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BEYONCÉ Beyoncé (Sony) by AKIHIRO AOYAMA
MASAAKI KOBAYASHI
January 31, 2014
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BEYONCÉ

先鋭的なプロダクションに乗せてラヴとセックスを歌う大作に
母親となったビヨンセが込めた、女の幸福についてのメッセージ

昨年12月13日、事前予告もプロモーションも全くなしにiTunesで配信開始されたこのビヨンセによる5作目は、全14曲66分とその全てに付随する17本のヴィデオという長大なヴォリュームにも関わらず、発売からわずか3日で61万枚を売り上げ、ビルボード・チャートの1位に輝いた。その後も本作は売れ続け、リリースから1ヵ月を経た1月現在、ワールドワイド・セールスは300万枚を突破。これはすでに前作『4』のトータル・セールスと並ぶ数字であり、ビヨンセにとってはUSショウビズ界のクイーンとしての存在感と矜持を改めて見せつけたレコードになったと言っていいだろう。しかし、事前予告のない唐突なリリース、アルバム収録曲全てにミュージック・ヴィデオを付けたパッケージというフォーマット自体は、決して他に類を見ないほどに斬新というわけではない。むしろ感嘆すべきは、2012年1月にジェイ・Zとの子供を出産し母親となったにも関わらず、本作がこれまでの全てのソロ・ワークをも凌駕するほどにエッジーな攻めのプロダクションで彩られていること。そして、母親となった今だからこそ説得力を持って歌うことの出来る強いメッセージが全編を貫いていることだ。

本作のレコーディングには、フィーチャリング・ゲストとしてクレジットされているジェイ・Z、ドレイク、フランク・オーシャンの他にも、ファレル、ティンバランド、ザ・ドリーム、ジャスティン・ティンバーレイクといったUSメインストリームを代表する大御所から、ヒット・ボーイ、ディテール、ミゲルなど気鋭の若手アーティスト/プロデューサーまで、数えきれないほどの才能が集結。ここ数年のトレンドの1つであるトラップ譲りのバウンシーでどっしりとしたビート、ドレイクやザ・ウィーケンド以降のダーク&メランコリックな上音、ジャスティンの近作を思わせる2部構成など、現行R&Bの周囲を取り巻く様々な要素を取り入れつつも、全体はミニマルに統一。その結果、レトロなR&Bに回帰しミドル・バラードが大半を占めた前作から一転して、プロダクション面において完全に現代的な音感と先鋭性を取り戻している。

ミスコンを題材として、外見的な美しさばかりを追い求める女性たちに対して「手術が必要なのは心のほうよ」と苦言を呈する“プリティ・ハーツ”で始まり、愛情の裏返しとしての嫉妬や束縛が歌われる“ジェラス”と“マイン”、親友の死に直面した深い悲しみを綴った“ヘヴン”、娘への無償の愛を表現する“ブルー”といった多様なテーマを扱いつつも、その他大半の楽曲で歌われているのは情熱的かつ陶酔的で、露骨なほど淫らなラヴとセックスについて。ただ、それら明け透けなセックス・ライフの吐露には、これまでにも数多くの女性アーティストが掲げてきた「性にも奔放な、強い女性像」のアピールのみに終わらないメッセージが込められている。その意味については、YouTube上にアップされた本作の解説動画で語られている、ビヨンセ自身の談を引用するのが最良だろう。「母親になったからといって、必ずしも自分自身を失うわけではない」、「子供を授かっても、私たちは楽しむことだって出来るしセクシーでいることも出来る。性的でいる事を恥ずかしいとは決して思わない。なぜなら、セクシュアリティは私たち皆が持っているパワーだと信じているから」

本作は、ミスコンの司会者とビヨンセ扮する勝者の間でかわされるこんなやり取りから始まる。「ミス・サード・ワード、最初の質問を。きみの人生の目標は何?」「人生の目標?それはたぶん……、幸せになること」。そう、このアルバムは、とどのつまり女性にとっての幸福とは何なのかという、単一の正解など存在しない問いに対しての、母親として、妻として、アーティストとして、そして1人の女性としてのビヨンセなりの答えなのだ。

文:青山晃大

あらゆる意味で“今”を強く意識しながら作り上げ、
送り出された、ビヨンセ自身の半生のまとめ

今から半年ほど前に発表された“グロウン・ウーマン”は、(“グロウン・アフリカン・ウーマン”をイメージしたのか)音そのものについてはアフロ・ビートの導入を、ミュージック・ヴィデオについては幼年期からレコード・デビュー前に至る成長期の様々な場面で「踊るビヨンセ」の姿を収めたホーム・ムーヴィ映像からシーパンク的な表現の映像への転換を、どちらもさりげなく行なっていることに、耳と目を惹かれた。

と同時に、彼女はこの曲以前のスーパーボウルでのライヴでも、シーパンク的な映像効果を取り入れていたから、いよいよビヨンセ“も”シーパンク(のイメージを本格借用)か!と思っていた。そんな中、忽然と姿を現したのが、CDとその収録曲+3曲のミュージック・ヴィデオを収めたDVDの2枚組で構成された本作だった。しかも、“ノー・エンジェル”のヴィデオを監督しているのが、シーパンクという言葉を思いつき、そのヴィジュアル・イメージを知らしめした張本人であるリル・インターネット。ビヨンセとそのスタッフは、リル・インターネットが、シーパンクという言葉が固定化・差別化されたイメージにつながるのを嫌悪していることを知っていたのだろうか。ここでの作風も、いわゆるシーパンク的なイメージを喚起させることを断固として拒絶するようなものになっている。

CD本体のほう、つまり、このアルバム全体を通して聴いて、まず、強く感じとれるのが、トラップのドラム・パターンやベースが強調された、その特徴的な音色の、大胆な導入だ。2曲目からベースがヘヴィに鳴り、ビヨンセもラップ風のデリヴァリーを聴かせるが、“ドランク・イン・ラヴ”に顕著なように、それに負けじと、というか、特色あるそのビートを踏破するかのように、ビヨンセらしく豪快に歌いまくるスタイルが基本となっている。

ビヨンセ“も”シーパンクか、という表現に倣えば、ここでは、ビヨンセ“も”トラップで歌うのか、となる。というのも、シーパンクの意匠に則ったヴィデオやスタイリングも、トラップで歌うことも、少なくとも1年以上も前に、リアーナがやってしまっているし、楽曲としては成功しているのに、リリース・タイミング的に厳しかったM.I.A.のような例もあるからだ(そういえば、彼女のフロウのパロディらしきものが“フロウレス”から聴き取れる)。

ならば、これは、トレンドに追いつけ、追い越せ、スターどうしの覇権争いか、という話になるのか、と言われれば、決してそれだけではないだろう。確かに、ドレイクとノア“40”シェビブとマジッド・ジョーダンが組んだ“マイン”は、ピアノ・ソロを聴かせるプロダクションから言っても、『ノッシング・ワズ・ザ・セイム』に入っていてもよかった、と言われるだろうし、素晴らしいディスコ・ブギーに仕上がっている“ブロウ”は、ブルーノ・マーズ→ダフト・パンク→ロビン・シック……の流れに乗っているように聴こえてもおかしくないだろう。しかも、ハイプ・ウィリアムス監督お得意の、赤を基調にしたカラーリングで魅せる、この曲のヴィデオの設定は、ローラー・ディスコとわかりやすい。

そこでも、勿論、映し出されるわけだが、DVD(ミュージック・ヴィデオ集)のほうは、とにかくビヨンセの腰からヒップにかけてのライン、というか彼女の腰つきというか尻肉を切り取るショットが殊のほか多い。驚くべきことに、このショットが最も控えめな“ヘヴン”でさえも、腰とか肉のイメージが浮かび上がってくるのだ。まず、この曲をCDで聴いていた段階では、「Heaven couldn't wait for you」と(エルンスト・ルビッチ監督の名作のタイトルの否定形しかも過去形)繰り返されるのはなぜ?とは思っていたが、後からヴィデオをあわせ見ることによって、この曲は、生まれてくることのできなかった彼女自身の子供に歌いかけているのではないか、と思い当った。

これは、アルバムでは最後から二番目に入ってる曲だが、そこに至るまでには、前作までの、女性のポジティヴな意味でのロール・モデル的な存在としてのビヨンセと違うのでは?と眉を顰める人も出てきそうな“パーティション”(CDで聴いていた時からナスティだと思っていたが、ヴィデオでは、パリのクレイジーホースで腰を激しくグラインドさせている)もあれば、誤解されやすい、彼女なりの変化し続ける“今現在の”「フェミニストであるとは論」が“フロウレス”に組み込まれていたりしている。

こうして、揺さぶられた末、件の哀しみに満ちた“ヘヴン”にたどり着き、続くアルバムのラスト“ブルー”では、一転して、ビヨンセが授かることができた待望の第一子までフィーチャーされている、そんな劇的な展開を目の当たりにすると、“今”のビヨンセを取り巻く環境、そして、何よりも、ビヨンセの肉体が“今”ここにあるからこそ、作品として、歌える、表現できる、と彼女自身も強く感じながら作られたのではないだろうか。CD、DVD、共に1曲目となる“プリティ・ハーツ”のヴィデオで、早くも、ダイエット・ピルや美容整形といった、生身の肉体に大きな影響を及ぼす暗い影が差し込んでいるあたりは、彼女の腰つきや尻肉が、単なる目の保養の対象としてだけで消費されないように釘をさしているようで、その後のアルバムの展開と照らし合わせると、巧みな導入部だと言える。

今だからできる、これまでの半生のまとめ、それを、今現在の視点で意識的に行なう上で浮上してきたのが、シー・パンク(というかリル・インターネット)であり、トラップであるのだろうと考えてあげたいところだ。そういう意味では、ボーナス収録されている“グロウン・ウーマン”のヴィデオは、本作に忠実な予告編だったということになる。さらに、アルバム収録の楽曲ごとの特色とクレジットを照合してみると、トラップ絡みのベース・サウンドは、恐らく、ブーツなる新進プロデューサーがほぼすべて関わっているであろうことが推測できるし、何よりも“ヘヴン”と“ブルー”の2曲は、このブーツとビヨンセの二人だけで作られているのだ。

本作は、10年後、20年後に、総合的な意味で名作として聴かれたり、過去にあったようなシングル・カット曲が爆発的にヒットしたり、ということはないかもしれない。ただ、“今”を意識したこの作品の立脚点そのものが、予告なしの突然のリリースをもたらしたと考えることもできないだろうか。

文:小林雅明

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