そうです、監督はあのクエストラヴ。ただその驚きより、この映像が50年間埋もれていたことに呆然とします。モンタレー・ポップ、ウッドストック、オルタモント、ワイト島。そんなフェスが60年代の音楽と文化を動かし、世界を変えたとされるのに、ウッドストックのそばで開かれていたハーレム・カルチュラル・フェスティヴァルは、「黒人のフェス」というだけでないことにされていたなんて。その凄さは冒頭、19歳のスティーヴィー・ワンダーのドラム・ソロだけですぐにわかります。そこからは多様な音楽、圧倒的なステージの連続。グラディス・ナイト&ザ・ピップスらモータウンのスターたち、フィフス・ディメンション、B.B.キング。マヘリア・ジャクソンはゴスペルを歌い、ラテンのグループも登場する。最後はスライ&ファミリー・ストーン、ニーナ・シモン。ただクエストラヴはフェスを警備するブラックパンサーやおしゃれをして集まった観客にも目を向け、記録映像を挟み、当時の社会で起きていた変革をブラックの視線で語り直します。現在のインタヴューとして出演者だけでなく、観客として参加した人々を取り上げているのもいい。1967年6月から8月にかけ、6回の週末にまたがったこのフェスがあったという歴史を、いま大勢が知るべき。個人的にはアシフ・カパディアの『1972』(2021)を観て以来、気になっていたスライ・ストーンのライヴ演奏が収穫。クエストラヴが現在が手がけている新作もスライのドキュメンタリーだとか。そちらも注目です。
『アタック・ザ・ブロック』(2011)など、ロンドンの公営住宅に住む少年の集団はよく見るけれど、こんなに少女たちを見る映画は初めてかも。母親と弟とともにステイト・カウンシルで暮らす主人公ロックス。母親が姿を消した後、彼女はソーシャル・ワーカーによって家族が引き裂かれるのを恐れ、幼い弟と二人、イースト・ロンドンを彷徨います。ただそんなプロットよりさらに魅力的で、説得力があるのがロックスと親友たちの場面。げらげら笑ったり、ラップしたり、お互いメイクしたり……人種、宗教、家庭環境が違う子たちでも、学校という場所ではみんな同じロンドンっ子のBFF。ただその外に出ると、経済的な違いのせい、そしてナイーヴさのせいで、いくら彼女たちがロックスを助けようとしても空回りしてしまう。ロックス自身も苦境を話せず、人を頼れない。それは思春期だからというだけでなく、彼女の人生のハードさを物語っています。そう、素直に人を信じられるのは、ある意味特権的なことだったりする。でもそのハードルを飛び越えるのはやはり、彼女らのシスターフッドなのです。演技をしたことがない子たちの生き生きとした表情を引き出したのは、『未来を花束にして』(2015)のサラ・ガヴロン監督。
ホラー映画はどんどん新しいスタイル、テーマが出てくるジャンル。いまは差別の構造のメタファーがトレンド。ただ恐怖の対象はあらゆるところにあり、「死の機械」の歯車は動き出したら止まりません。オーストラリアのナタリー・エリカ・ジェームズの長編第一作では、それはゆっくりとしたプロセス。というのも原点にあるのは、認知症になった祖母に会うため、母の故郷である日本を訪れた体験だとか。それは彼女にとってまだ生きている人に訪れる、死よりも恐ろしく悲しい変化だったようです。ストーリーに出てくるのも祖母エドナ(ロビン・ネヴィン)、娘のケイ(エミリー・モーティマー)、孫のサム(ベラ・ヒースコート)という三世代の女性たち。エドナが失踪し、突然戻ってくると、次々奇妙な出来事が起きます。やがて秘密を隠した古い家は、ケイやサムをも飲み込んでいく。そこでは恐怖だけでなく、戸惑いや悲しみ、懐かしさや愛情、罪悪感と赦しまで、さまざまな感情が行き交います。老人が取り残された田舎町、家に閉じ込められる女たちなど、社会的なメタファーも続く。ただ最後には、すべての人が受け入れるしかない運命が待っています。やはりオーストラリアの女性監督、ジェニファー・ケントの長編第一作『ババドック』(2014)と見比べたいところ。
『セレブレーション』(1998)は、ドグマ95のルールに則ったトマス・ヴィンターベアの監督第一作。ストーリーも衝撃ながら、あの映画は何かしらアナーキーで不穏なものに満ちていました。その後ヴィンターベアの作品はよりメインストリームになったものの、ついにオスカーで外国語映画賞を取ったのが、この初心に戻ったような『アナザーラウンド』。落ちどころがあるのかないのかわからないような、無謀な実験精神に貫かれているのです。マッツ・ミケルセン演じるマーティンら、4人の高校教師たちが試すのも無茶なアルコール実験。彼らは中年の危機を迎えていて、その鬱屈を吹き飛ばすため、ノルウェーの精神科医の「人は元々、0.05パーセント血中アルコール濃度が低すぎる」という発言をもとに、つねに少量の酒を飲むことに。その顛末はハッピーとアンハッピーが混ざり合い、さらに高校生たちが関わることで、モラル的にもぎりぎりのところに踏み込んでいく。中年男の暴走と、エネルギーが有り余った若者の対比には笑いと哀感が滲みます。すごく、変な映画。
カール・マルクスの末娘、エリノア・マルクスの伝記映画。妙にポジティヴでヒロイックな話になっていたらどうしよう、と思っていたら、ちゃんと矛盾に引き裂かれる女性の物語になっていました。というのもインゲ・シュテファンの著書『才女の運命』にも書かれていたように、エリノアは高い理想を持ち、社会主義者/フェミニストとしてめざましい活動を見せつつも、偉大な父親を内面化し、その嘘に打ちのめされた娘。どんなに搾取されても別れられない、劇作家エイヴリングとの長年の関係も、恋愛というより父親との関係の鏡に見えます。公には男性による女性支配を訴えながら、私生活では愛と支配の区別がつかなかったのか、気づいていても離れられなかったのか。その意味で、エリノアがイプセン『人形の家』を演じる場面が白眉です。何よりロモーラ・ガライの熱演が映画のドライヴに。ヴィクトリア朝の女性が延々抑圧に耐えるような描写が続くと、突然いまのパンク・ロックが流れだす演出もアクセント。闘いつづけたエリノアには、最後、パンクな解放が訪れます。スザンナ・ニッキャレリ監督。