7. もし仮に、スフィアン・スティーヴンスという作家が何かしら「アメリカ」をレプリゼントしているとした場合、彼が代表する「アメリカ」とはどんなものか、について教えて下さい。
清水:失われたアメリカ。ウディ・ガスリーのアメリカ。もしくはサイモン・アンド・ガーファンクルの“アメリカ”。
岡村:侵略の末にむりやり合衆国化させた多民族国家であり、民族や宗教による分断が今なおいくつもの悲劇の火種を抱えている大国の中で健気に生きる、何の力もないけれどいくらかのプライドを持ったローカル・シティのリベラルな国民。
8. スフィアン・スティーヴンス作品における宗教的な側面について教えて下さい。あるいは、彼自身の宗教的なスタンス、バックグラウンドについても。
清水:スフィアンのクリスチャンとしての側面は、毎年制作しているクリスマス・アルバムや、聖書からの引用を多く含む『セブン・スワンズ』などに反映されていると思います。宗教的なスタンスについて本人は多くを語ろうとしませんし、また僕自身もクリスチャンではないので断言しかねるところです。
岡村:神の存在に迎合、依存するキリスト教徒に揶揄しながらエールを送るようなスタンス。キリスト教思想を信奉する人々に暖かい目を送りながら、キリスト教そのものを否定するポジション。そう言いつつも、神頼みをしてしまうような自分に腹立たしく思うアンビヴァレントなスタンス。『ミシガン』収録の“オー・ゴッド、ホエア・アー・ユー・ナウ?”の痛々しさが象徴的。
9. 作家自身の出自や民族、生い立ちを、その作家の作品性に接続して、何かしらの答えを導き出すという考え方そのものには諸手を挙げて賛成は出来ません、と前置きした上での質問です。彼の出自や生い立ちが彼の作品に明らかに影響を与えただろうポイントについて、出来るだけ具体的に教えて下さい。
清水:新作についてのインタヴューで明かされた彼の複雑な家庭環境(両親の離婚や母親が再婚した義父との生活)は、彼の少年時代が決して幸福なものではなかったことを示唆しています。しかしそこから逃避するための手段だったであろう物語や空想の世界への傾倒が、結果として彼の想像力に翼を与えたのかもしれません。
岡村:両親への深い慈しみと、たっぷりの愛情を得られなかった憎悪がほとんどの作品のモチーフになっていながらにして、血のつながりがある肉親の絆を信用しているわけではない点。とりわけ『ミシガン』と『イリノイ』『キャリー・アンド・ローウェル』における、家庭不和と生活不安定を抱えていた幼少時を描いた曲で、継母、義父といった、子供にはどうにも抗えない直接血のつながりのない身内を多く登場させることで、葛藤しながらも血縁ではない他者と共生していかねばならない苦しみと醍醐味を説いている。そして、それはやはり他民族国家の中で、否応なしにヒエラルキーが生まれてしまっている合衆国の矛盾を静かに炙り出していると感じます。
10. スフィアン・スティーヴンスという作品における「想像力」において、あなた自身がもっとも有効性があると感じ、あなた自身がもっとも感銘を受けるポイントについて、出来るだけ具体的に教えて下さい。
清水:「真実に近づくということは、現実をそのままなぞることではない」というのはテネシー・ウィリアムズの言葉ですが、スフィアンの作品も、現実から離れることで、むしろ真実に近づこうとしているような気がします。だから自伝的な内容の新作をはじめて聴いた時は彼の想像力が現実に屈してしまったのかと思って少し残念だったのですが、実はそうではなくて、これもひとつの想像で、アルバムという作り物の世界の中でだけ、彼は実際には疎遠だった母親に寄り添い、理解することができたのだと思います。
岡村:初期の頃のパフォーマンスで、背中に羽をつけて登場し、鳥や虫などを擬人化してみることで、人類の存在の小ささ、奢りなどをユーモラスに伝えている点など。
11. 作品の形式とニュアンスという点において、スフィアン・スティーヴンスという作家に何かしら近いものを感じる音楽家、映画作家、小説家の名前を挙げて、その理由についても教えて下さい。
清水:ランディ・ニューマン。映画音楽家としても知られる彼は、ヴァン・ダイク・パークスやライ・クーダーらと並んで、1970年代にカリフォルニアのバーバンクを中心に勃興した「ディスカヴァー・アメリカ」というムーヴメントの中心人物でもありました。ニューマンがエヴァリー・ブラザーズの『ルーツ』というアルバムに提供した“イリノイ”という曲は、まさにスフィアン・スティーヴンスの『イリノイ』に通じるものがあると思います。
岡村:ヴィンセント・ユーマンズ。使用されている音域は決して広くないという点、なのにとても瑞々しいメロディと華やかなアレンジ、突飛な音の組み合わせなどで推進力を与えている点などで共通している。ただし、歌詞はスフィアンの方が何100倍も上。
エンニオ・モリコーネ。ブライトで絵画的な作風で、移民の文化や辺境の風景を描くような表情豊かなアレンジメントの点で。ベース、ドラム、管楽器、弦楽器をダイナミックに交配させる演奏手法もモリコーネからの影響を感じさせる。
12.作品における主張、考え方、メッセージというポイントにおいて、スフィアン・スティーヴンスという作家に何かしら近いものを感じる音楽家、映画作家、小説家の名前を挙げて、その理由についても教えて下さい。
清水:フラナリー・オコナー。スフィアンと同じ敬虔なクリスチャンで漫画家志望でもあった彼女は、絶えずその信仰と、それに対する疑念の間で葛藤していたように思います。スフィアンも彼女の短編と同じ“ア・グッド・マン・イズ・ハード・トゥ・ファインド”というタイトルの曲を書いていますが、狂信的な大叔父に育てられた少年とその叔父の対決を描いた長編小説『烈しく攻むる者はこれを奪う』は、スフィアンの新作に通じるものがあるかもしれません。
岡村:イーリア・カザン。とりわけ、トルコ系ギリシア人青年がオスマントルコ帝国の下で、アメリカへの移住するまでの話が描かれたカザン監督の『アメリカ、アメリカ』(1964年)は、そもそもがスフィアンの先祖の物語のようですが、民族面での多様性を徹底的に肯定して切り取ろうとするしたたかなポジティヴィティに共通の意識を感じます。カザン監督作品にスフィアン作品ほどの軽やかさはないですが。
アーサー・ラッセル。弱者、マイノリティの目線、移民の目線を絶対に動かすことなく、伝統的なフォークやディスコなど時の最先端の音などをクロスオーヴァーさせ、おまけにチェロのような高貴な楽器を武器にもしてしまう包容力のあるところ。
ピート・ハミル。大衆的な短編小説、新聞コラムのようなわかりやすいタッチでアメリカン・リベラル層にユーモア混じりの論説を淡々と伝えようとするジャーナリスティックな視座がある、という点。
13.もし仮にスフィアン・スティーヴンスという作家が、日本国籍を持っている、あるいは、日本語を話すネイティヴだったと仮定した場合に、彼ならこの2015年において、どんな作品を作っただろう? どんな音楽性、どんなリリックの内容、そこに秘められたメッセージ/考えはどんなものになるだろう? あなたなら、どんな風に想像するか、について教えて下さい。
清水:47都道府県をアルバム化するだろう、と考えるのは容易いことですが、問題はスフィアンの生まれ故郷であるミシガン州は、日本でどこにあたるのかということです。結論から言うとそれは滋賀県で、この2つの都市にはミシガン湖と琵琶湖という共通点があるだけでなく、実際に姉妹都市として提携を結んでいます。というわけで、滋賀県近江八幡市出身の元牧師で、民謡とロックの融合を試みた“フォークの神様”こと岡林信康こそが、もっともスフィアンに近い日本人ミュージシャンだと言えるのではないでしょうか。異論は認めます。
岡村:大きなビルが彼方になんとなく臨めるくらいの郊外の、最も下層階級エリアに暮らす着るものも食べるものも粗末な子供たちが、チェーン展開される町の安古本屋でこっそり失敬してきた立花隆の臨死体験本から得た未来予想図。あるいは、消滅可能性都市とされる東京都豊島区の路上で、生きることも死ぬことも選べないままただただそこにいる以外どうしようもない浮浪者による、金券ショップの周囲をウロウロしてようやく拾った山手線の切符での途切れない循環旅行。または、経済的に何不自由なく育ったものの、将来の夢を問われて「コンビニの店長」と無邪気に答える幼稚園児の家庭の食卓に並ぶ調味料で作られたハンバーグの匂い。
そんなキーワードを紙ナプキンに書き合いながら、ファミレスで始発までの時間を潰す男女カップルの会話が歌詞。サウンドは極力音数の少ないストイックな電子音とポップなメロディ。想像つきませんが。
「ゼロ年代USインディにおける最重要人物、
スフィアン・スティーヴンスの作家としての
横顔を炙り出す13の質問。part.1」
はこちら。