今、君は『フォー・ザ・ファースト・タイム』と名付けられたレコードを聴き終えようとしている。おそらくこれは模倣についてのレコードだ。だが、君には英国ケンブリッジ出身の7人組、ブラック・カントリー・ニュー・ロードの刻んだ音が何を模倣しようとしているのか、確信が持てずにいる。
〈インディペンデント〉紙のライター、ロアジン・オコナーは本作のレヴューで「君たちはギャング・オブ・フォーとザ・フォールしか聞いたことないの!?」と、ギター・サウンドとドラミングのポストパンク・リヴァイヴァル的な側面にうんざりした様子を見せている。〈ピッチフォーク〉のレヴュワー、ジャズ・モンローは、若者の傲慢さと性的不全を「聖書の代わりにTwitterを与えられたニック・ケイヴのように」描くリリシストとして、フロントマン、アイザック・ウッドを形容する。多くの論者が共通して指摘するのは、スリントやフガジの90年代ポスト・ハードコア、スティーヴ・ライヒやフィリップ・グラスのミニマル・ミュージック、そしてユダヤのクレズマー音楽からの影響。これらの指摘は全て間違いではない。君の耳と記憶が同意する。“サングラッシズ”の5分30秒以降のギター・カッティングとドラムのコンビネーションはギャング・オブ・フォー“パラライズド”と類似しており、“アテネ、フランス”の開放弦を混ぜたギター・リフはスリント“ノスフェラトゥ・マン”を思わせ、“インストゥルメンタル”や“トラック・X”における3と4のクロス・リズム、およびサックスとバイオリンの高速アンサンブルはグラスのオペラ作品『浜辺のアインシュタイン』の諸曲を想起させる。“オーパス”、“インストゥルメンタル”などに現れるハーモニック・マイナー・スケールのモーダルな展開はクレズマー的だと言えるし、「僕は彼女が使ってたベッドに横になり、言わなければよかったと後で後悔する言葉をネットに書き込む(“アテネ、フランス”)」などと低音を唸らせながら歌うヴォーカリゼーションに、ニック・ケイヴの幻影を見ることも可能だ。
こうした彼らの模倣性を、退屈な器用貧乏だと断ずる声も聞こえる。しかし、君にはこのレコードが、パンク・ハードコアに実験音楽・現代音楽・民族音楽の手法を持ち込むことで新たな音を提示しようとした80年代のソニック・ユースや00年代のバトルスのようなバンドの系譜上にあるとは、どうしても思えない。その視座から見ると、彼らの音楽に先達からの更新は感じられず、新鮮な驚きはない。だとしたら、それは君にとってもとてもつまらないものに思えるが、ブラック・カントリー・ニュー・ロードには別の使命があり、彼らはやるべきことを自覚しながら前に進んでいる存在だと、君は体のどこかで感じている。
〈ローリング・ストーン・ジャパン〉のインタヴューで、サックスのルイス・エヴァンスは「ポップ・アルバムを作ろうとした」と語り、キーボードのメイ・カーショウが同意している。この言葉には嘘も誇張もないと君は思う。Spotifyのブラック・カントリー・ニュー・ロードのページには彼らが選曲したプレイリストがアップされており、そこにはアリアナ・グランデ、カーリー・レイ・ジェプセン、ビリー・アイリッシュ、ハリー・スタイルズ、トリッピー・レッドと近年を代表するポップ・スターが並び、フランク・シナトラ、ウィングス、キャロル・キング、ティアーズ・フォー・フィアーズのポップ・クラシックも名を連ねている。彼らはポップ・ソングを作ろうとしている。しかし、それは既存のフォーマットを度外視した、折衷型のポップ・ソングである。
英国の複製大衆音楽の歴史には、折衷型ポップの系譜がある。それはロック音楽の歴史と併走している。ビートルズはロックンロールにインド音楽やミュジーク・コンクレートを取り込み、クイーンはハード・ロックにオペラやペルー音楽を混ぜ合わせ、レディオヘッドはオルタナティヴ・ロックに電子音楽やモード・ジャズをぶつけた。彼らはみな、多くの人にとって違和感を与える異形の音を作りながら、国民的かつグローバルな支持を得たバンドである。アフリカン・アメリカンやラテンやエイジアンの人々にも多大な影響を与え、そこから新たな混血音楽が生まれた。ブラック・カントリー・ニュー・ロードの模倣は、英国の磁場から生まれた巨大な存在達が繰り広げた冒険の延長にある。
『フォー・ザ・ファースト・タイム』は、大衆に馴染みのない音楽を模倣する。前述のミニマル・ミュージックやクレズマーだけでない。“サイエンス・フェア”の4分30秒以降の不気味な音のせり上がりはジョルジュ・リゲティ的なトーン・クラスターの模倣であり、それに先立つ耳ざわりなサックス・ソロはアルバート・アイラーやアンソニー・ブラクストンのフリー・ジャズの模倣である。多種多様の模倣の果てに、ポップならざるポップが生まれる。SpotifyとYouTubeとTikTokの時代に逆行するかのように、彼らの曲は長く、ヴォーカルは覚えやすいメロディを歌わない。ブラック・ミディやフォンテーヌ・DCでさえ曲はさして長くない中で、彼らは孤立した場所に影を寄せているかに見える。だが、二十世紀中盤に生まれたポップ・カルチャーが先行者へのレファレンス(言及)の集積によって生み出された「連続性の文化」であることを強く意識させる点において、本作を全英チャート4位まで届けたブラック・カントリー・ニュー・ロードは、英国大衆文化の本道に旗を立てるバンドだ。むしろ彼らは、多くの人々が持て余している「孤立」に形を与えていることでポップたろうとしているのだ。君自身も、その「孤立」を共有しているはずだ。
君は記憶を辿る。10代のある日、スーサイドの1stをヘッドフォンで聴きながら、君は厄介な妄想に耽る。狭いコンクリートの地下2階。演奏者と観客が密集し、冷たさと熱を共有しあう。虚無と情熱がひしめき合い、ユーモアとアイロニーが衝突し、抑制と過剰が火花を散らす。それは、知性と感性とファッション・センスと勇敢さを兼ね備えた者だけのための場所だ。人種差別もマチズモも許さないが、全てに開かれているわけではない。徹底して排他的な、同時にその空間の中では徹底して寛容な、センスと愛に妥協を犯さない少数者たちの空間だ。今の君は、夢想していたそんな時空間は幻想だと、少なくともすぐに瓦解するコミュニティだとわかっている。社会の破廉恥さは、ギリギリのバランスで成り立つ美しさを台無しにする。そもそも自尊心を持て余したあらゆる人間が、そして君自身が、美意識にもコミュニケーションにも欠陥を抱えた儚く醜い存在であることを知っている。だからこそ、君は地下室の美学を守り続ける人々、ジェネシス・P・オリッジやアンドリュー・ウェザオールやマサミ・アキタやケニー・ディクソン・ジュニアやローク・ラーベクやマーガレット・シャーディエットやアレハンドラ・ゲルシに、心からの敬意を抱いている。
地下室が地上の大衆音楽に晒されたら、その濃密な空気は雲散霧消するに決まっている。科学的ともいえる凡庸な事実だ、と君は思う。YouTubeにアップされた、2019年2月2日、〈ウィンドミル・ブリクストン〉でのブラック・カントリー・ニュー・ロードのライヴ動画。シンセサイザーの不穏なうねりと散弾的に鳴らされるシンバルの中でアイザック・ウッドの声がつぶやきから叫びへと変わるとき、ルイス・エヴァンスのサックスとジョージア・エレリ―のバイオリンが密接しながら非整数次倍音を響かせあうときに、彼らは地下室を知る作家だと君は直観する。ブラック・カントリー・ニュー・ロードが折衷ポップ冒険者たちの系譜に連なったとして、その時、地下室の気配はやはり消えてしまうのか。それとも、暴力的な美しさを宿したまま、彼らにとっての“ストロベリー・フィールズ・フォーエヴァー”を、“ボヘミアン・ラプソディ”を、“エヴリシング・イン・イッツ・ライト・プレイス”を響かす事態が有りうるのか。それはまだ、誰にもわからない。大西洋の東端の島ではなく、太平洋の西端の島に生まれ育ったモンゴロイドの君は、折衷と混血を押しつぶそうとする国家の空気のなかで、模倣と参照を文化営為として認めない大群のなかで、破廉恥を諦念と共に受け入れなくてはいけない日々のなかで自身のやるべきことは何かを、落ち着きもなく考え続けている。
10年近くムーヴメントらしき現象を起こせず、低迷を続けていたイギリスのインディ・ロック・シーン。しかし、ここ数年シェイムやゴート・ガールを筆頭に、サウス・ロンドンの〈ウィンドミル〉を拠点とするバンドたちが新たに潮流を生み始めているのは周知の通り。本作『フォー・ザ・ファースト・タイム』を作り上げたBCNRは、そんなサウス・ロンドンのシーンにおいて、数年前からブラック・ミディと並ぶ“真打”と目され続けてきたバンドである。
ポストパンクとフリー・ジャズを融合させたようなエキセントリックさが魅力のブラック・ミディに対し、彼らBCNRはマス・ロック的にシンプルなアイディアを反復させながら、”非ポップ・ミュージック的”な要素やインプロヴィゼーションで波を作ってリスナーを遠くに連れていく。それは言ってみれば、ミニマル・テクノDJのロック・バンド版のような存在と言えるかもしれない。そんな“正攻法のインディ・バンド”とは言えぬ両者がここまでの注目を集めている点は、現在のサウス・ロンドン・シーンの特徴を表していると言えるだろう。そして数ある〈ウィンドミル〉周辺バンドの中でも彼らBCNRが早くから強い注目を集めていた理由は、なんといってもライヴ・パフォーマンスにある。先述した通りブラック・ミディのインパクト抜群の楽曲と演奏は即効性に長けており、BCNRの呪詛的なフレージングと反復、それでいて日常に根差したリリックの組み合わせは、見慣れた日常が静かに姿を変えるかのようなトリップ感で聴き手を引き込む。さらに、些細なことのようでいて重要なのは、彼らの演奏する姿そのものが映像として映えたことだ。サウス・ロンドンのシーンをドキュメント&ブロードキャストする写真家ルー・スミスがアップした〈ウィンドミル〉でのパフォーマンスはYouTube動画越しにでも十分にその魅力が伝わってくる。ツアーができないコロナ禍においても彼らのレコードが即完するのには、そうした理由があるのだろう。
さて、そんなBCNRがリリースしたデビュー作『フォー・ザ・ファースト・タイム』は、“ライヴ・パフォーマンスを再現したレコード”といった内容に仕上がった。女声によるメロディが初期ムームを連想させる新曲“トラック・X”以外は繰り返しライヴで演奏してきた楽曲であり、それらをライヴ・レコーディング形式でレコーディングしたというエピソードからも、彼らBCNRが「ライヴの再現」にフォーカスを当てたことは明らかだ。ただし、ポップ・ミュージック史の中でライヴの再現に成功したレコードは皆無と言っていいのは、ご存知の通り。名盤と呼ばれるライヴ・アルバムがいくつかあるのは間違いないが、ジェームス・ブラウン、ジミ・ヘンドリクス、ザ・フー、ボアダムスなど、ライヴ・アクトとしての側面をスタジオ・アルバムに落とし込めなかったバンドは珍しくない。そして、やはり本作も彼らのライヴの魅力を再現しているかというと、首を傾げずにいられない。やはりYouTube動画を通して感じられる興奮はここにない。……だが、フリー素材としての写真を使ったアートワーク、そしてアルバム・タイトル『フォー・ザ・ファースト・タイム』が象徴するように、これは彼らにとってバンドの今をカジュアルに記録したドキュメンタリーなのだろう。「名盤を作る」という大仰な目標とは無縁。それもまたサウス・ロンドンのシーンを言い表しているように感じられる。