全8話からなるこのテレビ・シリーズの各エピソードには、すべて、“RIGHT HERE, RIGHT NOW”なるタイトルが添えられている。ほかのいつでもない、ほかのどこでもない「いま、ここ」――。ルカ・グァダニーノが監督・脚本・制作を務めた本作は、『君の名前で僕を呼んで』が掬ったものの先を志した青春劇で、群像的なスタイルで10代の夏を純度を保ったまま陶酔的な映像に封じこめる。中心となるのは、軍人の母親の異動でイタリア米軍基地に引っ越すこととなったフレイザーと、その隣に住むケイトリン。ふたりはセクシュアリティとジェンダーの揺らぎを共有しながら、親との葛藤、音楽や服への思い入れ、微細な変化を続ける友人たちとの関係、自我の探究といった思春期の「いま、ここ」を生き抜いてみせる。 悩みも痛みも情動も喜びもすべて……そのすべてが、残酷なまでにみずみずしい。 と同時に、その眩しい夏にはふたりの周りの人物たちのアイデンティティの変節も織りこまれており、このドラマが示すところの「WE」を多層的なものにしている。これは共同脚本に入っている『素数たちの孤独』の作家パオロ・ジョルダーノの働きも大きいと思われるが、結果としてハイ・アートとポップの間のどこかを漂うグァダニーノの奇特な作家性をより複雑なものにすることになった。そしてこのドラマを観るわたしたちは、胸の疼きすらを快楽として味わうことになる。子どもたちの心の動きとセンチメンタルと共鳴する音楽を手がけたのは、ブラッド・オレンジのデヴ・ハインズ。
中国映画に明らかに何かが起こっていると現代の映画を追っている多くのひとは感じているだろうが、1988年生まれのグー・シャオガン監督の本デビュー作はその決定打にちがいない。江南の水郷地帯に暮らす大家族が群像的に描かれ、それら様々な人生の移ろいはすべてゆったりとした時間の流れに受け止められる。穏やかな大河の流れのように……。2時間半の上映時間ではまったく時間が足りないと感じさせる大きさを持った作品だが、これはあくまで三部作の第一作とのこと。そうした巨視的な感覚は、中国社会の急激な変化が関係しており、実際それは本作の後景に映りこんでいる。そして前景にいるのは、時代の変化や家族がたどる運命に呑まれるまま、それでもどうにか幸福に生きようともがく市井の人びとだ。そのなかの誰かひとりに肩入れすることはなく、しかしすべてのひとに慈しみが注がれる。叙情的な映像はエドワード・ヤンら台湾ニューウェーヴに影響を受けたとのことだが、それらに比べ本作はむしろ未完成であるがゆえの光を携えているように見える。緊張よりも安らぎを生む長回し、混沌よりも不思議な温かみを感じさせる群衆描写。それらはひどく人間的で、いま、世界に必要なのはそうした柔らかな眼差しだと信じているひとが作った映画なのだと強く感じさせられる。
曽根圭介の同名小説を原作とした韓国発のクライム・ムーヴィ。大金を多数の人間が奪い合うという設定や、断片的な出来事の羅列で全体像を少しずつ見せていくパズル的な設計、ドライでスタイリッシュなテンポ感や映像感覚は初期タランティーノや初期ガイ・リッチーなどを連想させるものの――要は日本でも一時期けっこう流行ったあの感じ――、ところどころで描写のエグみが強いのが韓国的な味つけと言えるだろうか。けっこう複雑な話なのに109分でまとめたストーリーテリングの手際の良さや、巧い俳優陣が適材適所で置いた効率の良さには素直に驚かされる(しかも、監督のキム・ヨンフンは本作が長編デビュー)。大金を巡って人間たちが右往左往しあっさり次々と死んでいく様は、現代アジアが舞台であることで90年代の欧米のクライム・ムーヴィ群よりも (とくに日本のオーディエンスにとっては)リアリティが増していると言えるかも。日韓の文化的交流のあり方のサンプルを見る意味でも、現代の韓国エンターテインメントの水準の高さを体感する意味でも小気味いい一本。
『ファーゴ』のテレビ・シリーズはサーガ的な形式を取ることで、コーエン兄弟のオリジナル映画のシニカルな「味わい」をいわばブランド化するものだった。シーズン4にあたる今回も、「この物語は実話に基づく」という虚構のテロップ、雪に滴る血、クセの強いキャラクターの交わりと偶然の悪戯によるボタンのかけ違いといったシリーズの約束事は踏襲されている。あくまで緻密な脚本が骨子にある作風もコーエン兄弟から引き継ぐもので、そこが相変わらず評価が分かれるところだと思われるが、本シリーズは1950年代の異なる移民グループの緊張感をメインに据えることによって、これまでよりも現実世界に開かれているように見える。マイノリティ同士が否応なく対立せざるをえない様は現代アメリカの矛盾そのもので、だからこそ『ファーゴ』ブランドのシニカルさが効いているとも言えるのだ。ただそこでポイントとなるのは、クリス・ロック率いる黒人ギャングとジェイソン・シュワルツマン率いるイタリアン・ギャングの抗争の傍らで、さらに周縁化された人びとこそがドラマを動かしていくところで……それは、これからのアメリカ社会をどこか予言的に照らしているようでもある。
ファザーフッド(父であること、父性)の見直しが強く求められている現代のアメリカにおいて、脱トキシック・マスキュリニティをテーマにした『幸せへのまわり道』といい、ある種の「よき父」のアイコンとなっているのがいまのトム・ハンクスだ(「コロナ」の名前でいじめられた少年に手紙を書いたエピソードなどを参照してください)。南北戦争後のテキサスを舞台とするこの西部劇においても、孤児の少女を拾った退役軍人の姿を通して「父であること」を快復していく初老の男性を体現している。彼、キッド大尉の仕事がニュースの読み上げを生業にしているというのも示唆的だ。つまり、ふたつに分裂したアメリカのさなかで、包括的に「世界」を見ることを伝えることでよき父になっていく老いた男の物語……と言えるだろうか。それが2020年代、ひとつのモデルとなりうるファザーフッドのあり方と言えるかもしれない。基本的には重厚な時代劇でありつつ、中盤で乾いたアクション・シーンがスパイス的に入ってくるのはポール・グリーングラス印といったところ。