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HERE AND NOWHERE ELSE Cloud Nothings (Hostess) by MARIKO SAKAMOTO
JUNNOSUKE AMAI
April 01, 2014
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HERE AND NOWHERE ELSE

Gimme Indie Rock!

クラウド・ナッシングスの中心人物:ディラン・バルディという人は、音楽的なアイデンティティを見極めるべく逡巡する前にまずレコードを作ってみて、その上で考えればいいか……という、良く言えば「実行あるのみ」、悪く言えばロジックは跡づけで済ませるタイプという気がする。たとえば、基本的に宅録の初期音源を集めたコンピレーション『ターニング・オン』はガイデッド・バイ・ヴォイシズに通じるローファイ性×エモ・キッズのモジモジした世界観まんまなジャケットというチグハグな取り合わせだったし、セルフ・タイトル作では一転、80年代UK風のジャングリー・ポップをあざといほどキュートにリヴァーブのトッピングでアップデートしていた。脈絡がないっちゃない、というか。

ディラン当人は「毎作違う作品を目指している」とメディアのそこここで語っているし、時間軸から解放された音楽の聴き方に慣れた世代ならではな水平アプローチの賜物なのかな〜とも思う。と同時に、自己否定とフラストレーションとの間でピンボールのようにはじかれ、ムチ打ち気味にすり切れた若さの痛みをいかに音に吐き出すか?がまずありきで、フィーリングに合うのならスタイル/フォルムは手当たり次第という印象も抱く。それでもファンが増え続けてきたのは、汲めども尽きぬ泉のようにキャッチーなフックを連発できるソングライターとしての才という前提を彼がクリアしているからだろう。

とはいえ実質ソロ・プロジェクトからバンド編成に拡大しての第2弾となる本作は、ディランにとってのいわば「オレ探しの旅」の最初の一里塚になりそうだ。スティーヴ・アルビニをエンジニアに迎え、ポスト・グランジ・サウンドを模索してみせた前作『アタック・オン・メモリー』。ジャケット・イメージからして地続きと言えるあの転換作(収録曲数も同じく8)で打ち出したヘヴィなポテンシャルを発展させ、より肉厚なプロダクションを敷いたこのアルバム、ハスカー・ドゥ『ゼン・アーケード』(ちなみに20年前=1984年発表)型の絨毯爆撃なバースト&息継ぎすら許さないスピードで突っ走る。ポップなメロディとハードコア・パンクを融合させた草分けの存在にして、ピクシーズやニルヴァーナを始め多くのインディ・アクトに影響を与えたハスカー・ドゥ。言い換えれば彼らはクラウド・ナッシングス――奇しくも、今作からハスカー・ドゥ同様トリオにスリム・ダウンしている――の音楽的な曾祖父に当たるバンドであり、自然にルーツに行き着いた/嗅ぎ取ったその潜在的な「帰巣本能」は買いたい。

一歩間違えると90年代のポップ・パンク勢、あるいは体育会系エモに陥ってしまうことすらある予定調和なブレイク・ダウン(=これはこれでキまると気持ちいいんで、否定はしませんが)をやや抑えたソングライティングは、「瞬時に泡立ってもやがて気が抜けて甘いだけ」なコーラめいた即効のカタルシスだけではなく、心の中の滞空時間の長い楽曲への野心を感じさせる。バンドの好き/嫌いを分けるポイントであるディランの黄色く青臭い(黄緑色な?)線の細いノド声ヴォーカルにしても、ダブル・トラッキングやエコー他の処理に頼るだけではなくライヴ経験で鍛えられたことで確信と表情とを増している。決して長くない活動歴の中で様々なフェーズを潜ってきた彼らだが、本作はそのいくつものスレッドを力強く束ねた1枚だと思う。

――それがそのまま「めでたしめでたし:ハッピー・エンディング」とばかりにクラウド・ナッシングスとして定着するのかどうかは分からない。ディラン・バルディは若いし、音楽的な筋肉が凝り固まるにはまだ早いだろう(このアルバムからセバドーのようなアコースティック&苛性パンクの両立に向かったらそれはそれで面白いし、個人的には前作のもっとも出色なトラックである“ノー・フューチャー/ノー・パスト”におけるマス・ロック味やインスト曲の強化〜より高度なアレンジ力の求められるミッド/スロー・テンポ曲への挑戦など、アルバム1枚全体のバランスを工夫する方向に向かってくれればベター)。ともあれ現在決してセンター・ステージを占めているとは言いがたいサウンドを敢えて鳴らすバンドのひとつであるのは確かだし、こういうノイジーなギターでしか満たせない隙間というのもまた、確かにある。

文:坂本麻里子

USハードコアの源流を汲む現代ギター・ロックの若頭が、
前作で得た目覚ましい飛躍をへて、着実な前進を刻んだ最新作

レコーディング・エンジニアを務めたスティーヴ・アルビニの存在は、確かに前作『アタック・オン・メモリー』における重要なフックだった。実際、アルビニ特有のポスト・プロダクションを排したロウな音作りが、彼らの生硬(ゆえに予定不調和)な魅力を最大限に引き出したことは間違いない。ただし、あのアルバムを前後してクラウド・ナッシングスの、つまり、ディラン・バルディの何かが大きく変わったとするのは早計だろう。

なるほど、すでにライヴ用のバンドを結成していたとはいえ、レコーディングではバルディが一人で全パートを演奏した1stアルバム『クラウド・ナッシングス』と、プロパーのスタジオでバンド録音された『アタック・オン・メモリー』は、どだい別物に等しい。『アタック・オン・メモリー』のツアーが始まると、それ以前の古い曲をほとんどセットリストから外し、とくに宅録時代の『ターニング・オン』の曲については「もう二度とライヴではやらない」と語って憚らなかったバルディである。一方で、高校生の頃にグリーン・デイのコピーをやっていたエピソードも頷けるポップ・パンクの面影を漂わせた『クラウド・ナッシングス』が、しかし、バルディにとっては自身のルーツである80年代のUSハードコアへのトリビュート的な意味合いを持ち合わせていたことは、強く留意したい。「本心を表現したかったら32秒で伝える」とは映画「アメリカン・ハードコア」で語ったイアン・マッケイの言葉だが、実際、2分台や1分台の曲で占められた『クラウド・ナッシングス』は、バルディいわく「短くて簡潔(brief & compact)」というジャームスやハスカー・ドゥのレコードから授かった薫陶の賜物でもあった。

そして、『アタック・オン・メモリー』の評価は、むしろその延長線上に捉えるのが自然だろう。当時のバルディが、グランジ世代から再評価を受けたワイパーズや90年代の〈ディスコード〉のカタログに言及していた事実と考え併せれば、つまり、彼らの近作がUSハードコアの発展のプロセスを意識したものであることがわかる。アルビニの起用も、であればこその選択に他ならない。アルビニこそ、自身のバンドや数々のプロデュース・ワークを通じてUSハードコアの潮流を牽引した当事者の一人であり、いわば「80年代」から「90年代」へと移行するための10年の隔たりを埋める適材だったわけだ。

3作目の本作『ヒア・アンド・ノーウェア・エルス』においても、バルディが歩む路線に大きな変わりはない。そういう意味では、前作『アタック・オン・メモリー』が衆目を集めたようなインパクトは欠けるかもしれないが、それでも彼らが、USパンク/オリジナル・ハードコア以降の様々なフェーズを潜り抜けたギター・ロックの、現代における最高の果実であるという評価は揺るがない。その事実の再確認には、7曲目の“パタン・ウォークス”を聴くだけで十分だろう。『アタック・オン・メモリー』にも“ウェイステッド・デイズ”という(ワイパーズの“ユース・オブ・アメリカ”を青写真としたと思しき)9分台に迫るロング・セットがあったが、“パタン・ウォークス”はそのアプローチを深化させたナンバーであり、ジャム・パートを挟んで加速する7分強のギター・ロック・エクスペリメンタルは、彼らが70年代のプレ・パンクの時代にまで遡り、ロケット・フロム・ザ・トゥームズやミラーズら地元クリーヴランドの先達の遺産まで掘り起こそうとする野心も窺わせて逞しい。たとえば、彼らは本作のリリースに先駆けて収録曲を全披露するライヴを行ったが、それをあくまでプロモーションの一環と見るか、それとも本作に込めた彼らのステートメントと受け取るか。バルディが『ザ・ライプ』の最新インタヴューで語った「俺たちはライヴで再現(replicate)できないサウンドは作りたくない」という一言を待つまでもなく、もちろん、私は後者に賭けたい。

また、今回プロデューサーを務めたジョン・コングルトンの起用にも、彼らの一貫性は表れている。近年はセイント・ヴィンセントやエンジェル・オルセンとの仕事が印象深いコングルトンだが、過去にはモデスト・マウスやエクスプロージョンズ・イン・ザ・スカイのプロデュースを始め、それこそアルビニ率いたビッグ・ブラックの影響を汲むビッチ・マグネットのリマスターも手がけるなど「ハードコア以降」の現場に携わった経歴の持ち主である。アルバム・トータルとしては手堅さが先立つものの、『アタック・オン・メモリー』で築いた足掛かりの先へとバンドを押し上げた手腕は高評価に値するものだろう。

クラウド・ナッシングスの台頭は、かつて同輩だったベッドルーム作家がエスケーピズムを貪り、近しいギター・バンドがビーチを奔走した2010年代初頭のUSインディ・シーンにおいて、どこか反動的に映ったものだ。そんな『クラウド・ナッシングス』から『アタック・オン・メモリー』で見せた目覚ましい飛躍は、ない。しかし、赤く熟した鉄を成形し、あるべき鋳型に落とし込むような着実な前進が、ここには刻まれている。彼らが望む“此処でも何処でもない場所”は、きっとそのさらなる向こう側に拓けている。

文:天井潤之介

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