ディスクロージャーのデビュー作『セトル』は「事件」だった。リリース当時、まだ20歳前後だったガイ&ハワード・ローレンス兄弟は、たった1枚のアルバムで2010年代前半の音楽シーンを象徴する存在の一組にまで上り詰めた。
ローレンス兄弟の何がすごかったのか、改めて説明するまでもないだろう。2010年代前半のイギリスが「ハウス・ミュージックの時代」だったとすれば、彼らはその象徴であり、ブームの引き金を引いた決定的な存在でもある。勿論、アンダーグラウンドなクラブ・シーンにおけるモダン・ディープ・ハウスの潮流は、ディスクロージャー以前から活況を呈していた。だが、ほぼ同時期に全英1位を奪取したデューク・デュモントなどと共に、ハウスがヒット・チャートを賑わすポップ音楽の一形態として再浮上するための扉を開いたのは、間違いなくディスクロージャーだ。
彼らが引き起こした事件はそれだけではない。一足早く世界的なポップ・スターとなったサム・スミス参加の“ラッチ”が全米トップ10入りしたのを発火点に、アメリカでもブレイクを果たしてしまった。4つ打ちのクラブ・ミュージックが大きなポピュラリティを得ることが難しく、EDMが大ブームになったことさえ歴史的な事件であるアメリカにおいて、正統派の90年代ハウスを打ち鳴らすディスクロージャーが一気にアリーナ級の会場を埋める存在になったこと。それがどれほど画期的だったか。ケミカル・ブラザーズやアンダーワールドやプロディジーといった往年の名立たるビッグ・ダンス・アクトでさえも、1stアルバムの時点では全米トップ10ヒットを放つことなど到底出来なかったのを振り返れば、そのすごさがわかるだろう。現在のディスクロージャーの成功と勢いは、もはや90年代の怪物たちを完全に凌駕しようとしている。来たる10月24日、彼らがNYのマディソン・スクエア・ガーデンでライヴを開催するという事実は、現地の状況を肌で感じることが出来ていない身には、いまだに信じがたいほどである。
つまり、今やディスクロージャーは、イギリスのローカル・ヒーローに留まらない時代の寵児。ダンス・ミュージックがポップ音楽足る時代を、もっともクールでスタイリッシュに象徴するアイコン。とすれば、2年ぶりの新作『カラカル』は、ローレンス兄弟が自らの置かれた状況をしっかりと受け止め、そこで最大限のパフォーマンスを発揮すべく作られた作品だろう。
前作とは比べものにならない豪華絢爛なゲストの顔触れが象徴するように、このアルバムは端的に言ってリッチでゴージャス。90年代ハウスを軸とした音楽性に大きな変化はないものの、より華やかで、スケールが大きくなり、貫録が生まれている。BPMに注目してみると、アルバムの7割程度が100前後と抑え目だ。疾走感のあるビートでエキサイトメントを伝えていた1stとは違い、よりじっくりと歌を聴かせることに重点を置いたポップ・アルバムという印象が強い。
例えば、サム・スミスとのコラボ第二弾である“オーメン”は、大会場での合唱が今にも聴こえてきそうなシングアロング系の強力なコーラスを搭載した曲。アリーナ~スタジアムでは“ラッチ”以上のアンセムになる可能性も秘めている。先行公開された“ホールディング・オン”は比較的1stのイメージに近いポップ・ハウスだが、スケールの大きさや安定感は以前とは比較にならない。もっとも、本作の目玉だっただろうロードやウィークエンドとのコラボ曲は及第点、というのが正直なところではある。しかし、それを差し引いても、これほど完璧に磨き抜かれたハウス・ポップ・アルバムにはそうそうお目に掛かれないはずだ。
汗が飛び散るダンスフロアの熱狂を求めるリスナーには、本作は物足りないかもしれない。だが勿論、ディスクロージャーにとっては、ストレートなダンス・トラックを欲するファンの期待に応え、もっとエクストリームな方向に振り切るのも簡単だったはず。あるいは、拡大路線を目指すのであれば、EDMのようにアッパーで明快で即効性の高い音楽性になりふり構わず転向することだって出来ただろう。しかし、彼らはそのどちらも選ばなかった。代わりに、第三の道として、アンダーグラウンドのクラブ・カルチャーに根差した音楽性を一切変えることなく、EDMとはまた違った形での「ポップ音楽としてのダンス・ミュージック」を打ち出してみせた。それが、誰もが唸らされる圧倒的な成果に結実したとは思わない。だが間違いなく、このトライアルは、今のポジションにあるディスクロージャーだけが出来ること。『カラカル』はその自らに課せられた使命を全うすべく作られた作品である。
ミア・ハンセン=ラヴの映画『EDEN/エデン』は、90年代なかば、フランスはパリのクラブ・シーンを映し出す……というよりはそこにいたあるDJの20年を描いた映画だったが、終わりのほうで主人公がいい感じになる女の子がダンス・ミュージックには疎くて、「エレクトロはそんなに聴かないから。ダフト・パンクぐらい」と言うなんとも切ない場面がある(主人公はかつてダフト・パンクの近くにいたからだ)。それが2013年のシーン。ということは『ランダム・アクセス・メモリーズ』の年であり、そしてこの女の子はきっとディスクロージャーの『セトル』も聴いたんだろうなあと、映画を観ながら僕は思っていた。
『セトル』が90年代生まれの若い兄弟が作ったアルバムにしてはあまりにも完成度が高く、その隙のなさからかえって入りにくい想いをしていた僕は、しかし、あの作品の魅力というのはハウス・ミュージックを今の若い世代が発見した瞬間の興奮がパッケージされていたことだと見なしている。かつてダブステップと呼ばれた音楽が変質していくなかで、もっと過去にはソウルフルでオープンなダンス・ミュージックがあったことを、もっともポップな形で提示したのがディスクロージャーだった。だからあのアルバムには、クラブのIDをようやく手にした世代の軽やかな足取りが刻まれていたし、油断していたら売り切れてしまっていて僕は行けなかった初来日公演の竹内正太郎のレヴューを読むにつけ、実際に大勢のキッズを踊らせ始めたそのパワーの絶大さには感嘆するほかなかった。だから、その時ディスクロージャーは彼ら/彼女らを踊らせ続ける使命を負った……と僕は思っていた。
ディスクロージャーは今、何を負っているのだろう? 『カラカル』のオープニング、ウィークエンドを招聘した“ノクターナル”でまず「おや」と思うのは、そのテンポの遅さである。BPMで105くらい。続く、サム・スミスがヴォーカルを取る“オーメン”で……108くらい。イントロを置きつつも実質のオープニング・トラック“ホウェン・ア・ファイア・スターツ・トゥ・バーン”でいきなり124――ハウスのテンポだ――を叩き出した『セトル』とは対照的な幕開けだ。『カラカル』は3曲目の“ホールディング・オン”でようやく120を超えてファンキーなハウスを聴かせてくれるが、つまり、よりR&B色を増しポップスとしてのフォルムを整えた本作は、すでに踊ることに疲れてしまった連中すらを心地よいサウンドで迎え入れるアルバムである。これまでよく比較されたベースメント・ジャックスのディスコグラフィの拡大路線とははっきりと異なり、自身のサウンド・デザインの洗練に集中している。ジョーダン・ラケイがしっとりと歌う本編のクロージング・トラックはチルなシンセ・バラッドだが、そのタイトルを“マスターピース”としたところに彼らの意思が見え隠れてしているように感じられる。
勿論、踊り続けることだって出来る。先述した“ホールディング・オン”はフィルターのオン/オフとフランジャーの効果的な入れ方で聞かせる、つまりDJカルチャーの英知が詰まったトラックだし、例えばクワブスを迎えた“ウィリング&エイブル”のようにBPMが100前後のトラックだって、ゆったりと身体を揺らすことが出来るだろう(ビート自体はほとんどのトラックでイーヴン・キックだ)。彼らは彼らが期待されることにしっかりと応えている。前作では荒削りさが残っていたプロダクションを洗練させ、爆発的に広がった人脈を整理しヴォーカリストを適材適所に置き、とっつきやすいポップスとしての強度を高める。文句のつけようのない仕上がりである。
ただ……だからこそ、彼ら自身はどこにいるのだろうと感じる瞬間も、正直に言って僕にはある。クラブの出入り口の光景が見えた前作に比べ、このアルバムを聴いていて頭のなかで浮かぶのはミュージック・アウォードの豪華なショウだ。そこではスターが入れ替わり立ち替わり登場する……。キュレーターとしての役割を負い過ぎているように思うのだ。国内盤にボーナス・トラックとして収録されている、真新しくはないが激バウンシーなハウス・トラック“バング・ザット”を本編よりも僕がリピートしてしまうことに対して「いや、それは好みの問題でしょ」と言われれば、回答に詰まってしまうのだけれど……。
スターといえば、サム・スミスはLGBTの社会的認知が高まり、ゲイ・カルチャーがポピュラーになったいまという時代を象徴するアイコンだろう。彼をフックアップしたのは間違いなくディスクロージャーだし、それこそアウォードの壇上でスミスが「別れたボーイフレンド」に堂々と感謝するのは絶対にいいことだ……本当にそう思う。だがいっぽうで、かつてアントニー・ハガティをディーヴァとしたハーキュリーズ・アンド・ラヴ・アフェアが、ジョン・グラントを呼んでオールドスクールなハウス・ミュージックを繰り広げたことに強烈に惹かれる自分がいる。グラントは自分の孤独や恨みを皮肉たっぷりに歌い上げる中年ゲイのシンガーソングライターだが――つまりカジュアルなアイコンになるには「濃すぎる」のだが――、ハーキュリーズは“アイ・トライ・トゥ・トーク・トゥ・ユー”と題したトラックで彼にHIVポジティヴだと発覚したときの苦悶について綴らせ、ハウス・ビートを打ち鳴らした。そこでは、ハウスという音楽がどこからやって来たかがそれ以上なく示されていたのだ……その音楽に向けての、濃密な愛が。
圧倒的に多くのひとの共感と人気を得るのは、本作に収録されたスミスが別れの予兆を切なげに歌う“オーメン”のほうだろう。カジュアルでファッショナブルなハウス・ミュージック……まさにディスクロージャーに求められていることだ。だが、だからこそそれを小気味よく裏切ってくれる瞬間が見たい。彼らがガラージとハウスを発見した瞬間の興奮、その続きを感じたい。一度背負ったものを大胆に捨て去ることだって、まだ年若い彼らにはきっとできるはずだ。
ヒップホップ・プリーチャーの異名で知られる、エリック・トーマスのポエトリー・リーディングの一節が何度もループする“ア・ファイア・スターツ・トゥ・バーン”は、前作『セトル』にローレンス兄弟が込めた情熱と意志を凝縮した、実に見事なオープニング・トラックだった。「炎は燃えはじめ、広がっていく」――その言葉通り、彼らの音楽は全英1位の称号と共に、クラブ界隈に留まらない広範囲でその後の英国ポップ・シーンへ影響を及ぼし、アメリカを含む世界各国で批評筋の絶賛と商業的な成功を獲得。今やディスクロージャーは、サム・スミスと共に「UKポップの今」を象徴するトップ・ランナーとして、その一挙手一投足に世界的な注目が集まる存在となっている。
彼らが灯した炎が世界の隅々にまで広がった今、満を持してのリリースとなる『カラカル』は、彼らのステップアップが反映された、ある意味でとても順当な2作目と言える。ここでも、オープニング・トラック“ノクターナル”が全体のトーンを上手く要約している。R&B寄りのBPM100強のゆったりしたビートと、「ハウス・ミュージックのゴッドファーザー」ことフランキー・ナックルズの名曲“ユア・ラヴ”を引用したシンセ・サウンド。その上で美声を響かせるのは、ディスクロージャーが英国で成し遂げた変革と同質の偉業を米国R&Bシーンにもたらした、あのウィークエンドである。ダンス・ミュージックの歴史に変わることのない敬意を捧げつつ、よりソング・オリエンティッドな今様のポップ・ミュージックへ。ディスクロージャーが本作で目指したのは、UKダンス・シーンのレペゼンから大きく視野を広げた、よりグローバルな舞台なのだろう。
同世代のUKアクトを多数フィーチャーし知名度向上に大きく貢献した前作と同様、本作にもクワブス、ナオなどUKシーンの次世代はしっかりとフックアップされている。しかし、それ以上に目を引くのはウィークエンド、サム・スミス、ロード、ミゲルという、ディスクロージャーと同時期に世界的なライジング・スターとなった豪華な面々のゲスト参加に違いない。前作が彼らと共通した感性を持つ英国の同世代を繋ぐネットワークを示すものだったとすれば、本作のゲスト陣は世界各地から同世代の才能を集わせた、「アンダーグラウンド・ゴーズ・ポップ」とも言うべき現ポップ・シーンのエキサイティングな一面をレペゼンする試みのようにも見える。
本作で彼らが向かった方向性は、至極真っ当で実直だ。とは言え、それら全てが功を奏し、『セトル』を超える成果を得ているとは言いがたいのも正直なところ。制作にあたって、彼らはゲスト・ヴォーカリストとのコラボレーション性を尊重し、ただ声を借りるだけでなく、作詞・作曲の深い部分でもアイデアを交換したのだという。ただ、その生真面目な姿勢や民主主義的な手法が、作品としてのフォーカスの曖昧さに繋がっているようにも思える。R&Bに傾倒した大半の歌ものトラックは、スムースではあるがフックや高揚感に欠け、全体的にどこか物足りなさが拭えない。彼らはいまだ若く、キャリアは始まったばかりなのだから、もう少しエゴイスティックに作家性を追求しても良かったのではないか。