「なぜセックスを歌うのか」……そんな疑問を抱いたことはないだろうか? 極めてプライベートな行為であるセックスを楽曲のテーマとしたり、サウンドでそれを表現したりすることで、アーティストは一体何を言わんとしているのか、と。一時期、J-POPや日本のヒップホップに対して「両親や友人への感謝なんて直接言えよ」というツッコミが多く見られたが、それに則るならば「勝手にヤってろよ」という感じだろうか。
いや、何も単純にセックスを描写することや、賛美することに異論があるわけではない。それは道端に咲く花を「美しい」と感じiPhoneのカメラで撮るような自然なことではないだろうか。
しかし、このジャネール・モネイの3rdアルバム『ダーティ・コンピューター』で描かれ賛美されるセックスは、個人にとどまるものではなく、2018年という時代的社会的要請により歌わなければならないような、必然に満ちたテーマであるように感じられる。セックス。それはマジョリティもマイノリティも形は違えどそれぞれが持っている共通項である。
すでに多く語られている通り、本作はジャネール・モネイのキャリアにおいては異色作である。これまでジャネールはミニアルバム1枚、アルバム2枚を通し「メトロポリス」と題された一つの物語を描き続けてきた。それは28世紀と21世紀を舞台に、人間に恋をするという禁忌を冒したアンドロイドであるシンディ・メイウェザー、そしてその“オリジナル”であるジャネール・モネイという二人のキャラクターを巡る壮大なSF物語である。そうしたストーリーテリングと、リズム&ブルーズ、ロックンロール、ソウル、ファンク、そしてクラシックやオペラを融合させたレトロかつフューチャリスティックなR&Bサウンドこそがジャネールの特徴であり大きな魅力の一つだった。だが、この『ダーティ・コンピューター』はそうした「メトロポリス」シリーズにはラインナップされない初の作品となった。
音楽的にもこれまでの「未来からやってきた60年代ポップ」とでも表現したくなるサウンドはなりを潜め、海外ではテイラー・スウィフトを引き合いに出されるような80年代マナーのカラフルでシンガロングなメロディが際立つソングライティングが特徴的となっている。そんな現代のポップ・ミュージックとして馴染みのいいサウンドを基調とし「メトロポリス」シリーズを彷彿とさせるSFかつ宗教的コンセプトを持ったタイトルトラック“ダーティ・コンピューター”に始まり、“アメリカンズ”という自分が現代を生きるアメリカ人であることを表明する楽曲に終わる本作は、ジャネールがこれまでのアンドロイド的コンセプトを捨て、パンセクシュアルであるというカミングアウトとともに人間であることを宣言した転換点のようにも感じられる。
だが、そんな単純な話だろうか?
“ダーティ・コンピューター”とはおそらくは無数の欠点を持った存在である人間のことであり、それは最終曲での「私はアメリカ人」という表明と異音同義ではないだろうか。いや、そもそも「私はアメリカ人」というリリックがマチズモに裏打ちされた愛国心を揶揄するように歌われていることを思えば単純な人間賛歌とも思えない。こうした曖昧さは、シンディ・メイウェザーとジャネール・モネイの違い、アンドロイドと人間の違い、そして「メトロポリス」シリーズと本作との線引きをも揺さぶりにかけているようにも感じられる。
「メトロポリス」シリーズがどうなるのか、本作がそこに組み込まれるのかについては今後のジャネールの活動を待つばかりだが、ともかくこの『ダーティ・コンピューター』の文字通り「中心」にあるのは、ジャネールのヒーローであり本作の制作初期にも関わっていたというプリンスを守護神とした“ピンク”や“メイク・ミー・フィール”といった性を賛美し謳歌する楽曲たちである。そうした生命の核であるセックスを用いることで、ジャネールは個人と政治をあぶり出そうとしているのではないだろうか?
セックス。それはマジョリティもマイノリティも形は違えどそれぞれが持っている共通項である。そして、身体の内側にある粘膜というウィークポイントを、脈打つ鼓動でピンク色に充血させ、擦り合わせることで、お互いを知り認め合い、何かにたどり着こうとする行為である。
そんなセックスを相互理解のシンボルに掲げ、自らの性の力強く高らかな宣言としてジャネールは問いかけているのではないだろうか。ドナルド・トランプの大統領当選によってアメリカのマイノリティが危機に直面し、その一方でタイムズ・アップやミー・トゥーといった女性運動が巻き起こるこの2018年に。今改めて、平和と愛と相互理解を。
そもそも本作のコンセプトは1stアルバム『ジ・アーチアンドロイド』以前から存在していたというし、制作自体はプリンス存命中(トランプ就任前である)にスタートしていたという。ジャネール個人の動機と社会情勢がたまたま一致しただけかもしれない。だが、どちらにせよ、誰もがアクセスできる「ポップ」を用いて個人と政治をつなぐ本作は、この2018年にフィットする傑作に他ならない。
〈コーチェラ〉で「MJはいなくてもビヨンセがいる!」と思った直後に、「プリンスはいなくてもジャネールがいる!」と思える2018年。いや、本当に今年はブラック・アメリカの潮目が圧倒的な瞬間を生み出している。個人的に〈コーチェラ〉のもう一つのクライマックスはデヴィッド・バーンがジャネール・モネイのプロテスト・ソング“ヘル・ユー・トーンアバウト”(トライバルなビートに乗せ人種問題で亡くなった人の名前が挙げられる)をカヴァーした瞬間だったけれど、実際このブラック・パワーの勢いは人種やジェンダー、文化も超えて、また別の潮流を作るんじゃないか。映画『ブラック・パンサー』が記録的にヒットした韓国で、次は初のエイジアン・スーパーヒーローが生まれるんじゃないか。そんな期待も湧いてくる。
生前のプリンスとともに制作準備をしていたという、ジャネール・モネイ5年ぶりのアルバム『ダーティ・コンピューター』。“スクリュード”や“メイク・ミー・フィール”のような直球プリンスなナンバーもあるが、もっと言えば全体に80年代プリンスのダンサブルなポップ志向があり、彼が乗り移ったようなジャネールのセックス・アイコンぶりがある。これまで通りアフロ・フューチャーなコンセプト・アルバムでありながら、一曲一曲が華麗でキャッチーで、何よりセックスの匂いに満ちているのだ。ファレルとともに「私の股の間のジュース」について歌う“アイ・ガット・ザ・ジュース”。それはまるでジャネールがトレードマークのタキシードを脱ぎ捨て、「マニッシュ」と呼ばれた存在から「セクシュアルな女」の姿を初めて見せるようだ。
もちろん、「エモーショナルなジェンダー・ベンダー」(“メイク・ミー・フィール”)である彼女に、クィアの黒人女性としての怒りと痛みはある。「ダーティ」という言葉自体、マージナルなものとして排除されることを意味している。“ジャンゴ・ジェーン”では女性ブラック・アーティストの成功すら蔑むヘイターへの反撃がラップで吐き出される。
でも、ひそやかに「ピンク(=プッシー)は私のお気に入りの場所」と歌う官能と言ったら! 女性への性暴力や暴言が続く世の中にしんどくなったら、この“ピンク”のビデオを見て誇りと笑いを取り戻してほしい。ヴァジャイナ・パンツを履いたジャネールが踊り、その股間からテッサ・トンプソンが顔を出して微笑む。ピンクのヴァジャイナがオキーフの花のように砂漠で咲き、セクシュアルであることの喜びがまたよみがえる。そう、私の体と感情は私のもの。「クレイジーに、優雅に生きる」自由は私のもの。