ロックンロール・バンドが再び世間の注目を集めるとき、それは世代交代を促す機運の高まりとして現れる。逆にいえば、それほどの大きな現状変更を伴わないかぎり、ひとたび傾いたロックンロールが再び息を吹き返すことは難しい。このロサンゼルスの4人組に注がれる熱視線というのも、そうした期待感や待望論を受けてというところが大きいのだろう。かたやサウス・ロンドンを起点に活気づくイギリスとは対照的なアメリカの状況においては尚更、彼らの存在が一際まぶしく映って感じられてしまうのも無理はない。
若さはメディアを魅了する。そして若さとは新しさを帯びるものだが、メンバー全員がティーンエイジャーである彼らも例外ではない。しかし、オジー・オズボーンやクランプスやアリス・クーパーへの愛着を屈託なく語るかれらの音楽に「新しさ」があるとするなら、それは相対的な新しさであり、たとえば過渡期が続くインディ・ロックや盛りに飽いたポップ・ソングの真逆に置かれることで際立つ新しさ、なのだろう。
「もしあなたが、ロックンロールはもう死にかけで、本来の遊び心やパフォーマンスや原始的なエネルギーを失っていると思うのなら、それはまだスタークローラーに出会っていないということでしかない」。とまで言い切る〈ラフ・トレード〉の重役ジェフ・トラヴィスのクリシェを額面通りに鵜呑みはできずとも、なるほど、彼らのやろうとしていることがハイコンテクスト化した現状に対するある種のショック療法的なインパクトを持ちえていることに目を向けさせられざるをえないのではないか、と思う。
彼らのデビュー・シングル“アンツ”をプロデュースしていたスティーヴ・マクドナルドといえば、USハードコアとパワー・ポップを繋いだフラワー・チルドレンの「恐るべき子供たち」、レッド・クロスを率いたマクドナルド兄弟の片割れ。キッスとニューヨーク・ドールズとビーチ・ボーイズのミックスだったレッド・クロスの諧謔に満ちたスタイルは、その時点で彼らが選ぶ青写真のひとつとなりえる可能性も十分にあったはずだが、この1stアルバムでは、いうなればロックンロールのオーセンティシティを踏まえるようにバンドの地固めに努めたライアン・アダムスのプロデュースが功を奏している。『ロッキー・ホラー・ショー』のガレージ・ヴァージョンのようだった “アンツ”の得体の知れない危うさこそ潜めたが、2枚看板のヴォーカルとギターを支えてアップダウンを繰り返すリズム隊の労を惜しまぬ運動が、彼らのサウンドにヴァリエーションとそれをもたらす演奏のストロークを与えている。
なかでも、ストーナー風情のサイケデリックな“チキン・ウーマン”、スワンピーなグラム・ロックの“プッシー・タワー”はアルバムの中核をなすナンバーであり、かつての彼らだけではかたちにすることは難しかったのではないか。あるいは、終盤に置かれたフォーキーなロッカバラードの“ティアーズ”しかり、随所に顔を覗かせるルーツ・ミュージック的なタッチは、ウィスキータウン時代のオルタナ・カントリーを引き継ぐデッド・ヘッズのライアン・アダムスによって引き出された彼らの伸び代、にちがいない。
彼らのブレイクは、周囲が期待を寄せるようにロックンロール・バンドの復権が果たされた暁には、起点のひとつとして振り返られるのではないかと思う。けれどそれには、彼らの一突きを大きなうねりへと押し上げる「シーン」なり「コミュニティ」が必要だろう。いまのアメリカにおいては、そうした点と点を結び、線から面へと広げるような動きがどうにも見えづらいのが現状。彼らの場合も、孤軍奮闘の感が否めない。ただともあれ、彼らが投じた布石の意義はけっして小さいものではないはずだ。
ハノイ・ロックスかモトリー・クルーか、というルックス。やたらと目がでかくて背がひょろっと高くて足が針金のように細いヴォーカルのヴィジュアルは確かにフォトジェニック。キャラクターはしっかり立ってるし、なにより目立つ。ライヴ映像で見る、昔の戸川純や珉比佐子みたいな痙攣したような自己破滅的パフォーマンスも面白い。だからそういう彼らのヴィジュアル・イメージやキャラクターが活かされた“アイ・ラヴ・LA”などのミュージック・ヴィデオは最高に楽しいが、音だけのアルバムを聴くと、そういったけれんみのようなものが良くも悪くもなくなって、それこそアメリカの中西部あたりにゴロゴロいそうな、ありきたりのガレージ・ロックの枠を少しも出ないのである。
ストゥージズとブラック・サバスとホワイト・ストライプスとアンボイ・デュークスとクランプスとマッドハニーとギターウルフとシーナ&ロケッツをラフに継ぎ合わせたようなサウンドは確かにエネルギッシュでダーティで生々しい迫力があるけど、正直音だけ聴いている分には、既存のロック、ロックンロールの繰り返し、焼き直しでしかなく刺激や新味には乏しい。ロックに新しさが必要なのか、そもそも「新しい」ってなんだ、という議論はあろうが、「新鮮であること」は必要だろう。少なくともこの音「だけ」で世界が変わるとは思えない。ヴォーカルは折り目正しく歌詞も意外にマトモで、音楽/作品としてまとまりがあり破綻していない。なので商品として分類しやすく音楽シーンの中での位置づけもしやすいだろうが、まとまりがいい分すべてをなぎ倒すような爆発力、破壊力は乏しい。ライアン・アダムスのプロデュースもちょっと生真面目すぎて、聴いていて少しも笑えなかったのも残念。ミュージック・ヴィデオやライヴに見るような彼らのねじ曲がったユーモア感覚、キッチュでキャンプな魅力を十分に捉えているとは言いがたい。
もっともライヴとレコードのギャップなんて、それこそロック・バンドにとっての大昔からのテーマでもある。今後レコーディング・スキルが向上し、充実したアルバムを作ることもありうるだろう。とはいえ全体に漂う刹那的な雰囲気が、一発屋の匂いを放っているのが気になるところ。なんとなくオルタナ末期のロンドンに狂い咲いたデイジー・チェーンソウというバンドを思いおこしたり。いずれにしろ彼らに「低迷する英米ロックの救世主」的な役割を負わせるのは酷だと思う。