チャーリーXCXは「ポップのフィクサー」と呼ばれてきた。もちろんポップ・ヒットもあるが、看板となっているのは未来派サウンド。故ソフィーとともに押しあげたハイパーポップは、今やサム・スミス&キム・ペトラス“アンホーリー”を通してラジオやグラミー賞で通用する一大ジャンルである。そんなパイオニアが大鉈を振るったのだから驚きだ。『クラッシュ』は、彼女が脱構築してきたはずの「セルアウト・ポップ」そのものへアクセルを踏み込む「事故」アルバム。ジャネット・ジャクソン風味のセックス讃歌“ベイビー”、ビヨンセとかぶったロビン・S使いの“ユーズド・トゥ・ノウ・ミー”など色々あるのだが、リード・シングル“グッド・ワンズ”に至ってはちょっとケイティ・ペリーっぽい域。ということで「フィクサー」が「ポップ・スター」に変身した本作は賛否を呼んだ。そしておそらく、彼女は不評を買うこともわかってやった。カヴァー・アートで模範されたデヴィッド・クローネンバーグ監督作『クラッシュ』は、交通事故でエクスタシーを得る人々の映画なのだから。コンセプトどおり性欲も強調されていく『クラッシュ』は、キャリアの自滅と言われがちな「セルアウト・ポップ」の隠れた魅力を具現化している。自滅は、超セクシーだ。(辰巳JUNK)
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俺は虫けらだ。人間になんかなりたくなかった。質量で比べれば、人類より昆虫類の総量の方が重いのをお前は知っているか。環境危機や人新世などというが、人類が滅ぼせるのは人類自身くらいだ。せいぜい哺乳類が関の山。虫けらに人は勝てない。人間には、雑魚の自覚が足りない。なのに俺は人間になってしまった。人間になんかなりたくなかった。「ある朝、虫は夢から覚めると、自分がベッドの上で巨大なグレゴール・ザムザになっていることに気づいた」。そんな悲惨な変身物語の主人公が俺だ。寒さと暑さに素肌では耐えられない、運動能力の乏しい生き物たちに囲まれて生きてる。奴らがりんごを齧りながら笑ってる。罪悪感と優越感をすり替えて暮らしてる。いやだ。一匹の虫に戻りたい。雑魚の一員でいたくない。今日も人間の体に閉じ込められて日が暮れる。そのりんごを投げて、俺の命を奪ってくれればいいのに。病んでるのは俺じゃない。虫の体を奪われたのは俺のせいじゃない。人間の言葉が体に絡みつく。だから俺は今日も言葉を吐き捨てる。言葉をすべて吐き捨てて、そのすべてを踏みつける。吐き捨てた言葉は何もなかったように、ふたたび体に絡みつく。アース・スウェットシャツは、虫けらである権利を奪われた人間のようにささやく。知性という名の愚かさと共に生きる日々を呪う。その声は俺の耳の周りで、虫の死体のように積み重なっていく。(伏見瞬)
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俺は虫けらだ。夜の森で声を鳴らしている。11月18日渋谷Spotify O-Eastでのビッグ・シーフ来日公演は、昆虫とオケラがポリフォニーを奏でるようなアンビエント風のサウンドから始まった。ドラムスのジェームズ・クリヴチェニアがマイクと逆再生エフェクトを使って音を発しているようだが、一人で鳴らせる音響だとは到底思えない。ただならぬ気配の中で、エイドリアン・レンカーが“ドライド・ローゼス”の三拍子をアコースティック・ギターで弾き始める。彼女の声は、木々の間を吹き抜ける風のように震えている。ビッグ・シーフのライヴは、安定と不安定が同時に伝わる奇妙な体験だった。演奏と音像のコントロールはほとんど完璧に聞こえる。しかし、それは平等に音を重ねていくようなアンサンブルではない。エイドリアン・レンカーが苛烈な存在感を放っており、彼女の気分が、ライヴ全体の流れを定めていた。ツアー中も毎回セットリストは変わっているが、おそらくその場の気まぐれで曲が決まっている。ライヴ中、レンカーの精神の震えが音から伝わってくるかのようで、それはそれは不安定で緊迫した気配だった。彼女のステージングやヴォーカリゼーションやギター・タッチは、例えばカート・コバーンやジム・モリソンを思わせる、強引な繊細さを帯びていた。しかしその不安定は、社会で浮き沈みする人間心理の不安定ではない。人間的な粘りつく感情の産物ではない。想起されるのはむしろ、熱帯雨林の天気のような変わりやすさだ。晴れ間が突如豪雨へ変わり、静かな時を強風が吹き飛ばす。それは、不安定だが安定している。自然現象にとって、秩序と混沌は同じものを意味する。安定と不安定の並存するライヴを体験した後では、『ドラゴン・ニュー・ウォーム・マウンテン・アイ・ビリーヴ・イン・ユー』は、人工と自然、秩序と混沌の二分法を無化する音として響く。ザ・バンドとニール・ヤングのアメリカーナを引き継ぎながら、フィールド・レコーディングとエンジニアリングの蓄積を学びながら作られた、アーシーかつ都会的なフォーク・ロック。抑制された8ビートで進む“シミュレーション・スワーム”では、蛍光灯の持続低音から(With the drone of fluorescence)幽玄なささやきを受け取る。人間と虫と雲とギターと蛍光灯は、製造元を辿ればすべて自然界の産物である。人工と自然を一体化するその凶暴な同質性は、人間的感情の粘着性を弾いて、虫けらと蛍光灯のオーケストレーションとして、聴く者の感性を包み込む。(伏見瞬)
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スペクタクルは2022年エンターテインメントのキーワードだ。パンデミックによる自粛が緩和されて外出が増えるなか、人々はド派手な娯楽を求めていった。リナ・サワヤマも無関係ではない。コロナ禍で倍増したファンの需要に応えるため、大型ツアーに適した『ホールド・ザ・ガール』をつくった。Y2Kジャンル混合の中カントリーが意識された本作で特筆すべきは、クィアの絆を叫ぶ“ディス・ヘル”だろう。政治的メッセージを前面にしながら大音量で踊らせるスペクタクルは、まさしく彼女がレディー・ガガ・チルドレンであることを証明している。ただし、今回、テイラー・スウィフトの存在も香っている。私小説的リリックから離れ架空の物語を歌ったテイラーに活力をもらったというリナは、カントリー調バラード“センド・マイ・ラヴ・トゥ・ジョン”にて、恒例の自伝的リリックではなくノンバイナリーの友人と母親の物語をつむいでいる。もちろん、彼女とテイラーは色々違う。リナの大きな武器のひとつは、やはりスタジアムに行き渡る歌唱パワーだ。ゆえに『ホールド・ザ・ガール』の偉大な功績とは、カントリー的ストーリーテリングを2020年代式スペクタクル・ポップへ拡張したことである。(辰巳JUNK)
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前作『ア・ヒーローズ・デス』がポストパンクの鋭利なサウンドで現代を表現したアルバムだとしたら、本作はポストパンクの「調性を薄めた不穏なムード」を用いて時代を表現した作品と言えるだろう。フォンテインズD.C.はこのレコードに収録された多くの楽曲において、ダブリン出身者としてのアイルランド内でのアイデンティティ、ロンドンに住むアイルランド人としてのアイデンティティの揺らぎを表現しているものの、直接的な表現はほとんど用いていない。そこにあるのは、誰かと誰かの不和を仄めかすリリック、そして赤い家の中に場違いな鹿が佇むアートワークのような奇妙で不穏なムードだ。だからこそ我々は彼らが紡ぐ音楽を、イギリスローカルの物語としてだけではなく、自らのものとも、世界情勢を表すものとも捉えることができるのである。ほんの些細な幸せを表現したツイートが、見えないアルゴリズムによって無関係な誰かのタイムラインに流され、「自分への攻撃だ」と受け止められる。個人の発信に「私事ですが」「個人の見解です」というエクスキューズがつけられてしまう。あらゆる映画やドラマの中に心情を説明する台詞が求められる。そんな「なにも言えない。なにかを言おうとすれば100の注釈が必要になる」という一種の情報的ヒートデスへ向かいつつある現代に対して、このレコードは「ムード」と「仄めかし」が持つ可能性をあらためて提示しているかのようだ。(照沼健太)
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デビューから6年。2017年のEP『3:33am』、2018年のEP『Conexão』を挟み、さらに4年を要したこのアルバムまでには“ミキサー”や “ヒート”、パンデミック初期に録音された秀逸なカヴァー三部作ほか特筆すべき佳曲がいくつもあったにも関わらず、どれも未収録。アンバー・マークは自らの1stアルバムを3つのパートで構成された、明確なコンセプトを持った作品にすることを優先し、「三次元の奥行き」という謎めいたタイトルを冠した。アルバムに先立ち、2021年春にリリースされた“ワース・イット”――この曲には少しばかり不可解なビート・スウィッチが存在する。曲前半のビートはダンスホール。だが、bpmはそのまま曲中盤のビートレスなブリッジを挟んだ2分16秒からのビートは、何故かブーンバップへと変わる。特に音楽的に効果的な展開とは言い難く、リリックとの関係から何かしらナラティヴ面での効果を狙ったわけでもなさそうだ。おそらくこれはアンバー・マーク自身のアイデンティティの揺らぎ/不確かさ/複雑さの表明なのだろう。ジャマイカ人の父とドイツ人の母の間に生まれ、タンカ絵を学び、チベット仏教にも帰依した母と共に、マイアミ、インド、ネパール、ベルリンと世界中を渡り歩く少女時代を過ごした彼女は、やがて東海岸ニューヨークに居を構えたものの、このアルバムの中でも地上の何処かの場所に明確に属すことのないサウンドを鳴らしている。2017年のEP『3:33am』のシグネチャー・サウンドでもあったチベット密教のマントラのようなチャントこそ身を潜めたものの、70年代ソウル/ファンク/ハウス/ダンスホール/ボサノヴァそれぞれの境界を横断するビートとサウンドは、K-POPをひとつの震源地にY2K期のオーセンティックなR&Bリヴァイヴァルが目立った2022年において、オルタナティヴR&Bという忘れられた呼称に一人敢えてとどまり続けているかのようだ。リリックのそこかしこではニコロデオン製作アニメ『アバター 伝説の少年アン』やダグラス・アダムス小説『銀河ヒッチハイク・ガイド』――Sci-Fiタッチの物語を引用し、3つのパートが後半に進むに連れて、曲のナレーターは量子力学や理論物理学と、チベット仏教経由のスピリチュアリティとの接合点を見出そうと試みる。おそらくこの作品全体のナラティヴは、内面世界と宇宙の境界を横断し、我々の知覚が閉じ込められている三次元世界の「外側」を夢見る――というアイデアなのだろう。どこか馬鹿げてもいるが、これは間違いなく切実な動機あってのアイデアだ。すべてのマイノリティに息つく場所を与えようとするアイデンティティ政治に終わりはない。その過程でまた、社会が用意するセーフティネットからはみ出てしまう新たなマイノリティを生み出すからだ。そもそも社会的にカウントされることもなく見過ごされてしまう存在もまたまぎれなくマイノリティであり、三次元の世界の外側を夢見るこのアルバムもまた、あらかじめこの地表に然るべき自らの居場所を見つけることも与えられることも期待しない主体が作り出した作品なのかもしれない。でなければ、この作品にこんなにも惹かれる理由が何処にも見当たらない。(田中宗一郎)
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「次の20世紀」とは、なんて悲しいタイトルなんだろう。わたしたちが「現代」と思っているものは、戦争に明け暮れた上に環境破壊と強欲によって文明を発展させてきた20世紀の焼き直しにすぎないのか? 今世紀稀代のトリックスター=ファーザー・ジョン・ミスティの本作は、これまでの70年代風ロッカ・バラッドからさらに遡って戦前のスイング・ジャズやハリウッド黄金期のオーケストラ音楽を優雅に「再演する」。まるで焼き直しのように。ノスタルジーを批評的に立ち上げるのはラナ・デル・レイやワイズ・ブラッドと同様だが、ジョシュ・ティルマンによるそれはもっともシニカルで風刺的だ。豊かで白かった時代のアメリカが人びとをうっとりさせていた頃の、まやかしの夢。彼はそれをある種の映画として物語るのだが、それはもうこの世にいないハリウッド・スターたちのありし日の亡霊たちと戯れるようなものだ。正装に着飾ったら映画が始まる前に、豪華なラウンジで洒脱な演奏に耳を傾けながら思い出話でもしようじゃないか……そもそもすべては幻だし、どうせ次の時代も似たようなものなのだから。登場人物たちが悲劇的な運命をたどる様をクラシックな白黒映像で描いてみせるこのラヴ・ソング集は、ぞっとするほど甘やかに退廃的だ。だが、そして、歌声の真摯さによってそこから不意に切迫した感情をこぼれさせてしまうのもまた、ジョシュ・ティルマンというひとである。(木津毅)
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「みんなを気持ちよくしたり、みんなが既に考えているようなことを再確認するために、音楽を作ってはいない。自分のアルバムを一枚全部聴いて、世の中や自分自身の信条に対してなにひとつ疑問が出なかったら、それはきちんと聴いてないからだ」。ビリー・ウッズは、本作に関するインタヴューでこう語っている。それはとりもなおさず、彼のリリックの基本型が、リスナーをひたすら能動的に作品に臨むように追い込む作りになっているからだ。テクストとは引用のモザイク、という表現がある。ビリーのリリックには、ヒップホップにまつわるもの、ジェイムズ・ボールドウィン等による文学作品、植民地時代~ポスト植民地主義にまつわる事象や人物関連などの引用が結構盛り込まれている。それが引用だと気づいたリスナーは、その背景ごと引き受けようとするだろう。ところが、ビリーはダイレクトに引用するだけでなく、それらに新たに彼自身の個人史(ワシントンDCに生まれ、ジンバブエの独立に大きな役割を果たすことになる父親と共にアフリカに移り住み、その後ブルックリンに戻る)を絡めた捻りを加えることも多く、引用と気づかないリスナーも聴けるようにはなっている。すると、今度はビリー(の個人史)を経由して、それが元々引用であることに気づく可能性もでてくるため、そこからビリーのリリックと引用の対話という能動的な行為が促されることになる。こうした、いわばインターテクスチュアリティに基づく彼のスタイルが、 20年ほどのキャリアにおいて、アルバム全体を通じて、もっとも強度を持った作品となったのが本作だ。もちろん、それはことばのレベルだけで成立しているわけではなく、(DJ)プリザベーションによるビートが重要だ。例えば、(ビリーやアール・スウェットシャートも参加している)彼の最近作の全トラックは、一時期住んでいた香港でディグった音源を基に作られていて、本作での驚くべき柔軟性は決して偶然に生まれたものではない。そもそも、ビリーの創作手順は、既に出来上がっているビートを聴いて、そこから扱うべきテーマを決め、リリックを書いてゆくというから、(セッションで作り上げてゆくのではなく)完成済みのビートと彼との能動的な対話が基本になっている。そんな構造を持つアルバムで、ビリー・ウッズは、アフリカにおける植民地時代の現在に至る後始末と、2020年代の北米の社会の諸側面を、時に歴史学者を思わせる姿勢で重ねあわせている、ということはできる。ただし、いわゆるメッセージを発してはない。例えば、『アトランタ』が一貫して視聴者に「答え」ではなく「問題」はなんなのかを考えさせたのと同じように、彼も「答え」を出すことには興味はない。(2022年が直面している)問題が、単純なものではないのだ。(小林雅明)
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「俺は虫けらだ。だれにも相手にされない」。「俺はキングでクイーンだ。だれもが賞賛を惜しまない」。二つの自己認識の極端な乖離を受け入れると同時に、マティ・ヒーリーはポップとインディの二項対立をなぎ倒す。マイケル・ジャクソンにしろザ・スミスにしろ、テイラー・スウィフトにしろビーバドゥービーにしろロマンス以上のロマンスを鳴らすからこそそれは人を惹きつけるのであり、ポップとインディの線引きはロマンスの前では消え去る。ロマンスとは、肥大したエゴと無償の愛が出会う場所である。虫けらの自己嫌悪と王族の自己顕示が消失する瞬間を目指して、マティ・ヒーリーは今日も強烈な自己愛を音楽へ投げ込む。デビュー時から前作『ノーツ・オン・ア・コンディショナル・フォーム』までをThe 1975自身が「ミュージック・フォー・カーズ」期と呼んでいるのはブライアン・イーノがアンビエント・ミュージックを考案したアルバム『アンビエント1:ミュージック・フォー・ア・エアポーツ』に自らの作品を重ねるからであり、彼らが「エモ」を鳴らしていた頃のバンド名が「ドライヴ・ライク・アイ・ドゥ」であるからもわかる通りにThe 1975にとっての「カー」とは「エモ」の象徴である。「ミュージック・フォー・カーズ」とはだから、「エモ」と「アンビエント」の重ねあわせをコンセプトとしたものに他ならず、事実そのサウンドは「エモ」のメロディとヴォーカリゼーションを「アンビエント」の柔らかい音響によって鳴らすものだった。80’s ポップ的なサウンド・メイキングも、シンディ・ローパーやアーハがエモのルーツにあったからこそ成し得た再解釈である。そして、「エモ」を「青春」と、「アンビエント」を「環境」と翻訳したとするなら、「ミュージック・フォー・カーズ」期のThe 1975は青春を取り巻く環境として、つまりユースのサウンドトラックに徹するバンドとして存在していた。今作『ビーイング・ファニー・イン・ア・フォーリン・ランゲージ』ジャケットの燃える車の上で男が踊るモノクロの写真はだから、「ミュージック・フォー・カーズ」期からの離脱を意味しているように思える。たしかに、11曲43分というコンパクトな構成といい、“パート・オブ・ザ・バンド”や“ホウェン・ウィ・アー・トゥギャザー”のチェンバー・ポップ風アレンジといい、ある種の成熟を思わせる特徴も見いだせる。“The 1975”のリリックは17歳のリスナーに向けた成熟したメッセージともとれる。しかしながら、それはロマンスからの離脱を意味しない。むしろロマンスへと突き進む厚顔無恥な開き直りこそが、本作の正体である。青春から屈折と恥じらいを抜きとった魂を、私たちは感じ取る。「最高の紳士が手に銃を持って愛を探している(A supreme gentleman with a gun in his hand lookin’ for somebody to love)」というリリックはどこまでもアイロニックな響きを持ちながら、残酷なまでのロマンスへの希求を止めない。“オール・アイ・ニード・トゥ・ヒア”や”ウィンタリング”のそっけないバンド・サウンドが見せるのは、濃密に透きとおったロマンスの香りである。エモとアンビエントに火をつけた後に、最高密度の透明さがそこには残った。『ビーイング・ファニー・イン・ア・フォーリン・ランゲージ』とは利己と利他の消失点に向かう運動の別名であり、その恥知らずなほどロマンティックなロマンスに、私たちの心は踊り続ける。(伏見瞬)
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本作の旅というコンセプトは、物理的な移動以外の動機もたしかに内包しているだろう。つまり個人的な記憶を巡る旅から、人類の歴史を再訪するために時空を超える旅まで――わたしたちはパンデミック下でそのようにして心をあらゆる場所に飛ばそうとした。けれどもこれまで幾多のかき消されそうになっていた声を拾い集めてきた七尾旅人は、旅の途中で目撃する暴虐から目を逸らすことができない。15世紀の中南米で、現代のアメリカの路上で、この国の入国管理局で、コロナ禍の街で、たったいまもウクライナで――権力あるいは硬直したシステムによって人間も自然も動物たちも傷つけられ殺され続けていることを、この歌い手は言葉にするのを恐れない。だからこそ彼は多くの音楽家の演奏の力を借りて、一音一音を慈しむようにして、優しくて、少し感傷的で、ときにダイナミックなアンサンブルを奏でる。かじかんだ手を柔らかくする温度を持った音楽を。甘いソウル・ミュージックもロマンティックなジャズも、哀切に満ちたフォークも、繊細な室内楽も――大切なひとたちの笑顔と出会い直すためだけに鳴っている。ひとつひとつ丁寧に具体的に描写される彼らの営みや人生。その穏やかなメロディを声に出すためには、わたしたちは呼吸を整えなければならない。だからこれは……そうだ。震えを止めて、恐怖に固まった足をゆっくりと前に出し、旅を続けるための歌曲集である。(木津毅)
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2022年 年間ベスト・アルバム
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2022年 年間ベスト・アルバム
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