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MR. MORALE & THE BIG STEPPERS Kendrick Lamar (Universal) by MINAKO IKESHIRO
MASAAKI KOBAYASHI
SHUN FUSHIMI
June 10, 2022
MR. MORALE & THE BIG STEPPERS

モラル氏と成り上がりどもは言霊と沈黙のあいだにいる

「呪う」と「祝う」はどちらも「祝詞」が語源だそう。ひたすら怖い「呪う」とはちがい、まじないの意味が強い「呪詛」は必ずしもネガティヴな意味ではない。……なんか、「校長先生のお話」のへたな喩えみたいな文からレビューを始めているのは、言霊や念の強さをいい意味でも悪い意味でも感じるできごとが続いたから。通常のポップやロックの歌詞に比べて、ラップのリリックは1曲には1.5倍から3倍くらいの言葉が詰まっている。ケンドリック・ラマーのようにヴァースをくり返さない人は、なおさら言葉数が多いし、網羅するトピック、想起するイメージの範囲が広い。くり返し聴くと潜在意識の奥底まで刷り込まれるような危険と魅力があるのが、ヒップホップなのだ。ちなみに、私の脳にはジェイ・Zと2パックのいくつかの言葉が長年棲みついており、ある条件が揃った場面では私自身の思考より先に浮かぶ。

ラップの神童の5作目『ミスター・モラル・アンド・ザ・ビッグ・ステッパーズ』がリリースされてから2週間強。最初の1週間でどっぷり浸かったので意図して少し離れてみたのだが、この作品のリリックとイメージがもう脳にこびりついたようだ。まんまと呪いに罹ってしまった。この5年のケンドリックの思考の流れと感情の変化をパッケージにした本作も、呪いと祝祭の両方の視点が入っている。最初の9曲の「ビッグ・ステッパーズ/成り上がりども」は、名声と大金というエネルギーがいっきに流れこんだために起きた状況の変化をラップしつつ、それが自己肯定感は幸福感につながったかを検証している。その答えが、自分の精神状態にも人間関係にもマイナスだったのが辛いが、「金持ちになったぜー、人生最高だぜー」にふり切る可能性がゼロに近いのが、ケンドリック・ラマーがケンドリック・ラマーたる所以なのだから、しかたない。今回、本人が宣言したように救世主ではないとしても、ケンドリック・ラマーとは、ヒップホップの殉教者なのだから。

呪いを解くためにケンドリックがすがったのが、ソウルメイトのホィットニー・アルフォードとスピリチュアル・リーダーの作家、エックハルト・トールだ。10日ほど前に本作の解説を2万字分書いたときと、いま大きくちがうのがトールの代表作『さとりをひらくと人生はシンプルで楽になる』(原題『The Power of Now』)を読了したことと、多くのレビューが出揃ってお任せできる部分がたくさんあること(←逃げ腰)。『さとりをひらくと~』は優れた自己啓発本のほとんどがそうであるように、集中力を高めるには役立ったし、K.ドットの現状、本作のリリックへの理解は確実に深まった。私はハリウッド・セレブや勝ち組ラッパーがスピリチュアリティに寄るのは尋常ではないプレッシャーを抱えている理由のほかに、優遇されすぎる現実が怖いのではないかと憶測している。それくらい、私たちは有名人を崇拝(worship)するのは当然だと思い込んで生きている。

まず、前半『ビッグ・ステッパーズ』サイドに集中しているホィットニーの言葉に注目しよう。1曲目“ユナイテッド・イン・グリーフ”でコーラスの次、ケンドリック本人より先に登場するのがホィットニーの「言いなさい 言いなさいよ 彼らに真実を言いなさい」と「言いなさい 言うの 言うの 言うの あなたの真実……」である。次が5曲目の“ファーザー・タイム”。こちらはイントロのやりとりで登場。「いやまじでセラピーが必要だと思うよ」「本物のニガーはセラピーなんていらないって。何言ってるんだよ?」「そうじゃないって 本当にバカみたいなこと言ってるじゃない」「くそ、全員バカだよ」「そうだけどね、だれかと話したほうがいいよ。エックハルトに連絡してみれば」。

ここまでで、本作全体を貫く影のコンセプト、ケンドリックのセラピー体験を通して精神的な覚醒を促したのがホィットニーであるのがわかってくる。アートワークで赤ん坊を抱くポーズが聖母像を模しているように、以前から「親友でもある」と語っていた彼女はさらに力強い味方になったようだ。そして、フローレンス・アンド・ザ・マシーン“ジューン”のコーラスから始まる“ウィ・クライ・トゥゲザー”。男女の痴話ゲンカをそのまま曲にした実験的な曲だが、ケンカが始まる直前に「This is what the world sounds like / いまの世の中はこんなふうに聞こえている」とホィットニーが一言、前置きしている。つまり、ごく個人的な言い争いに聞こえるやりとりは、いまの世界中で同時多発的に起きている実際の争いからネット上の中傷合戦までの模倣でもあるのだ。後半にテイラー・ペイジが黒人女性が常に弱い立場に置かれているのは黒人男性がしっかりしてないからだ、トランプが大統領の座につき、ハーベイ・ワインスタインやR.ケリーが性的虐待を長年続けたのも男性のせいだ、と話が大きくなっていく箇所も、話が飛ぶ女性の特徴を捉えつつ(性別関係なく、こういうタイプはいるけれど)、ある真実を捉えている。最後にふたりが仲直りする展開さえ、痴話ゲンカでありがちな結末にすると同時に、お互いに構うのは興味があるからだろう、という人間の心理の複雑さを映している。韻を踏んだり言葉遊びをしたりといったヒップホップの技をしっかり見せつつ、さらに大きな仕掛けを施しているケンドリック・ラマーに感心するやら、空恐ろしいやら。

ディスク2にあたる後半の「ミスター・モラル」サイドのナレーターはエックハルト・トール自身が担っている。彼の場合、ケンドリックやベイビー・キームに直接語りかけているのではなく、彼の本からの抜粋のような言葉が曲のテーマにゆるくリンクする構造だ。これは、セラピーから逃げ回っていたケンドリックが、その必要性と自分の現状を受け入れた先の9曲であるため。先日、ポッドキャストの収録中に小林雅明氏がフランス語の「モラル」のほうが近いのでは? と指摘してヒィッとなった。たしかに、中世の仏文学のモラリストと近いのかもしれない。モラリストは「現実の人間を洞察し、人間の生き方を探求して、それを断章形式や箴言のような独特の非連続的な文章で綴り続けた人々」であり、本作のケンドリックの姿勢に近い。って、ここまで書いて「これきっと伏見瞬氏が書いているわ、ウィキペディアを写してもしかたないか」と悟って中断(←丸投げ)。とにかく、後半は自分自身を癒しながら問題の根を掘り下げ、その過程で“アンティー・ダイアリーズ”で宗教とLGBTQ+、“ミスター・モラル”と“マザー・アイ・ソバー”で黒人同士のレイプ、近親相姦のイシューが浮かび上がってくる。どちらも軽く扱えない問題であり、この3曲が続く約15分間はポップ・カルチャーの歴史において非常に重要な15分になると予言しておく。

言葉によって癒されるセラピーを受けているにもかかわらず、ケンドリックはところどころで沈黙の重要性に触れている。“サイレント・ヒル”とそのままのタイトルの曲もあるし、自分をヒーロー視するのをやめろ、とはっきり言う“セイヴィアー”の最後は「And they like to wonder where I’ve been / Protecting my soul in the valley of silence みんな俺がどこにいるのか詮索するのが好きなんだ / 沈黙の谷で自分の魂を守っているだけだよ」である。“ミスター・モラル”にはこんなリリックもある。「Uzi, your father is in deep meditation / My spirit’s is awaken, my brain as asleep ウズィ 父さんは深く瞑想しているんだ 俺の精神は覚醒しているけれど 脳は眠っている」。この「脳は眠っている」は「むだな思考を止めたときに、いまに集中してさとりを拓ける」と説くエックハルト・トールの教えの真髄である。

音楽的にも、社会的にも期待が高まりすぎて失敗が許されなかった5作目である。サウンドの面ではいままでずっと一緒に組んできたサウンウェイヴを筆頭にがっちりしたチーム制を敷き、ファレルとアルケミストの大先輩の胸を2曲で借りている。客演の先輩はゴーストフェイス・キラーとポーティスヘッドのベス・ギボンズだけであり、若い才能を多く起用して、注目度の高さが彼らの今後の糧になるように仕組んでいる。なにからなにまでよく考えているな、と感心してしまう。そして、すべてが呪いと祝祭のアートフォーム、ラップを際立たせるためのお膳立てなのだ。ケンドリック・ラマーは、『ミスター・モラル・アンド・ザ・ビッグ・ステッパーズ』でラップしながら自らの呪縛を解きつつ、聴く者を鼓舞してみせた。また、脳みそに染み込むまで聴き続ける未来しか見えない。

文:池城美菜子

ピアノとタップの狭間で揺れる主体――
彼は遂にヒップホップから逸脱してしまうのか?

ヒップホップにおけるラップ表現とは、エゴトリップである。平たく言えば、そこでは、俺は、俺が、俺を、の俺中心で、しかも俺が最高なのだ。ウルトラマグネティックMC’sが1988年の“エゴ・トリッピン”で「オールドスクールよりも俺(たち)のほうが革新的だ」と言えば、1993年にはデ・ラ・ソウルが彼らを揶揄する含みのある曲を“エゴ・トリッピン・パート2”と命名。94年には『エゴトリップ』を名乗る雑誌も登場したほどだ。

それが、世紀を跨ぐ頃から、それまでの価値観をひっくり返すような作品をエミネムが出し始める。だが巧みにも彼は、最低最悪な俺を精一杯表現するも、もう一人の俺=スリム・シェイディーにすべてを仮託していた。もちろん、彼の場合は、ダメな俺を表現した結果、傍目には、最高の俺のステイタスを手に入れたように見えたのは確かだ。とはいえ、ヒップホップでいうエゴトリップとは対照的な、最低な俺、カッコ悪い俺を、素面な俺のまま表現するのはやはり恥ずべきことなのか、『808s & ハートブレイク』で、カニエ・ウエストはオートチューンで自分の声を隠している。

そして、ギャングスタ・ラップというのもまたエゴトリップだとすれば、ギャングスタ・ラップの舞台と地理的には全く同じ場所で生きているにもかかわらず、最低とは言わないものの、明らかに冴えない俺をとらえた『グッド・キッド、マッド・シティ』は、エゴトリップではないヒップホップ・アルバムということになる。だが、ケンドリック・ラマーの興味関心は、エゴのほうにあったことは『トゥ・ピンプ・ア・バタフライ』ではっきりする。そこには、彼の抱える「生き残った者特有の罪悪感」という過去を向きたがるトラウマが一貫して流れており、それが過去から未来へと更新され続けていることがよくわかる黒人音楽のサウンドと組み合わされ、自分を映した鏡に見えるものに目を凝らしていた。が、次の『ダム』に至っては、その鏡が社会を映すときに歪んだ像を結んでいることに気づいてしまうし、評伝『バタフライ・エフェクト ; ケンドリック・ラマー伝』の言葉を借りれば、『ダム』の要点は、そこに至るまでのあいだに、ケンドリックのイド、エゴ、スーパーエゴのあいだで交わされた個人的な闘争と、彼が直面していた苦悩の本当の姿にあった。こういった経緯があったため、彼が新作を出すと聴いたときの感想として「楽しみ」という表現ほど不適切なものはないだろうと思った。

だが、アルバムの初っぱなのコーラスを聞いた瞬間、これはもしや、となった。「心の安寧が見つかることを祈る」と歌いかけられる。でも、本当にそうなのか。このコーラスの直後に、パートナーから「真実を話して」と促されて曲が始まる。1曲目からトラックとフロウ、その両方の構造が一筋縄ではいかない。ミニマルなピアノの伴奏に、クラクションと逆再生のような音が重なり、それが止まると、トライバルなビートが鳴り始め、途中からピアノが復活し、シンセやストリングスも重なり、その間ケンドリックは矢継ぎ早にラップし続け、ピアノのソロで終わる。彼にとって「心の安寧」はまだ遠いようだ。

しかし、続く“N95”では、リスナーの彼に対する不安や警戒心を解くかのようなサウンドがアクセントとなっている。これは、今回のアルバムで特徴的なもののひとつだ。“N95”でのシンセ・ブラス、ジャネット以前のジャム&ルイスのエッセンスを感じずにはいられないカウベル(“ダイ・ハード”)やコード感(“パープル・ハーツ”)といった、80年代っぽいものが前半で聴かれる。そして、もうひとつの特徴的なのは、それらの間に位置する“リッチ(インタールード)”や“クラウン”といった、デュヴァル・ティモシーがピアノを弾き、単独でプロデュースを手がけた曲だ。

だが、それらに気づく以前に、3曲目のイントロで、コダック・ブラックと並べて挙げられている名前が、本当にエックハルト・トールであるのかと、何度も確認してしまう。トールは『The Power of Now』(邦訳タイトルは『さとりをひらくと人生はシンプルで楽になる』と、なんとも気楽で無責任な感じだが、)や『The New Earth』といったベストセラーの著者で、スピリチュアル・ティーチャーという感じか。実際、5曲目の“ファーザー・タイム”のイントロで、ケンドリックはパートナーからトールにアクセスにするように勧められている。また、アルバムの折り返しにあたる“カウント・ミー・アウト”では、1曲目のコーラスと同じ旋律で、今度は「わたしたちが進むべき方向はよく見えない、暗いこの道では」と歌いかけ、すかさずトール本人から直々に「ダックワースさん」と呼びかけられている。

トールのメッセージは、一見取っつきやすそうだが、実は難解だと思う。ただし、「すべての心の活動の核心は、繰り返ししつこく反復される思考、感情、反応のパターンでできていて、人間はそこにもっとも強く自分を同一視している。それがエゴそのものである。そして、そのエゴというのは、偽りの自己である」との主張は、前作までのケンドリックのアルバムを知っている者なら、彼には「救い」になりそうな気がする。

彼自身は決して「救世主」ではないことが明かされる前段の“セイヴィアー(インタールード)”にも、トールの教えがサンプルされている。彼は「からだに積もった痛みがネガティヴなエネルギーとなり、心とからだにくっつく」との言い方で過去への、また、幻だと言い切る未来への執着を断ち切るように強調している。今回のアルバムの随所で(全体を通じて)、ケンドリックがやたらと過去(の真実)をさらけだしているもの、次のフェイズに向かいたい一心からなのかもしれない。

そして、前述した80年代っぽいサウンド要素について、少し前まではチージーだったはずの音色をザ・ウイークエンドが華やかな2020年代ポップスとして再提示したものと捉えるなら、過去を含む今現在の音とも捉えることもできる。そこに該当する曲が、アルバム内では、トール自身がケンドリックに声をかける前にすべて出揃うのも意図されたことなのだろう。

これと、もうひとつの特徴的なサウンドの担い手であるデュヴァル・ティモシー自身の、Vegynも客演している2020年のアルバム『ヘルプ』制作経緯を重ねてみるのも、こじつけだとしても意味があるようにも思える。当時、アーティストとしてのキャリア上のスランプで落ち込んでいた彼は、YouTubeの自己啓発ビデオをサンプルしていたが、自己啓発(Self-Help)本をアルバムとして作品化してゆくうちに、それらは使わず、マスター音源の所有について語る(『ミスター・モラル&ザ・ビッグ・ステッパーズ』にも関わっている)ファレルの言葉(“スレイヴ”)やイベイーの(歌)声などをサンプルした作品となったと語っている。明らかに「ヒーリング」も意図しているこの『ヘルプ』だけでも、ティモシーの作品を聴いてしまうと、『ミスター・モラル&ザ・ビッグ・ステッパーズ』での彼のプロデュース曲に関しては、デュヴァル・ティモシー feat. ケンドリック・ラマーによる楽曲とクレジットすべきだと思えてしまうだろう。別の言い方をすれば、ケンドリックはスピリチュアル、あるいは人によっては自己啓発ティーチャーであるエックハルト・トールの教えを複数回サンプルしているのだから、ティモシーが思いとどまったことを実現してしまった、とも言える。

だが、その先がある。(クレジットを見ずに聴いていると)アルバムの最後から2曲目“マザー・アイ・ソバー”も、ピアノは勿論、べス・ギボンズの声の絡ませ方からも、ティモシー制作曲と思いきや、彼は全く関わっていない。ティモシー制作曲はアルバム中盤過ぎの“クラウン”で終わっている。そこから終盤に向かい、ケンドリック側が、すっかりティモシーの『ヘルプ』の側に行ってしまったようにも聴こえる。この曲の直前にサンプルされているのがトールの言葉なのだから、余計にそうだ。あらためてクレジットを確認すると、1曲目のピアノもティモシーによるものだ。

そのあたりを踏まえると、単純に割りきれるものではないものの、ケンドリックの最新作では、ピアノの音色と共に心の安寧を求めたいミスター・モラルと、タップダンスのステップでそんな彼の気を散らそうとするビッグ・ステッパーズが、複雑に絡みあっているようにも聴こえる。アルバムのラストで、彼は、過去も未来も含めた諸々を背負うことよりも「俺は自分を選ぶ」としているが、はたして、アルバムのラスト曲(あとから“ザ・ハート・パート5”が付け加えられたが)“ミラー”(いよいよ鏡が曲名になった!)に映っているものはなんなのか、どんな自分なのか。

繰り返しになるが、トールは、自分などない、エゴは偽りの自己だと主張している。これほどヒップホップと相性の悪い考え方はないと思うのだが……。今回のアルバムから、ケンドリックには新たな苦悩が生まれてしまうのか……。

文:小林雅明

役割を降りながら役目を果たした、慎ましく傲慢なアルバム

このアルバムが発表されて一ヶ月近くが経過した。発売日の興奮も収まった後で、本作に対して向けられた言葉の中に、「扱いにくい」「戸惑う」という文字を多く見かけた。グラミー各賞どころかピューリッツァー賞まで獲得し、ブラック・カルチャーのリーダー、ヒップホップのキングとしての地位を確固たるものとしたケンドリック。ジョージ・フロイドの死を契機としたBLM運動の沸騰の中でも、沈黙に佇んでいたケンドリック。前作『ダム』から5年、多くの人々が望んだキングのカムバックは、どこか陰鬱で、派手さを欠いた、内省的に思える作品とともにやってきた。アクチュアルなビートを感じないどころか、ノンビートの曲すら多く見受けられる。人々の戸惑いは、『ミスター・モラル&ザ・ビッグ・ステッパーズ』の、リーダーに似つかわしくない同時代性の欠如と、キングに似つかわしくないあまりの慎ましさに起因するだろう。70分を超える、『ザ・ビッグ・ステッパーズ』『ミスター・モラル』と題された二枚組アルバムというヴォリュームも、戸惑いの念を加速させている。しかしこのアルバムを、アクチュアリティを欠いた慎ましい作品だと、単純に認めることも難しい。

本作の中でケンドリック・ラマーは、自分が「普通の人間」であることを何度も強調している。“クラウン”において、Cシャープ・マイナーのキーで演奏されるピアノに乗せて繰り返す言葉は「I can’t please everybody」、「みんな全員を喜ばせることはできない」であり、“セイヴィアー”の冒頭では「ケンドリックは考えさせるけど、救世主じゃない」と宣言する。ほかにも、二年間のライターズ・ブロック(スランプ)を告白し、時計を買ってもつけないしプールを買っても入らないという、セレブリティ・ライフに馴染めない姿も描いている。“ファーザー・タイム”の「カニエとドレイクが仲直りした時はちょっと戸惑った」というラインも、彼らのゴシップを見聞きする一般人のツイートのようだ。キングに似つかわしくない慎ましさは、上記のような言葉にまず起因する。

「普通の人間」であることは、ゲスト・ラッパーとの関係の上でも強調される。複数曲で参加しているラッパーはコダック・ブラックとベイビー・キーム。ケンドリックのいとこであるキームは順当だとして、コダックの起用は驚きを持って迎えられている。強盗、武器所持、性的暴行などの罪に問われ何度も逮捕されており、今年頭にはドナルド・トランプの恩赦によって釈放されたコダック・ブラックは、ケンドリックの「グッド・キッド」なパブリック・イメージからかけ離れたスキャンダラスなラッパーだからだ。コダック・ブラックは“リッチ(インタールード)”で、ベイビー・キームは“セイヴィアー(インタールード)”で、それぞれソロでラップを披露しているが、二人は近いストーリーを語っている。コダックは、幼いころからドラッグ・ディールに馴染まざるを得なかった過酷な環境からラップ・ゲームの勝者へと這い上がったが、今でもドラッグ商売から足を洗えないことを告げている。母がヘロイン中毒に陥り、叔父が盗みを働くような環境で育ったキームは、成功を収めても戸惑いを抱えていることを語る。共通しているのは、過酷な幼年期、そこからの脱出と、にもかかわらずの戸惑いというストーリーラインだ。彼らの成功物語は、いってしまえば典型的でもあり、むしろ「みんなを喜ばせる」ような古典性を孕んでいる。もちろんケンドリックも、過去の作品ではコンプトンの過酷なストリートで生きた過去を語っているが、本作においてはストリートやフッドとのつながりをあまり強調していない。二児の父親としての姿、浮気を後悔する男としての姿、つまりハードなイメージを欠いた自画像をケンドリックは描いており、その姿はコダック・ブラックだけでなく、親戚のベイビー・キームとも対照的な関係を持つ。

本作のゲストで最も意外なのは、エックハルト・トールだろう。世界で最も影響力を持つスピリチュアル作家として認められ、『The Power of Now』『A New Earth』の二冊が複数国でベストセラーになっているトールは、二枚目の『ミスター・モラル』に入ってからナレーターとしてたびたび声を加えている。“カウント・ミー・アウト”で「ミスター・ダックワース」と声をかけるのがトールだ(ダックワースはケンドリックのファミリー・ネーム)。直後に「セッション10」とケンドリックのパートナーの声が響く時点で、本作が精神分析のセッションを模したものであることが明らかになる(セッションは精神分析の作業の云いで、10は最初から数えて10曲目を指すであろう)。トールの言葉に導かれた精神世界のロード・ムーヴィ。『ミスター・モラル&ザ・ビッグ・ステッパーズ』が描いているのは、そのような全体像だ。

精神分析という言葉を使ったが、エックハルト・トールは精神分析医ではない。それどころか、精神分析の代名詞である「無意識」を否定的な言葉として用いている。トールの言葉の特徴は、「思考」と「無意識」を結びつけるところだ。人間は能動的に思考しているようで実は無意識の思考に操られており、それがエゴを作り出している。エゴのせいで、多くの人々は本質的な内なる存在に気づけないまま苦しんでいる。思考が無意識に作動していることを認識しなくてはいけない。我々に必要なのは、「今」だけを意識することであり、時間という観念を無視することが、大いなる存在に気づく唯一の方法である。トールの思想を乱暴にまとめるとこのようなものになる。存在の全てが「大いなる存在」、古い言葉で言い換えれば「神」とイコールであり、人間がすべきは「神」を認識することのみ。この汎神論的アイディアは、17世紀オランダを生きたユダヤ教からの追放者、スピノザの『エチカ』に近しい。トールは、スピリチュアルというより、スピノザ的という点で「スピって」いる。

物質的世界に惑わされない、自己との対話を強調するエックハルト・トール。『ミスター・モラル&ザ・ビッグ・ステッパーズ』におけるケンドリックも、自己対話の調性を保っている。“M95”ではブランド物や名声を脱ぎ捨ててお前に何が残るか見せろと捲したてているし、“ファーザー・タイム”では父親から受け取ったタフな男性像に苦しむ自身の姿を、アンニュイなメロディとビートに乗せて活写する。浮気やスランプの告白も、対話の姿勢に導かれたものだろう。

内省性はリリックの内容だけでなく、音の感触からも感じ取れる。例えばピアノの多用。演奏される楽音の調性はほとんどが短調で、陰影の深さを引き連れている。演奏を担当したのは英国のプロデューサー兼プレイヤー、テュヴァル・ティモシー。“リッチ(インタールード)”では、コダック・ブラックのラップとともに、ゆったりしたテンポから激しく流れる三連へと移り、最後にテンポダウンする一連のピアノ・ソロを披露する。先述の通り、“クラウン”もほとんどティモシーのソロだ。男女の激しい喧嘩をケンドリックとテイラー・ペイジが演じる“ウィ・クライ・トゥギャザー”(「あんたみたいな奴のせいでR.ケリーは虐待に気づけないんだ!」「感情的な発言はもうたくさんだ、純粋なフリはやめろよフェイク・フェミニスト!」)でも、不協和な音階のピアノ・ループが不穏な怒りの気配を色濃くしている。

タップダンスの音も、本作においてたびたび挿入される。11歳の双子フレディ&テディ・ティスデールによるタップダンスは“ユナイテッド・イン・グリーフ”の開始19秒で登場し、そのあとも2~3曲ごとに現れる。“ウィ・クライ・トゥギャザー”の最後には、響くタップダンスの足音を断ち切るように「Stop tap-dancing around conversation(会話しているときにタップダンスはやめて)」という声が重なる。タップダンスという言葉には、大切なものから目を逸らすための行為としての含意も含まれている。その転がるような音は、ケンドリックが恐怖を抱えて困難から逃げている様を表す。ある種の混乱の象徴としての役割を与えられているようだ。

登場回数は少ないものの、逆回転のエフェクトも力を発揮している。最初の“ユナイテッド・イン・グリーフ”の前半で音がぐるぐると逆回転する様は印象に強く、その中で鳴らされる重たいベース・ドラムの響きは、アルバム全体の重苦しさを予告する。逆回転は“ファーザー・タイム”のイントロでも現れ、洒落こんだトラックに混乱の気配を加えている。

ピアノ、タップダンス、逆回転の三者は、『ミスター・モラル』の5曲目、“セイヴィアー”で一堂に介する。基底となるビートは、タップダンスに逆回転を加えたサウンドで、そのまわりに短調のピアノの音がちらばる。「ケンドリックは救世主ではない」で始まり、「沈黙の谷で俺の魂を守る」と最後に告げる本曲は、自らに張り付いている憂鬱を認識する曲のように聞こえる。そう響くのは、それまで陰鬱さと重苦しさの象徴として扱われていた三つの音が集まったにも関わらず、楽曲全体が落ち着ついた平穏を携えているからだ。アルバムの冒頭から取り付いていた憂鬱と混乱のフィーリングが、認識の力で平穏へと変わる。

エックハルト・トールは『A New Earth』の中で、人の苦しみを「ペインボディ」という言葉で表現するが、ペインボディには個人の痛みだけでなく、集合的な痛みもあるとする。その一例として挙げられるのが、奴隷として海を渡って以来、過酷な痛みを経験し続けたアフリカン・アメリカンの集合意識だ。自己のプライベートな痛みを表現していたケンドリックが、“セイヴィアー”を境に、集合意識の表現へと向かっていく。

続く“アンティー・ダイアリーズ”においてケンドリックは、トランスジェンダーの親戚二人の物語を語る。「f」から始まる差別用語が直接的に発話されていることを問題視されてもいる当曲においてまず魅力的なのは、心音のようなキックの反復に、左右からさまざまな音がかぶさる前半の数分だ。右チャンネルからは「キュルルルル」という音が飛び出てきて、左からは象の鳴き声のような音が表れては消える。夢のような音時間が過ぎる中、低い声でケンドリックが「My aunties is man now(僕のおばさんは今は男)」とつぶやく。抑揚を抑えた声と効果音の心地よさがともに進行し、少しずつストリングスがあたりを包み込み、ケンドリックの声も緊張感を増して盛り上がっていくその瞬間に、音は途切れる。黒人社会でのトランス差別という複雑な事柄に触れる曲は、落ち着いたリズム・セクションと柔らかなストリングスと夢見心地な効果音によって、人々の痛みを宥めるような響きを持つ。

ファレル・ウィリアムズによる三連の攻撃的なビートメイクが力強い“ミスター・モラル”でも、「千の人生を生きてきたかのようだ」と集合的な意識を謳うケンドリックは、次の“マザー・アイ・ソバー”で、自身の過去とアフリカン・アメリカンの集合的な過去を混ぜ合わせる。7歳のケンドリックは、いとこに性的虐待を受けたのではないかと母に何度も聞かれる。実際に虐待はなかったのに、自分の言葉を母に信じてもらえなかった事実、そして母が怒った叔父に殴られたことがケンドリックのトラウマとなっている。母の不安は、黒人家庭で長年続けられてきた家庭内のレイプに紐づいている。多くの母が犯され、多くの姉妹が犯された。暗鬱で重たい黒人家庭の歴史。その歴史に乗り移るように、ポーティスヘッドのベス・ギボンズは歌う。「私が、私以外の誰かだったらよかったのに(I wish I was somebody / Anybody but myself)」。Cシャープ・メジャーの穏やかさに増5度と短7度の絡むピアノがスタッカート気味に繰り返される中、幾多の絶望と救いが、幾多の憂鬱と官能が絡まったかのような、複雑な余韻があたりを包む。直後に流れるラストの“ミラー”は、ドラマの厚みで重たくなった肩の力を抜くような、能天気なリゾート・トラックの様相を呈している。「I choose me, I'm sorry(ごめんね、俺は自分を選んだよ)」というコーラスは、あらゆる期待には応えない、無理な役割は果たさないというケンドリックの宣言に聞こえる。ジャケットでケンドリックの頭に載っているいばらの冠を外すような曲で、アルバムは終わりを迎える。

70分以上の時間をかけて展開される、エゴの苦しみからの解放のストーリー。しかし、こうした物語はケンドリックの立場を考えると、単純に「ラップ・ゲームを離脱して精神世界を大事にします」という話だとは割り切れない。同時代性を無視した、「スピッた」作品だと断言できない。ピューリッツァー賞までも獲得した黒人のリーダーという称号は、命の危険に直結する。直接的な政治リーダーだったマーティン・ルーサー・キングやマルコムXは暗殺された。ビリー・ホリディも命を狙われ逮捕されたし、サム・クックは謎の深い不審死を遂げた。人種的憎悪を糧に発展したアメリカ合衆国において、アフリカン・アメリカンの真の自由と解放は、国家を揺るがす事態である。ブラック・ピープルの解放者を、合衆国は受け入れられない。リーダー達は命の危機に晒される。ケンドリック・ラマー・ダックワースは、ラップのスキルを磨いているうちに重たい荷物を背負わされ、命を狙われる場所まできていた。彼が「普通の人間」と「内面のドラマ」を強調することは、生命の危機から逃れることに繋がる。アメリカにおけるブラック・ミュージックの動きを、政治から切り離して捉えることは不可能だ。ケンドリックの存在自体がアクチュアルな対象であり、だからこそ、表現の上ではアクチュアルな事態から身を潜める。それでも彼は、“マザー・アイ・ソバー”をクライマックスにおくことで、内面への隠遁とアメリカ社会に向けたアクションを両立している。自らの役割を降りながら同時に役目を果たすという、相当にアクロバティックな作業をケンドリックはやってのけている。

ケンドリック・ラマーが命を狙われているなんて、大袈裟な妄想だと思うだろうか? そう思っても一向に構わないけれど、少なくとも私は、『ミスター・モラル&ザ・ビッグ・ステッパーズ』の慎ましさを責めることなどできない。「冒険心や刺激が足りない」なんてとても言う気になれない。大体、リリックの意味の上では慎ましくても、ラップの技術の上ではちっとも慎ましくなんかない。柔らかい早口の中で複雑にアクセントをつけるフロウ、細やかに脚韻を変えていくライミング、高い声と低い声と怒号とつぶやきを使い分ける演出力。ケンドリックの声をずっと聞いているだけで蠱惑される。ビートの目立たない曲が多いからこそ、ラップのパーカッシヴな力が本作ではむしろ強調されているだろう。細かいポイントに耳をすませばよくわかる。例えば“カウント・ミー・アウト”前半部の、特段派手なわけでもない四行。

Rain on me,put the blame on me
Got guilt, got hurt, got shame on me
Got six magazine that’s aimed at me
Done every magazine, what’s fame to me?

ここでケンドリックは「エイ(rain,blame,shame,aimed,fame)」と「アッ(got,that’s,what’s)」と「イン(rain,magazine)」と「me」の音で韻を踏みながら、「got」の連射で強いアクセントを強調しつつ、「me」と「magazine」における「m」音の繰り返しで柔らかさを加えている。硬さと柔らかさのバランスをとりながら、子音と母音で複数のライミングを乗せる。韻律が固いからこそ、四行目「every」の三連譜が効果的なパーカッションになる。しかも「magazine」は「弾倉」と「雑誌」のダブル・ミーニングだ。ケンドリックはあらゆる仕掛けを短いラインに凝縮する作業を行いながら、全体のストーリーも同時に構築しているのだ。こんな傲慢なスキルを持つプレイヤーに、「慎ましい」なんてどうして言える? それに、意味の上では慎ましくふるまう理由を、上記のリリックで彼は仄めかしているではないか。「六発の弾倉が、俺を狙っていた」からだと。

文:伏見瞬

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