昨年日本で公開され大ヒットした映画「テッド」は、ちいさい頃からの親友だったクマのぬいぐるみを大人になっても手放せず、恋人に愛想をつかされそうになる男の姿を描いたコメディだったが、リアル・エステートのフロントマンであるマーティン・コートニーも、今まさにそんな状態にあるのではないだろうか。
前作『デイズ』をリリースした後に恋人と結婚し、5月には晴れて父親になるというマーティン。リアル・エステートの音楽には常にノスタルジーがつきまとっていたが、故郷のニュージャージーを離れ、現在は夫婦でブルックリンに住んでいる彼は、「もう過去を懐かしんだりしないで済むようになった」と誇らしげに語っている。けれども、本当にそうなのだろうか。新作『アトラス』のジャケットを飾るのは、今は無きニュージャージーのショッピング・モールの壁に描かれていたという巨大な絵画だし、アルバムの2曲目のタイトルからして“パスト・ライヴス(昔の生活)”なのだから、彼が今も地元に未練タラタラなのは明らかだ。もしも友達から「マーティン、プレステやろうぜ!」とでも電話がかかってこようものなら、きっとすぐにでも飛んで行ってしまうに違いない。
前作『デイズ』にはテッド、ならぬデッド・ベアー好きなベーシストのアレックス・ブリーカーが歌う“ザ・ワンダー・イヤーズ”なる曲が収められていたが、そのタイトルの由来にもなった海外ドラマ「素晴らしき日々(ザ・ワンダー・イヤーズ)」に登場する3兄弟のように、いつも一緒だったリアル・エステートの3人に訪れた旅立ちの感傷と未来への不安は、ウィルコの所有するシカゴのスタジオで録音されたクリーンなサウンドとは対照的に、アルバム全体を雲のように覆い、暗い影を落としている。
先行シングルの“トーキング・バックワーズ”では、「何時間でも話せる/電話はまだ繋がってるけど/僕らは少しも近づかない/君は何マイルも向こうにいる」と歌われているが、聞くところによればギタリストのマット・モンデナイルは最近ブルックリンからロサンゼルスへ引っ越したそうで、一見遠距離恋愛の辛さを歌っているかのように思えるこの曲も、ひょっとしたら奥さんにバレないようにマーティンが発した、マット宛てのラヴコールだったのかもしれない(ギターのチュートリアルを模して話題になった“クライム”のヴィデオ・クリップも、実際にはブルックリンのマーティンと、ツアーでオーストラリアにいたマットで別々に撮影されたそうだ)。
けれども、そこにあるのはきっと逆説なのだ。帰れないからこそ故郷のことを懐かしく思うし、そんなことはできないとわかっているからこそ、「逆さに話したほうがマシさ(トーキング・バックワーズ)」と歌ってみせる。それこそがリアル・エステートの音楽を、現実よりもずっとリアルに感じさせてくれるのだ。
アルバムを締めくくる“ナビゲーター”の仮タイトルは、今年の〈フジロック〉で初来日するグレイトフル・デッドのベーシストの名前と、彼らの名盤『ヨーロッパ ’72』をもじった“フィル ’72”だったそうだが、リアル・エステートの3人と同じ高校の同級生だったジュリアン・リンチがサックスで参加したこの曲で、マーティンはこんな風に歌っている。
「時計に置いた手を見つめている/今でもそれが止まるのを待っている」
それでも、過ぎた時間を元に戻すことはできない。彼はもう大人になって、友達よりも大切なものを見つけてしまったのだから。
ニューヨークまで電車やバスで40分ほどだという、ニュージャージー州リッジウッドというベッドタウンで結成されたリアル・エステートは、これまでも何かにつけて「郊外」と関連付けて語られる存在だった。“サバーバン・ドッグ”や“サバーバン・ビヴァレッジ”というタイトルの楽曲を収録し、ぼんやりした日常とそこからの逃避願望をビーチや夏のイメージに託したデビュー・アルバム『リアル・エステート』と、多感な10代のビタースウィートな感覚にいくらかフォーカスを強めた2011年の2nd『デイズ』。その両方で彼らがソングライティングの主たる舞台としてきたのは、自分達が生まれ育った郊外の街並。リヴァーヴィーなサイケデリアを纏って甘いメロディーを歌うヴォーカル、単音のギター・リフが先導するレイドバック気味のバンド・アンサンブルなどに特徴づけられる彼らの音楽性も、都会よりも緩やかに感じられる郊外の時の流れを体現するかのような、不思議なタイム感を持つ代物だった。
そして、この3rd『アトラス』においても、一聴してリアル・エステートは何も変わっていないかのように思える。同郷の先輩フィーリーズや初期のR.E.M.に気怠さと眠気を振りかけたような音楽性の基本フォーマットも相変わらずなら、全10曲入りで中にインスト曲を1つ収録したアルバムの構成さえも同じだ。
ただ、丁寧に見ていくとその中にも多少の変化はある。特に顕著なのは歌詞だろう。「ここは僕が知っていたのと同じ場所じゃない/でも、そこにはまだ同じ古いサウンドがある」と歌われる“パスト・ライヴス”をはじめとして、ここで描かれるのは郊外の日常というよりもむしろ、かつて暮らしていた郊外を懐かしむようなノスタルジーの感覚。そこにはきっと、メンバー全員が今ではリッジウッドを離れブルックリンやLAに居住していることや、長い間ホームや恋人と離れるツアー生活を送ってきた経験、あるいは三十路を目前に迎えた年相応の成長なども反映されているに違いない。また、音楽的にはリヴァーブの使用が多少薄まったことでクリーンなトーンが強まった印象もあり、以前よりも率直に彼らのソング・クラフトの妙が堪能できる1枚と言うことも可能かもしれない。
しかしそれらの変化も、余程熱心なファンでなければ気づかないだろう、些末な差異に感じられる。彼らの音楽に特別の思い入れを持っているわけではない僕のような人間からすれば、本作に大きな変化や新しい要素が用意されているわけではなく、全体としてはどこまでもリアル・エステートらしいサウンドが展開されているとしか言いようがないアルバムである。何も変わっていないようで時の経過を感じさせる細やかな変化はあり、でも広い視野で見れば結局のところ何も変わっていないように思える。そんな彼らの在り様は、まさしく郊外の風景や日常そのもののようではないか。