SIGN OF THE DAY

今どきベルセバなの? あるいは、そもそも
ベルセバって何? というユースに教えます。
2015年の「今こそベルセバだ」という理由
by KOREMASA UNO January 21, 2015
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今どきベルセバなの? あるいは、そもそも<br />
ベルセバって何? というユースに教えます。<br />
2015年の「今こそベルセバだ」という理由

ようやく今年8月に日本での劇場公開も決まったスチュアート・マードックの初監督映画『ゴッド・ヘルプ・ザ・ガール』。ベル・アンド・セバスチャンのファンならご存知のように、2009年に彼がリリースした同名アルバム(曲ごとに異なる女性ヴォーカリストをフィーチャーした音楽プロジェクト)の映像版と言ってもいいスチュアートの趣味が炸裂した作品なわけだが、2014年1月にサンダンス映画祭での初上映に先駆けてプレスに出回ったシーン写真、主人公の黒ぶち眼鏡をかけた女の子がザ・スミスのTシャツ(『ミート・イズ・マーダー』)を着て学校の体育館らしき場所に佇んでいる画像を最初に見た時は、正直「あちゃー」と思ったものだった。

言うまでもなく、ベルセバは1996年のデビュー当初からザ・スミスからの影響を隠さずにいたし(というか、そのアートワークやアルバムのタイトルで積極的にアピールしていたし)、『(500)日のサマー』や『ウォールフラワー』を筆頭に、ここ数年インディーズ映画界隈ではザ・スミスのプチブームのようなものが起こっている。作品のバックグラウンド的にも、そして時流的にも、決してそのチョイスは間違ったものではない。間違ったものではないのだけれど、「2014年に恥ずかし気もなくそのど真ん中をよりにもよってミスター・マードック、あなたが突きますか?」と反射的に思ってしまった。『モテキ』じゃないんだからさ。

God Help The Girl Trailer


そう、ふと思い返してみると、そうした(敢えてこの言葉を使いますが)サブカル受容における微妙な感覚の齟齬というのは、実はかなり以前からベルセバ≒スチュアートに対して自分が感じていたものだった。たとえば、以前に彼とグラスゴーのカフェで映画の話をする機会があったんだけど、ゴダール、トリュフォー、ジャック・ドゥミあたりで話が終わっちゃうの。「え?ヌーベルバーグは基礎教養だけ?」みたいな。まぁ、そのあたり日本の同世代のシネフィルは蓮實重彦の影響もあってちょっと頭おかしかったりするんで比べちゃいけないんだろうけど。

1996年にリリースした2ndアルバム『イフ・ユー・アー・フィーリング・シニスター』の輸入盤が口コミ(当時まだネットは黎明期だったのです)で人気を集め、その翌年に『天使のため息』と邦題が付けられて日本盤が流通する頃にはすっかりここ日本でも人気バンドとなっていたベルセバ。2ndの輸入盤が出た時点で洋楽誌の誌面で2P見開きのヴォリュームで取り上げて、いち早く英国にライヴを見に行って、地元グラスゴーで海外のどのメディアよりも早く(当時、英国でも既にブレイクしていた彼らはメディアの取材に一切NGの姿勢を貫いていた)スチュアート本人と接触することができた自分は、既にその時点で作品から伝わってくるスチュアートの「ナイーヴな少年」像と、実際に接した時の彼の普通さ、もっと言うなら「バイタリティ溢れる文武両道の好青年」的メンタリティのギャップにちょっとした戸惑いを覚えていた。「あんなに繊細でフラジャイルな音楽を生み出しているのは、こんな健全な男なんだ!」という。それはそれでとても刺激的だったし、新しいタイプの芸術家の肖像として好ましいものに自分の目には映った。

そもそもスチュアート・マードックはまったくもって「少年」ではなかった。デビューの時点で既に28歳。友達から借りたままのボロボロのシトロエンBXの助手席に乗っけてくれて、掃除夫として住み込みで働いていた教会や、仲間と週に3~4回集まっていたフットボールの公営グラウンドに連れて行ってくれた(一緒にピッチでプレーもしたけど、スチュアートはかなりクオリティの高いMFでした)2000年の時点で32歳。ちなみに、日本の春入学に当てはめるなら、ちょうど小沢健二&小山田圭吾と同級生ということになる。そう考えると、高校生くらいまでかなり近い種類の音楽的洗礼を受けてきたはずの小沢&小山田両氏と比べて、スチュアートがいかにその信仰を頑なに長年守り続けてきたかがわかるだろう(もっとも、彼はスティーヴン・パステルやエドウィン・コリンズのまさに地元でその洗礼を受けてきたわけだから、より信心深いのは無理もないけど)。

そんなスチュアートが非常に優秀なコンセプターとしての能力を発揮して構築したベルセバの音楽とイメージが、当時の日本で大いに受けたのは、自分にはとても必然的なことに感じられた。日本のトレンドセッターたちはもう別の方向に走っていたし、そのフォロワーの多くはとっくに霧散していた。そこに突然、音楽的にもイメージ戦略的にもパーフェクトなギター・ポップ・バンドが現れたのだ。

Belle and Sebastian / The stars of track and field (1996)


意外だったのは、アメリカからのわりとクイックな好リアクションだった。『ザ・ボーイ・ウィズ・ザ・アラブ・ストラップ』(1998年)~『わたしの中の悪魔』(2000年)の頃になると頻繁にアメリカでもライヴを行うようになった彼らは、みるみるうちに熱心な支持層を獲得していった。

Belle and Sebastian / Is It Wicked Not to Care? (1998)

Belle and Sebastian / The Wrong Girl (2000)

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近年は新作が日本公開されたりされなかったりと由々しき事態になってしまっているものの、当時はアメリカのインディーズ映画界のホープとして注目を集めていたトッド・ソロンズの映画『ストーリーテリング』のサウンドトラックを手がけたのが2001年(スチュアートの初監督作品『ゴッド・ヘルプ・ザ・ガール』は「構想10年」なんて言われているけど、スチュアートの中に映画制作への野心が具体的に芽生えたのは確かにその頃だったのだろう)。そのトッド・ソロンズとのタッグや、ニック・ホーンビィの原作ではロンドンだった舞台がシカゴへと移されて映画化された『ハイ・フィデリティ』劇中でのバンドへの言及などに象徴されるアメリカでの人気カルト・バンド化は、アズテック・カメラ、オレンジ・ジュース、パステルズ、ヴァセリンズ、ジーザス・アンド・メリー・チェイン、プライマル・スクリーム、ティーンエイジ・ファンクラブら、先達のスコティッシュ・バンドには成し得なかったことだ。

High Fidelity

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その大きな要因のひとつは、冒頭にもちょっと触れたように、アメリカの10代~20代のちょっとインテリでナイーヴな層におけるザ・スミスの神格化とも関わっているのではないかと推測する。80年代にリアルタイムでザ・スミスを体験することができなかったアメリカの若者たちは、ソロになってからのモリッシーのライヴにこぞって集った(大都市では現在も万単位の動員を誇っている)が、ベルセバのオーディエンスはその層とかなり被っていたはずだ。少なくとも、ある時期までは。

日本におけるポスト・フリッパーズ・ギター(渋谷系ではなくね)的なイメージ。アメリカにおけるザ・スミスの現代版的なイメージ。音楽的にも振れ幅の少なかったデビューから00年代初頭までの「初期」ベル・アンド・セバスチャンは、かようにリスナーの頭の中に様々な幻想を生み出す存在だった。そして、今になって振り返ると、「メディアとの距離の置き方」「メンバー間のゆるやかな繋がり」「デビュー直後から同時進行する各ソロ・プロジェクト」「自らがキュレイターとなってのフェス開催」(現在まで続いている〈オール・トゥモローズ・パーティーズ〉は1999年にベルセバが主催した〈ボウリー・ウィークエンダー〉から発展したものだ)などなど、ベルセバは00年以降の世界中のインディ・バンドにとってのスタンダードを切り開いた先駆者であったことに気づかされる。幻想ではなく、やはり彼らは革命的なバンドだったのだ。

Bowlie Weekender


ここまで述べてきた「初期」ベルセバのストーリーに、もしかしたら今の若い世代のベルセバ・リスナーの中にはあまりピンとこない人もいるかもしれない。2000年6月に初めて『トップ・オブ・ザ・ポップス』に出演したことを皮切りに、彼らはそれまでの秘密主義から大きく舵を切ることになる。また、主にアメリカからのニーズに応えての長期間のツアー生活は、スチュアート・デイヴィッド(2000年に脱退)、イゾベル・キャンベル(2002年に脱退)という初期の重要メンバーの離脱という結果をもたらすことになる。しかし、ここからが「バイタリティ溢れる文武両道の好青年」スチュアート・マードックの真骨頂であった。彼は自身が生み出した秀逸なコンセプトによって芽生え始めていたバンドの神格化、さらには自身のカリスマ化をストップさせるべく、楽曲の音楽性、ライヴ・パフォーマンスのあり方、メディアとの付き合い方など、あらゆる側面で変革の先手を打っていった。

その結果が、プロデューサーにトレヴァー・ホーンを迎えてそれまでのチェンバー・ポップ的だった楽曲をタフなポップ・ミュージックとしてビルドアップさせた『ヤァ!カタストロフィ・ウェイトレス』(2003年)であり、ベックやエールやフェニックスとの仕事でもお馴染みのトニー・ホッファーを迎えてロサンゼルスの陽光の下でレコーディングした『ライフ・パースート』(2006年)である。

Belle and Sebastian / Step Into My Office, Baby (2003)

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Belle and Sebastian / Funny Little Frog (2006)

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トニー・ホッファーは次作『ライト・アバウト・ラヴ~愛の手紙~』(2010年)でも続投。また、ロサンゼルスからアトランタへとスタジオは移ったものの、今回の『ガールズ・イン・ピースタイム・ウォント・トゥ・ダンス』(2015年)もベン・アレン(アニマル・コレクティブ、ボンベイ・バイシクル・クラブなどのプロデューサー)とアメリカでレコーディングされている。

自宅にはマーキュリー・プライズやブリット・アワードのトロフィーが転がっていて、長年の夢だった長編映画の監督となって、3作品連続でアメリカのでっかいスタジオで超一流のスタッフとレコーディング。グラスゴーの「ナイーヴな少年」のサクセス・ストーリーとして、これ以上のものはなかなか想像しにくいだろう。

「平和な時代の女の子はダンスしたくなる」。まるで現在が「平和な時代」ではないことを暗に示しているようなタイトルは、昨年のスコットランド独立騒動とこれから何年も続くに違いない内政/外政の混乱を肌で感じているはずの彼らにとってリアルなものだろうし(国民選挙直前になってエドウィン・コリンズら地元ミュージシャンがこぞって独立派に転じた時には、SNSからでさえも、何か抜本的な変革が現地で起こっていることをヒシヒシと感じさせられた)、現政権に少なくともあと数年間この国を任せる選択をしてしまった日本の我々にとってもまったく他人事ではない。ましてや、今年に入ってからパリではあんなことがあったし。なにしろスチュアートは(労働党議員にして組合のリーダーの父を持つ)ボビー・ギレスピー同様に、父親譲りのマルキストである(スコットランドのインテリ層ではそれほど珍しくはないのかもしれないけど)。社会に対して主張したいことは山ほどあるけど、それを三人称(そして、それはしばしば女の子であった)の物語の中にそっと隠して差し出してきたのが、これまでのベルセバの歌の世界だった。

しかし、本作『ガールズ・イン・ピースタイム・ウォント・トゥ・ダンス』で、スチュアートは遂に一人称で「僕の歌」を歌い始めた。それは、“ザ・パーティー・ライン”の四つ打ちディスコ・ビートや、“シルヴィア・プラス”、“パーフェクト・カップルズ”の完全な80年代エレポップ・マナーといった音楽的な小技が些細なことに思えるほどの、本作の最大のインパクトである。

Belle and Sebastian / The Party Line

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アルバム冒頭の“だから僕は歌う”(“Nobody's Empire”)で、彼はこう歌い出す。

「ベッドに寝転がって、僕はフランス語を読んでいた/明かりが僕の感覚には眩しすぎた/この隠れ場からは人生は耐え難かった/やかましくて荒っぽくて/壁の方を向くと老いた男が/夢の中から、おまえはそのまま死ぬのだと言った/でも見知らぬところで、きみは手を回していた/きみには違うアイデアがあったんだ」

Belle and Sebastian / Nobody's Empire

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00年代半ば以降、メディアからのインタヴューのオファーを受けるようになったスチュアートは、そこでベル・アンド・セバスチャン結成以前の話もするようになったが、彼は学生時代から長年慢性疲労症候群を患っていた。この歌では、その頃の自分ついてこれ以上なく直接的に歌われている。

「僕は子供みたいだった、藁みたいに軽かった/父は僕を抱え上げ/連れていかれた場所で僕の身体は診察された/魂は宙を浮いていたよ/僕はベッドにしがみつき、過去にしがみつき/闇の誘惑にしがみついていた/でも夜の向こう側には/くっきりと青信号が見えた/狂乱の前の静けさだよ」

そうなのだ。脳からの信号を身体がまったく拒絶して一日中ベッドに横たわっていた時にも、スチュアートには「違うアイデア」があった。「くっきりと青信号が見え」ていた。その「違うアイデア」にしたがって彼はベル・アンド・セバスチャンという物語を起動させ、約20年に及ぶ「狂乱」へと身を投じてきた。自分が2000年にグラスゴーで同じ時間を過ごした「バイタリティ溢れる文武両道の好青年」は、数年間に及ぶベッドでの生活から回復してまだ何年も経っていない男だったのだ。そう考えると、彼が週に3回も4回も遮二無二なってフットボールのピッチで走り回っていた理由がよくわかる。初期の頃はまるで教会での礼拝のように静かで厳かだったライヴでも、だんだん我慢ができなくなって、いかにも踊り慣れない人が踊っているような変なダンスを彼が踊り始めたこともよくわかる。彼にとってこの世界で生きていること、この世界で身体を動かしていること、それ自体が歓喜すべきことだったのだ。スチュアートがベッドの中で思いついた「違うアイデア」は、デビューからの数年で、英国だけでなく日本やアメリカでも思わぬリアクションを巻き起こしながら、すべて実現してしまったのかもしれない。そこから先のベルセバの音楽の根底には、常に「生きていること」への歓喜の調べが奏でられていた。そして、その歓喜の調べは新たなリスナーを獲得しながらゆっくりと世界中へと広がっていった。

「僕は何とかうまくやったろうか、道を切り開いただろうか/きみが困っていたとき僕はしっかりしていただろうか」

スチュアート、あなたはうまくやったし、道を切り開いてきたし、あなたの音楽はどんな時もすぐそばで鳴っていたよ。

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