村上春樹が1982年に発表した短編『納屋を焼く』を、韓国の異才イ・チャンドンが舞台を現代韓国に置き換え大胆に改変。韓国社会の格差問題が生々しく入りこむことで、物語の骨格を保ったまま原作よりも切実な痛みや怒りを孕むものとなった。主人公のジョンスはアルバイトで生計を立てている小説家志望の貧しい青年。あるとき幼馴染のヘミと再会し彼女に恋心を抱くようになるが、彼女はアフリカ旅行から帰ってくるとベンというハンサムで裕福だが謎めいた男と懇意になっている。ふと「他人のビニールハウスを焼いている」と不穏なことをジョンスに言うベン。そしてヘミが失踪する。自然光で撮影したのだと思われる中盤の重要なこのシーンで、画面はほとんど見えないほど暗くなり、そして物語も真相も曖昧な領域に突入していく。消えたヘミの行方を追えば追うほど不可解なことが増えていく。そもそも、年の差がさほどないベンがなぜそんな優雅な暮らしをしているか分からない。ジョンスは何も見つけられないし、何もコントロールできない。この感覚はおそらく韓国で貧しく暮らす下層の若者たちの実感をトレースしたもので、原作ともっとも異なるのはそのフラストレーションが閾値に達する圧巻のラスト・シーンだろう。抽象的なミステリーであり、同時に、この世界の片隅から漏れ聞こえる悲鳴。間違いなく2019年最初のハイライト。
本作も持つ者と持たざる者との権力闘争をモチーフにしていると言えるが、このゲームの主要プレイヤーはすべて女性。18世紀イングランド、絶大な力を握るアン王女の寵愛を奪い合うふたりの女の闘いはかなり史実に基づいているのだという。つまり、男権力で動いていなかった歴史を現代的な視座から掘り起こしているのである(historyからherstoryへの読み替え)。ギリシャの鬼才ヨルゴス・ランティモスらしい毒っ気はたっぷりで、右派と左派が容赦なく蹴落とし合う様はある種の政治風刺劇だった『ロブスター』を思わせたりも。だがここにはたんに力を得たいという欲望だけでなく、愛されたいとか必要にされたいとかいった面倒な感情も入り込んでおり、そのことが女3人による三角関係の様相をも生み出していく。男を一切必要としないパワー・ゲームにして愛憎劇(男たちはここでは彼女たちに使い捨てられる駒にすぎない)。痛快だが痛ましく、華麗だが禍々しい。オリヴィエ・コールマン、レイチェル・ワイズのヴェテラン勢はもちろん、エマ・ストーンがかつてないほどドライなヨーロッパ的演技を見せてくれるのにも興奮する。
『ラ・ラ・ランド』のカラフルなミュージカルもまた、本作を観ればまさしくデイミアン・チャゼル的なテーゼが横たわっていたことが分かる。つまり、夢や目標に狂っていき、地に足のついた生活や日常を失っていく男の物語だ。人類ではじめて月面着陸をしたニール・アームストロングを「英雄」として描くのではなく、ライアン・ゴズリングの無表情と宇宙船のただ中に観客ごと放り込む臨場感漲る演出によって常軌を逸したものとして捉え直すのである。宇宙開発計画の過程で仲間たちが次々と犠牲になっていくのも、危険なミッションを生々しく映すのもホラー要素があり、『セッション』に近い感覚がある。劇中でも描かれるが、普通の感覚からすれば膨大な国家予算を失敗続きの危険なミッションに使い続けるのは異常なことだし、国の横暴でもある。けれどもそんな正論の届かない場所へと男は向かっていく……何かから逃げようとしていのか、それともどこか新しい場所へ辿りつこうとしているのかは、市井の人間には分からない。チャゼルが見つけたいのはその領域なのだろう。そう、夢という名の狂気。ちなみに宇宙計画反対を声高に訴えるギル・スコット・ヘレンが一瞬登場するのだが、演じているのはリオン・ブリッジス。
ここのところアメリカ近現代史における政治劇が増えているのは、明らかにトランプ政権以降の現状に「なんでこうなってしまったんだよ!?」とアメリカ人たちが叫びたくなっているからだろう。ジェイソン・ライトマンはしかし叫ぶ代わりに、ごく冷静に1988年の大統領選挙を振り返る。民主党予備選においてフロントランナー(最有力候補)と呼ばれたゲイリー・ハート上院議員(ヒュー・ジャックマン)がスキャンダルによって失脚していく様を描いていくのだが、それはアメリカ政治が「政策から人柄へ」移行したターニング・ポイントだったのだという。わたしたちは史実から88年に父ブッシュが当選したことを知っているため、いまから回顧するこの分岐点は何とも苦々しいものがある。というのは、民衆がスキャンダルに熱狂することで何か見落とされたものがあったのではないかと本作は訴えているからである――そう、2016年の大統領選挙のように。とはいえ、女性のリアルな声がようやく男権力を揺るがすようになったこともここではしっかり描かれているので、もちろん単純にゲイリー・ハートを庇うものともなっていない。アメリカの政治のあり方の複層性を炙り出しつつ、2020年の課題を考えているのである。
2014年に英語版がリリースされた、こんまりこと近藤麻理恵の『人生がときめく片づけの魔法』は大ベスト・セラーとなり、一躍時のひととなった……のはまだしも、まさかNetflixのテレビ・シリーズになり、一大ミームにまで化けるとは……2019年初頭を象徴する「現象」はこれでしょう。片づけマニアの僕の姉が言うには、自身も汚部屋出身を売りにする片づけコンサルタントが多いなか、幼少期から片づけのことばかりを学び、自身の卒論で片づけ論まで書いてしまったこんまりさんは片づけ界のエリートなのだそう。なるほど、つまり由緒正しき巫女なのだと。実際、本シリーズでも片づけを始める前に「家に挨拶をする儀式」を行うこんまりさんは遠くの国から来た聖なる少女のようで、キャーキャーとはしゃぐ彼女の姿は欧米人が思う「日本人女子」のステレオタイプと合致するものだろう。だから、現代版オリエンタリズムないしはジャポニズムとしてケチをつけることもできるのだけど、ある種の文化衝突がここで起こっているのは興味深い事実だ。こうした類のテレビ番組で異人種カップルやゲイ/レズビアン・カップルが出てくるのはいまの欧米では当たり前のことだが、そこに典型的な「日本人女子」がいることで、現代的な異文化交流になっているのである。しかもアメリカでは、もう着ないシャツに「ありがとう」と感謝を告げつつ別れることを推奨する「こんまりメソッド」はアリアナ・グランデ“サンキュー、ネクスト”から続くフィーリングなのだと指摘されているそう。アメリカの2019年の鍵を握るであろう痛みを手放し次のステージへと向かおうとするムードはなんと、日本からやって来た片づけの達人が握っていたのである……ということを、超絶散らかった部屋でゴロゴロしながら考えています。