのA面冒頭に収録されていたのが、当時のプライマル・スクリームにとって習作的な1分20秒余りの楽曲“ベロシティ・ガール”だった。後にジョン・スクワイアが「ストーン・ローゼズの1stアルバムの青写真となった」と語った、あの曲だ。

Primal Scream / Velocity Girl (1986)


グラスゴー時代からのツレにして、後に〈クリエイション〉帝国を築くことになるアラン・マッギーとの長年にわたる共依存関係。ヴェルヴェット・アンダーグラウンドのモー・タッカー・スタイル(タムとスネアだけのドラム・セットを立ったままマレットで叩く)を真似て、本当は叩けないドラムをジーザス&メリー・チェインで叩いていた時期。そのジーザス&メリー・チェインのオリジナル・ベーシスト、ダグラス・ハート(最新シングル“ホェア・ザ・ライツ・ゲッツ・イン”のミュージック・ヴィデオのディレクターがダグラスだと知った時は、さすがに熱いものがこみあげてきた)との友情をはじめ、ケヴィン・シールズ&デビー・グッギ(マイ・ブラッディ・ヴァレンタイン)やマニ(ストーン・ローゼズ)やJ・マスキス(ダイナソーJr.)らが困難な時期にはいつでも手を差し伸べ、彼らが元の軌道に戻る時にはそっと背中を押してやる、その情の深さと人徳(30年間、音楽業界の第一線で活躍してきたアーティストとして、それは見過ごせない資質である)。英国ファッション界を代表するトップ・スタイリスト、ケイティ・イングランドとの安定かつ充実した私生活及びファッショニスタ・ライフ(プライマル・スクリームのミュージック・ヴィデオにトップ・モデルがよく出演しているのは嫁のコネクションだ)。

ボビー・ギレスピーという稀有なアーティストの人物像を語る上では、ドラッグとの深い関わりとともに、それらのエピソードは欠かせないわけだが、本稿のオーダーはアルバム単位でプライマル・スクリームの歴史を振り返ってほしいというもの。ふむ。常々自分が「なにそれ?」と思ってきた、彼らに対する「流行に敏感なカメレオン・バンド」という怠惰な常套句を覆すにはいい機会だ。プライマル・スクリームが時代と寝たのなんて『スクリーマデリカ』直前の一連のシングルだけだっつーの!

自分がまだ学生の頃、つまり音楽についてものを書く仕事をする前、どうしてあそこまでプライマル・スクリームに夢中になっていたのかを振り返ってみると、ボビー・ギレスピーが常に熱狂的な音楽ファンであると同時に、傍観者であり続けていたということに思い当たる。ボビー・ギレスピーとは何もできない「自分」であり、何もできない「あなた」だったのだ。

そして、それでもステージに立っていた彼のバンドの音楽は、結果的にその時代や状況に対する批評として機能していた。そこから、自ら時代と状況の当事者となった時期(言うまでもなく『スクリーマデリカ』期だ)を経て、プライマル・スクリームというバンドが本質的にたずさえている批評性はどのように変化していったのか? そして、それは現在もなお有効なのか? というわけで、アルバムで振り返るプライマル・スクリームの30年史、ウィキペディアなんかじゃわからない、フルキャリア・リアルタイマーの目線で前編、中編、後編と3回に分けて駆け抜けます!




Sonic Flower Groove (1987)

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「ジーザス&メリー・チェインのドラマーが組んだニュー・バンド!」というポップに惹かれて、高校生の頃、輸入盤の入荷当日に手にした本作(勿論アナログだった)。今思えばこの時点でプライマル・スクリームは結成から5年を迎えていて、ボビーにとってジザメリ仕事はマッギー&ハートとの縁から気乗りしないまま引き受けたバイトだったわけだが、それはまぁいい。

ここで重要なのは、本作がそれだけ難産だったこと。そして、楽器を弾けない&叩けない(そりゃあ、ジザメリ活動に気乗りしないわけだよね)ボビーが、当時の英国のロック・シーンにあっては珍しく目を引くほどグラマラスなルックスの持ち主だったこと、ソフトでスウィートな歌声の持ち主であったことだ。

ジザメリの商業的成功の勢いにのって、マッギーがメジャーの〈ワーナー〉と組んで設立した〈エレヴェイション〉。その第二弾アルバム(第一弾はウェザー・プロフェッツ)として肝入りで制作された本作。どのくらい肝入りだったかって、当時ザ・スミスとの作品によって飛ぶ鳥を落としきっていたステファン・ストリートをプロデューサーに招聘したことからも、マッギーが「第二のザ・スミス」(もっとも、当時英国で期待されていたニュー・バンドのほぼすべてにその枕詞がついていたが)を目論んでいたのは明らか。しかし、ボビーはステファンとそりが合わず、それに代わるプロデューサーとして呼び込んだのがアメリカ・テキサスの伝説的60年代アシッドフォーク・バンド、レッド・クレイオラのメイヨ・トンプソンだった。

本作におけるメイヨ・トンプソンの貢献がいかほどのものかは、唯一ステファン・ストリートとのセッションのまま収録された“インペリアル”と他の曲との差異からはほとんど聴き取れないのだが、それはそれ。当時のメイヨ・トンプソンはレッド・クレイオラを再結成し、〈ラフ・トレード〉から新作をリリース、スクリッティ・ポリッティとUKツアーをするなど、にわかに英国音楽シーンとのコネクションを強めていた時期。実演家としては未熟であり、マッギーのような実業家の資質もなかった、つまり極めて傍観者/批評家的な音楽好事家ボビーとしては、そこにいっちょかみしておきたかったのかもしれない。

音楽的には、本作はボビー以外の唯一の初期メンバーであるギターのジム・ビーティー色が非常に濃い作品である。つまり、12弦リッケンバッカーが奏でるザ・バーズ直系のフォーク・ロック。

Primal Scream / Gentle Tuesday (1987)

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その延長上で、リズムをちょっと16で刻んでみせことで時代を引っくり返してしまったストーン・ローゼズの1stアルバムよりも2年早かった本作は、リアルタイムでは評価されることなく、〈エレヴェイション〉は早くも解体。レーベル第三弾アルバムとしてオレンジ・ジュース解散後初のソロ・アルバムを制作中だった同郷のエドウィン・コリンズは、後輩ボビーに対して「おいおい!」という気持ちだったに違いない。


Primal Scream (1989)

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前作『ソニック・フラワー・グルーヴ』がジム・ビーティーの作品であったのと同じ意味において、本作は残念ながら一昨年他界してしまったロバート・ヤングの作品であった。ジム・ビーティー脱退後(その数年後、スパイリアXを組み、笑っちゃうほど『ソニック・フラワー・グルーヴ』的な作品を〈4AD〉からリリースした)、リード・ギタリストを失ってしまったプライマル・スクリーム。その時、現在まで続くボビーのソウルメイトであるもう一人のギタリスト、アンドリュー・イネスがどのようなスタンスであったかは定かではないが、一念発起したのはベーシストのロバート・ヤングだった。彼は「だったら、いっちょ俺がギターを弾くか」とギタリストに転向したのだった。

ビーティーからヤングへ、リッケンバッカーからレス・ポールへ、フォーク・ロックからガレージ・ロックへ。いわば不可抗力とでもいうべきプレイヤー事情によって、プライマル・スクリームの音楽性は激変した。

『ソニック・フラワー・グルーヴ』の不発によって厳しい現実を突きつけられ、実はストゥージズやMC5がライフタイム・フェイヴァリット(その後、長年にわたってプライマル・スクリームは彼らのカヴァーをステージで演奏し続けた)であり、花柄のシャツと同じようにレザー・ジャケット&パンツも似合ってしまうボビーにとっても、その変化は渡りに船であった。そうそう、ボビーの音楽的貢献としては、同じく彼が愛して止まないシャングリラスに代表される60’sアメリカン・ガールズ・ポップスのメロディを、本作にまぶしてみせたことに触れておかなくてはいけない。

Primal Scream / Ivy Ivy Ivy (1989)

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背水の陣の覚悟でセルフタイトルを冠した2ndアルバム『プライマル・スクリーム』は、しかし前作に輪をかけてまったく売れなかった。当たり前だ。アシッド・ハウスとエクスタシーの上陸によってセカンド・サマー・オブ・ラヴを迎え、インディ・ロック・シーンがマッドチェスター一色に染まろうとしていた1989年に、もっともアウトともいえるハード・ロック風(当時の一般リスナーはガレージ・ロックなんて概念さえ知らなかった)のファッションに身を包み、油っぽい長髪をふり乱す小汚いインディ・バンドになんか誰も興味を示すわけがなかった。英国でアルゼンチンのフットボールクラブ、ボカ・ジュニアーズのファンジン〈ボーイズ・オウン〉を自主出版するような根っからの変わり者で酔狂なDJ、アンドリュー・ウェザオールを除いては。

『プライマル・スクリーム』に寄せられた数少ない、そしてほとんど唯一の的を射たレヴューが、前述したようにフットボールのファンジン〈ボーイズ・オウン〉に掲載されたレヴューであり、それを書いたのが発行人でもあるアンドリュー・ウェザオールだった。DJとしても活動していたウェザオールは、クラブ・シーンを通じてマッギーとも顔見知りでもあった。アシッド・ハウスのビッグ・ウェイヴは「流行に安易にのっかるにはあまりにも古今東西の音楽に精通しすぎている」ボビーをも飲み込もうとしていた。プライマル・スクリームがウェザオールにリミックスを依頼することになるのは必然だった。そうして、『プライマル・スクリーム』収録“アイム・ルージング・モア・ザン・エヴァー・アイ・ハヴ”のリミックス・バージョン、“ローデッド”が生まれた。歴史が動いた瞬間だった。

Primal Scream / Loaded (1990)

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Screamadelica (1991)

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“ローデッド”がリリースされた1990年2月から、3rdアルバム『スクリーマデリカ』がリリースされた1991年9月までの約1年半の間に起こったことを数百字で振り返ることは不可能だ。

その間にプライマル・スクリームは“カム・トゥギャザー”“ハイヤー・ザン・ザ・サン”“ドント・ファイト・イット、フィール・イット”というまったく音楽性の異なる(順番に、“ローデッド”の進化系と言うべきダンス・ロック・アンセム、エクスペリメンタルな歌ものダブ、ヴォーカルを黒人女性シンガーのデニス・ジョンソンに任せたガラージ・ハウス)、いずれも当時のクラブ・カルチャーに対してオリジナルな解釈が施された急進的なポップ・ソングで、ここでプライマル・スクリームは飛躍的にその評価を高めることになる。

これまで傍観者的、批評家的であったボビーは、エクスタシーに溺れながら(溺れたからこそ?)、ここで音楽家として初めて文字通り覚醒する。

「アシッド・ハウス・ムーヴメントを代表するロック・アルバム」としてリリースと同時に賞賛され、今でも名盤としての評価が定まっている『スクリーマデリカ』だが、実はこの作品は非常に複雑な構造を持った作品である。なにしろ、アルバム冒頭(プライマル・スクリームのアルバム1曲目はただの1曲目ではない。一貫してその作品の「宣言」となっている)の“ムーヴィン・オン・アップ”で、いきなりローリング・ストーンズやトラフィックの作品で知られる御大ジミー・ミラー(1994年に他界)をプロデューサー&ミキサーに招集したゴスペル・フィーリングに溢れたまっさらなロックンロールを鳴らしてみせるのだ。この曲のボビーの歌詞と歌声と歌う姿は、バンドを結成して10年近くを経て、初めて自分のバンドの音楽を自分で掌握した喜びに満ちている。

Primal Scream / Movin’ On Up (live on Top Of The Pops 1992)

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しかし、飛び道具的な派手なシングル曲の数々に惑わされがちだが、アルバムのためにレコーディングされた残りの曲のトーンは妙に醒めている。特にラストの2曲“ダメージド”と“アイム・カミング・ダウン”は、エクスタシーの効用の真っ只中で作られた作品というより、その効用が抜けていく時の感覚をそのまま音像化したような倦怠感に満ちている。実際、この頃の英国のクラブ・シーンは、アシッド・ハウス・ムーヴメント初期のハッピーなフィーリングはすっかり霧散していて、よりハードなドラッグと、それに呼応したプロディジーやシェイメンに代表される高速ブレイクビーツ・テクノに席巻されつつあった。正確に言うなら、『スクリーマデリカ』はアシッド・ハウス・ムーヴメントを象徴するロック・アルバムではなかった。そんな夢の時代の「終わり」を刻印したアルバムだったのだ。




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