チャンス・ザ・ラッパーが先導する「新しい
シカゴ」は如何に生まれたのか?その変遷を
紐解くシカゴ年表①「2011~2013年編」
2014年、シカゴでは殺人件数こそ減少したものの、銃撃事件による被害者の数は前年比13%の増加を見せ、治安の悪化が続いていた。〈ヴァイス〉が公開したドキュメンタリーは、そんなシカゴの過酷な現状と、だからこそ生まれたタフな音楽があることを広く世に知らしめたと言っていいだろう。
一方、チャンス・ザ・ラッパーは『アシッド・ラップ』の成功によって、急激に全米中から熱い視線が集まる時の人となっていく。彼はLAに「Koi Kastle」と呼ばれた家を借り、ジェレマイ、BJ・ザ・シカゴ・キッド、J・コール、フランク・オーシャンら新しい友人とつるみ、新天地での生活をスタートさせる。それにより人脈が広がったものの、次第に享楽的な生活に虚しさを感じはじめた彼は、6ヵ月後、再び地元シカゴへと戻ることを決意する。この移住経験がチャンス・ザ・ラッパーにシカゴへの愛を再認識させ、翌年以降の地元への尽力に繋がっていく。
>>>2014年1月
〈ヴァイス〉によるドキュメンタリー・シリーズ「noisey CHIRAQ シカゴの闇から生まれたドリル・ミュージック」が公開。Chicago(シカゴ)+Iraq(イラク)でChiraq(シャイラク)と呼ばれる同地の治安の悪化と、ドリルの勃興・発展について掘り下げた内容。
>>>2014年5月
チャンス・ザ・ラッパーがLAに移住。ジェイムス・ブレイクとシェアハウスで暮らすが、6か月でシカゴに戻る。2016年8月に公開された〈GQ〉誌によるインタヴュー記事では、ジェイムス・ブレイクが先に転居し、残りの賃料をチャンスが支払うことになったと書かれているが、その記述に対してジェイムス・ブレイクは「一緒に住みたいという話はしていたが、詳細については何も話し合っていなかった。賃貸やKoi Kastleについても、最初から何も聞いていなかったし契約もしていない」と反論している。
>>>2014年5月
チャンス・ザ・ラッパー、ヴィック・メンサ、リル・ダークの3人が2014年の「XXL・フレッシュメン・クラス」に選出。「XXL・フレッシュメン・クラス」とは、1997年に創刊されたヒップホップ雑誌〈XXL〉が2007年から発表している気鋭の新人リスト。アメリカのヒップホップ界隈ではもっとも注目度の高いリストとして知られ、ここに取り上げられた新人は後のブレイクが確実視される。
>>>2014年5月
チャンスが父親と共に「#SaveChicago」キャンペーンを立ち上げ。戦没将兵追悼記念の週末(5月最終週)の木曜夜から土曜までの42時間を銃撃なしで過ごすことを呼びかけるキャンペーンで、試みは成功を収めた。
>>>2014年11月
「#SaveChicago」キャンペーンでの功績を讃えられ、チャンスがシカゴ市長からOutstanding Youth of the Yearに選ばれる。今も現職であるシカゴ市長のラーム・エマニュエルは、2009~2010年にバラク・オバマ大統領の首席補佐官を務めていた人物。
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チャンス・ザ・ラッパーが先導する「新しい
シカゴ」は如何に生まれたのか?その変遷を
紐解くシカゴ年表③「2015年編」