あなたが現在の欧米の音楽に少しでも興味を持っているなら、このインタヴュー記事以上に必読の記事はないはずだ。もしかすると「10分でわかる、2010年代ポップ・ミュージック事情のすべて」なんて品のないタイトルをつけても良かったかもしれない。
この10年、欧米を中心としたポップ・ミュージックの世界は、すべてが様変わりした。特にストリーミング・サーヴィスの一般化と、それに伴う興業の地理的な拡大によって、かつて「洋楽」と呼ばれた世界は、その中心地だった北米、英国のみならず、北欧や南米、そして、(日本を除く)東アジアの多くに拡がることになった。文化としても、産業としても。
そうした受容の変化に伴って、この2017年、有史以来初めてラップとR&Bがロックやポップの売上げを上回ったというニュースが話題を集めたのを筆頭に、メインストリームで注目されるポップ・ミュージックそのものも大きく様変わりした。アーケイド・ファイアを筆頭に、ゼロ年代に多くの作家がメインストリームを侵攻、新たな黄金期を築き上げた北米インディ勢の受難は今も続いている。レディ・ガガ、ケイティ・ペリーの最新作が相次いで全盛期とは程遠い成功に止まったことに象徴されるように、2010年代を牽引してきた所謂フィメール・ポップ全体に暗雲が立ち込めるようになったのも今年2017年のことだ。
だが、そうしたドラスティックなポップ産業の変化に対し、ここ10年、この島国はポップ音楽、映画/ドラマを筆頭に完全に文化的鎖国状態にあり(そんな中、ファッションの世界だけは孤軍奮闘している)、そうした大きな時代のうねりからは完全に隔離された状態にある。
▼
▼
黒船Spotifyが日本の音楽文化を救う?
田中宗一郎インタビュー
つい先ごろも、ヒップホップを中心にアジアの文化をワールドワイドにプロモートするマネジメントでもあり、媒体でもある〈88ライジング〉がアジア・ツアー開催を発表。韓国、中国、シンガポール、マレーシア、フィリピン、タイ、インドネシアでの7カ国開催をよそに日本での開催は見送られたばかり。出演アクトとしてインドネシアのリッチ・シガ、中国のハイヤー・ブラザースと並び、大阪出身のシンガー、JOJIがその名前を連ねているにも関わらず(主催者はなんとか日本開催に漕ぎ着けたいと考えているようだが)。
いずれにせよ、ここ5年、日本のメジャー・レーベルがTVを中心にプロモーションを展開したレディ・ガガ以降のポップ・アクトを除けば、全世界的な潮流から日本は文化的にも産業的にも孤立化し、かつ、そうした奇っ怪な状況はこの島国全体にはほぼ伝わることがなくなった。そこに加え、まるで今も欧米のロックの世界はギャラガー兄弟中心に回っているのが現実であるかのように伝える〈NME JAPAN〉のようなオルタナティヴ・ファクト・メディアの存在もあり、日本の所謂「洋楽ファン」は完全にエコーチェンバー化した、閉じた文化磁場にむしろ安堵を感じているようにさえなっている。
そうしたこの島国の惨状はよそに、海外のポップ音楽は作品としても産業としても絶え間ないイノヴェーションを遂げてきた。以下の対話では、この10年の間におけるポップ音楽全体の変化がその当事者の立場から語られている。
語り部として一役買ってくれたのはダリウス・ヴァン・アルマン。米国のインディ・レーベル、〈ジャグジャグウォー〉の創設者であり、レーベル・オーナーだ。レーベルや小売店のみならず、作家までが既得権益と世界的に孤立化したマーケットにしがみつくことで必死に延命しようとする日本とは違い、海外のポップ音楽の裏方たちが新たなアイデアと努力を絶え間なく繰り出すことによって、常に先鋭的な作家たちをサポートし、世の中にインパクトを与え、文化を刷新させてようとしてきたことが手に取るようにわかるに違いない。
対話の内容は、この20年間における北米インディの変遷の歴史、所謂メインストリームのカルチャーとそれとの位相、文化における多様性の問題、レーベルと流通/ディストリビューションの関係と重要性、フィジカル全盛時代とNapster以降の時代における経済学の変化、〈ローリング・ストーン〉、〈NME〉、〈ピッチフォーク〉それぞれのメディア特性と文化的なインパクトの差異、2010年代における「インディ・ロック」の定義、欧米におけるポップ・リスナーのテイストの変化、チャンス・ザ・ラッパーという存在、ストリーミング・サーヴィスの普及によってもたらされた新たな経済学、しかるべきインディ・レーベルの目的と役割ーーと多岐にわたっている。
特に、所謂「インディ」という価値観が日本における「メジャー予備軍」的な意味合いとはまったく別の、オルタナティヴな思想であり、アイデアであり、努力であるということーー以下の対話における彼の言葉に、付け焼き刃の知識や気分ではなく、ごく当たり前の前提としてリベラリズムが染みついていることからも、それはヴィヴィッドに伝わってくるに違いない。
ダリウス・ヴァン・アルマンが主催する〈ジャグジャグウォー〉についても軽く説明を加えておこう。〈ジャグジャグウォー〉の拠点はインディアナ州ブルーミントン。96年、ダリアスがいまだカレッジ・ラジオに従事していた学生時代に始まった。現在の〈ジャグジャグウォー〉を代表する作家と言えば、まずはボン・イヴェール。同じく、エンジェル・オルセン、あるいは、今年のUSインディを語る上でも外すことの出来ない重要作『ハング』を上梓したフォクシジェンといった名前も忘れてはならない。
▼
▼
フォクシジェン『ハング』合評
そして、何よりも2017年の〈ジャグジャグウォー〉は、二枚の重要作を世に送り出した。一枚は、必ずや今年を代表する一枚に数えられるだろうモーゼス・サムニーのデビュー作『アロマンティシズム』。
▼
▼
「フランク・オーシャン以降」を象徴する、
音楽的地平をボーダレスに拡張しながら、
2017年のサウンドを鳴らす次世代アクト5選
もう1枚は、チャンス・ザ・ラッパーのブレイクに端を発して隆盛が始まったシカゴ新世代を代表するシンガーの一人、ジャミーラ・ウッズの『ヘヴン』。これは彼女がSoundcloudで2016年に自主リリースしていたミックステープの再発盤。〈サイン・マガジン〉の年間ベスト・アルバムでも27位に選出されていたのを覚えている人もいるかもしれない。この2組だけを取り上げても、〈ジャグジャグウォー〉の、レーベルとしての先鋭的な姿勢が伝わるに違いない。
▼
▼
2016年 年間ベスト・アルバム
21位~30位
言うまでもなく、ポップ・ミュージックとは歴史であり、大系であり、そうした文脈の集積だ。個々の作品、個々の作家も、全体(そんなものがあるとして)を見通すような広い視点から見る/聴くことによって、ようやくその輪郭が露になる。「アジア随一の洋楽天国」だった日本が今では見る影もないことなど、この際どうでもいい。ただ、海の向こうのポップ音楽を通して、「世界で何が起っているか?」を知り、それによって一気に視界が広がり、そうしたプロセスによって自分自身や自国の文化についても理解することが出来る――あの目が覚めるような体験。そもそも我々、日本人と呼ばれる者たちが海外のポップ音楽を聴く理由はそこにあったはずだ。
この記事が、今一度そんな体験を思い出す/再確認するための、ちょっとしたきっかけになることを願ってやまない。(田中宗一郎)
●モーゼス・サムニーのアルバムがあまりに素晴らしく、とても興奮しています。モーゼスとジャミーラ・ウッズがレーベルに加わったことは、現在のシーンに対する〈ジャグジャグウォー〉からの回答だと私は捉えています。
「うん。僕にとってはサウンドや音楽スタイルの多様性、いろんなソングライティングをレーベルとして持ち続けることがとても重要で。それぞれが補完しあうと思ってるんだ。世界中のいろんなソングライターたちによってね。だから、モーゼス・サムニーやジャミーラ・ウッズ、ブリアナ・マレラ、ゴーディ――そうした新しいアーティストたちと仕事ができるのはすごく嬉しくて」
●そこで今回のインタヴューの主旨としましては、レーベル・オーナーであるあなたの言葉をお借りしながら、モーゼス・サムニーというアーティストの魅力、そして同じくジャミーラ・ウッズの魅力を日本のリスナーに伝えたいというのが、まず一つ。
「うん」
●もう一つ考えているのが、あなたとともに〈ジャグジャグウォー〉の歴史と功績を振り返りながら、アメリカの音楽シーンにおける〈ジャグジャグウォー〉というインディ・レーベルの位置づけを、より明確にしたいということ。その中で、〈ジャグジャグウォー〉が創設からの約20年間、その時々で時代とどう関わり、音楽シーンの変化にどう応えていったのかを紐解いていければと思っています。
「オッケー」
●〈ジャグジャグウォー〉を設立した96年頃、あなたから見て当時の北米インディ・シーンはどのような状況で、あなた自身はどんなバンドに興奮し、未来を感じていましたか?
「96年当時、僕はまだ大学にいて……というか大学をドロップアウトしかけていて、自分が何をやりたいのかよくわからなかった。課外活動をいろいろしていてね。カレッジ・ラジオのディレクターで、いくつか番組も持ってたし、家賃や食費を払うために仕事もいくつか掛け持ちしてた。で、当時音楽をリリースしていたレーベルで僕が興奮していたのは、例えばシカゴの〈ドラッグ・シティ〉、北西部の〈Kレコーズ〉や〈キル・ロック・スターズ〉、〈マタドール〉、〈サブ・ポップ〉、他にも〈スリル・ジョッキー〉とか。すごい音楽を発信してるインディペンデント・レーベルがたくさんあったんだ」
●まさにそうした各地のローカル・レーベルのつながりがアメリカ全体に広がっていた時期ですね。
「UKの〈トゥー・ピュア〉っていうレーベルにも夢中だった。僕にはそういう全部がすごくエキサイティングだったね。彼らはローカルに投資して、そのレーベルやコミュニティに近いアーティストと仕事をし、素晴らしい音楽を出していた。一緒にやるエンジニアやプロデューサーもコミュニティの一員だったり、拠点が近かったり。当時は世界征服だとか、市場における存在なんて気にせず、地元でサポートを築きながら、ただ自分がいる場所でいい音楽を出すことにフォーカスすればよかったんだ。それにはすごく力づけられるものがあった」
●具体的には?
「つまり、彼らのやってることっていうのは、『メインストリームにどう当てはめるか』みたいなことじゃなかったんだ。全員にアピールしなくてもいいものを作り出すカルチャーだったからね。アーティストとして自分たちが作りたいものを作り、それが他のアーティストとのクリエイティヴな会話となって、共感する人々にアピールする。そこからは新しい方向性、新しい声、新しいアイデアが次々に出てきた。だからこそ、僕は常にあの時代にインスパイアされてるんだ」
●よくわかります。
「と同時に、当時の状況はいまとは違っていたと思う。インターネット配信がなく、全部フィジカルだったからね」
●実際のところ、フィジカル全盛の当時のアメリカはどんな感じだったんですか?
「地元のコミュニティや近くの町で何千枚かのレコードやCDを売ることができたし、バンドがツアーに出たら500~1000枚のCDが売れて、採算が立った。例えば22歳のミュージシャンだったら、毎回ツアーの収益が5000ドルから1万ドルくらいで、それをツアーに出た4人で分け、さらに500枚CDが売れた収益をレーベルと折半して。それを続ければサステイナブルな状況があったんだよ。だからこそエキサイティングな時代だった」
●なるほど。
「今は経済状況がちょっと違うけど、やっぱりレーベルとしては自分たちにカルチャーとして近いものを打ち出すと同時に、つねに新しい領域、新しいアイデア、新しい繋がり、新しいカルチャーやコンセプトをプッシュし続けたい、そうしなきゃいけない。一つの伝統に留まるんじゃなく、新しいソングライティング、声を見つけていかなきゃいけないんだ。そして最高にグレイトなアイデアを持ってる、まだ始めたばかりのアーティストをサポートすることも大事だね」
●99年以降、〈ジャグジャグウォー〉は〈シークレットリー・カナディアン〉との協力体制を組み、その後も〈デッド・オーシャンズ〉や〈ザ・ヌメロ・グループ〉を加えた〈シークレットリー・グループ〉として現在に至っています。オフィスやスタッフを共有していながらも、レーベル同士が合併するのではなく、あくまでも別個のインディ・レーベルとしてコレクティヴを形成することには、どんな利点があるのでしょうか。
「当時の状況を説明すると……〈ジャグジャグウォー〉を始めたときは僕一人でやっていて、流通させるのがすごく難しかったんだ。で、やっとディストリビューションを見つけても注目してもらうのが難しかったし、たとえ何かのCDに注目してもらえたとしても、それをリリースし、いろんな店に置いてもらうまでに自分で全部やった仕事をペイするのが難しかった」
●なるほど。
「一人でやってると発言力も影響力もなくて、同じ頃に始めた他のレーベルも同じ問題を抱えてて。ジェレミー・ディヴァインがボルティモアで始めた〈テンポラリー・レジデンス・リミテッド〉や、北西部の〈メイド・イン・メキシコ〉、それに〈シークレットリー・カナディアン〉。もう一つがテキサスの〈ウェストン・ヴァイナル〉だね。で、〈シークレットリー・カナディアン〉がそうしたレーベルと連携するためにディストリビューションの会社を設立することにしたんだよ。その5つが『よし!』って感じで集まったんだ。そうすれば、僕らと取引しないようなディストリビューター、レコード店にも、一つにまとまれば出荷できるだろう、って」
●なるほど。
「だから、あれは、結集して主導権を持ち、より強くなって支え合おう――ってことだったんだよ。もし5つのレーベルのうちのどれかがディストリビューターと揉めても、協力して解決したり、金を肩代わりしたりして、つねに流通が途切れないようにしたり。だから、〈ジャグジャグウォー〉がインディアナ州ブルーミングトンに移り、〈シークレット・カナディアン〉のクリス・スワンソンをパートナーにしたのも同じ理由なんだ。すでにいろんなリソースを共有していたから、別々にやるんじゃなくて拠点を一つにすれば、経費を削減し、より力をつけられると思った。とはいえ、それぞれのレーベルのアイデンティティはキープして、機能は別々のままでね」
●実際、〈ジャグジャグウォー〉は前述のような90年代のインディ・レーベルから何かしらの影響を受けているのでしょうか?
「一つ、大きなインスピレーションになったレーベルがあるんだ。シカゴの〈タッチ・アンド・ゴー〉だね。経緯がよく似てるんだよ。〈タッチ・アンド・ゴー〉はディストリビューション会社を設立し、他のレーベルの流通も手がけるようになった。〈スリル・ジョッキー〉や〈ドラッグ・シティ〉、〈マージ〉みたいな素晴らしいレーベルの流通をね。サブ・レーベルの〈クォータースティック〉もそう。つまり、僕らととてもよく似たモデルを持ってたんだ。もちろん違う点もあるんだけど、それぞれのコミュニティのレーベルを一つに集めよう、っていうところがよく似てた」
●では、全体の規模からすると、もはやメジャー三社とも居並ぶ〈ベガーズ・バンケット〉のようなインディ・コングロマリットや、〈PIAS〉のようなインディ・コレクティヴ・ネットワークの存在に対しては、どのように評価していますか? あなたたちとの共通点と差異を教えてください。
「今の僕たちは、会社として二つの部分に分かれている。まずは〈シークレットリー・ディストリビューション〉。これは〈ジャグジャグウォー〉や〈シークレットリー・カナディアン〉のような所属レーベルだけでなく、他の50レーベルの流通もやっている。だから〈シークレットリー・ディストリビューション〉はさっき言ったように〈タッチ・アンド・ゴー〉をモデルにした、ディストリビューションのコレクティヴなんだ。実際、いまは〈タッチ・アンド・ゴー〉の流通を〈シークレットリー・ディストリビューション〉でやってる」
●そうなんですね。
「そして、もう一つが、〈シークレットリー・グループ〉というアイデアなんだよ。〈シークレットリー・グループ〉は〈ジャグジャグウォー〉と〈シークレットリー・カナディアン〉、〈デッド・オーシャン〉、〈ザ・ヌメロ・グループ〉というレーベルの集まりで、ある意味、僕としては〈ベガーズ・グループ〉のようなものに近い気がする。レーベルが集まり、プロダクション部門やライセンス部門、法律関係のチーム、プロダクション・マネジメントのようなリソースを共有しつつ、それぞれに別の雇用者もいる、というね」
●なるほど。
「たとえば、〈ジャグジャグウォー〉にはエリック・ダインズというコミュニケーションとA&R部門のヘッドがいる。彼は〈ジャグジャグウォー〉のために働いていて。つまり、〈ジャグジャグウォー〉もその一つである、〈シークレットリー・グループ〉のレーベルはビジネス哲学や、アーティストとどう仕事をし、彼らをどう扱うかという倫理観を共有している。契約の仕方も同じだし。と同時に、それぞれのレーベルにそれぞれの文化的フォーカス、A&R的アイデンティティがあるべきだとも思ってるんだ。つまり〈シークレットリー・グループ〉は〈シークレットリー・ディストリビューション〉で流通されているけれど、コンセプトとしてはまた別物なんだよ」
●〈ジャグジャグウォー〉の初期は、ファイル共有サービスによる音源流出が問題となっていた時期にもちょうど重なりますよね?
「Napsterとかで音楽がシェアされるようになった頃だよね?」
●そうです。インディ・アーティストの音源作品を取り扱うレーベルとしては、当時の状況をどのように受け止めていましたか。
「もちろん、他の人たちと同様、心配してた。当時の大学生とかからすると、『音楽の価値が下がっていくんじゃないか?』ってね。それでも同世代の人々がレコードを買って、レーベルを支えるんだろうか、自分たちはまだレコードを作り、流通させていくことができるんだろうか?』――って、心配になった」
●なるほど。
「だから、iTunesが始まった時はすごく嬉しかったんだ。でも同時に、人が音楽をダウンロードして共有するようになってからは、複製しにくくなるセキュリティを気にかけなきゃいけなくなった。もちろん、それまでにもレコードをテープに録音して、みたいなことは起きてたんだけど。だから、いろいろ懸念はあった。でも、今、思うと、僕らはまだ成長期にあったんだよね」
●というのは?
「つまり、一方では、もう音楽があまり売れなくなって、収益も減って、それまでみたいにはいかなくなるんじゃないかって心配してたけど、もう一方では成長しつづけてたんだ。だって、インターネットによって音楽がすぐに世界のどこでも聴けるようになり、僕らがやっていたことがあらゆる場所に拡散されるようになったんだから。そのプラスマイナスを考えると、僕らは若いインディペンデントな会社として、あの時代に恩恵を受けたと思う」
●実際、2000年代中盤あたりになると、北米インディ・シーンがまた活気づいてきましたよね。それはあなた方が輩出したブラック・マウンテンやオッカヴィル・リヴァーといったバンドによって印象づけられたところも大きいのですが、あなた自身は当時の状況をどのように見ていたのでしょうか?
「君が言うように、ブラック・マウンテンやオッカヴィル・リヴァーの成功が初期の僕らにとっては世界でレコードを売り、名前を広めるきっかけになった。でもそれと同様に、〈シークレット・カナディアン〉はアントニー・アンド・ザ・ジョンソンズで国際的に大成功しただろう? 『アイ・アム・ア・バード・ナウ』がマーキュリー賞を受賞して」
「だから、僕らにとってはすごくエキサイティングな時期だったんだ。インターネットによって、自分たちのブランドやアーティストが世界中に知られ、一気に市場に浸透した時期だったから」
●そのオッカヴィル・リヴァーなどにも当てはまることですが、レーベル設立から00年代を通してフォーク・ミュージックを再定義してきたことは、〈ジャグジャグウォー〉の大きな功績だと感じています。実際のところ、「フォーク・ミュージックの再定義」はあなたがレーベルとして目指していたところでもあったのでしょうか。
「ふむ。僕らとしては、アメリカーナ的な音楽にフォーカスしたことは一度もないんだ。ブラック・マウンテンはいわゆるサイケデリック・ロック的なものでもあったし。オッカヴィル・リヴァーもロック・バンドで、確かに君が言う通り、フォーク的、アメリカーナ的傾向はあったけど、〈ジャグジャグウォー〉にはオネイダっていうバンドもいて、ノイジーで前衛的なロックをやってた」
「彼らはロックと前衛ジャズ、実験的なエレクトロニック・ミュージックの間にあるような音楽で。つまり、当時でも僕らは、昔ながらのフォーク的なシンガー・ソングライターだけ抱えてたわけじゃないんだよね」
●なるほど。
「サウンドにおいてもアプローチにおいても、多様性を持ちたかったし。僕は以前エリックス・トリップっていう〈サブ・ポップ〉のバンドが好きだったんだけど、彼らはフォークっぽいだけじゃなく、ちょっとグランジっぽいところがあった。だから、アメリカーナ的な音楽にフォーカスするっていうのは特に僕らのアプローチというわけじゃなかったんだ」
●ただ、あなたたちが2002年以降に契約した日本のバンド「渚にて」の作品もまた「フォーク・ミュージックの再定義」という文脈に当てはまると思うのですが、彼らと契約した最大のポイントを教えてください。
「僕とパートナーのクリス・スワンソンは、彼らの音楽を聴いてすぐ恋に落ちたんだ(笑)。でも、USではまだ知られていない気がしたし、インパクトを残せてなかった。それでシンジ(柴山伸二)に連絡を取って、『日本の外でリリースするのに興味はある?』って訊いたんだよ。それで出した最初のレコード、『こんな感じ(Feel)』に僕らは興奮したし、すごく誇りに思ってる」
●では、メディアの存在についても話を聞かせて下さい。例えば、00年代のUSインディの活況をいま振り返ると、やはり〈ピッチフォーク〉の存在は大きかったと思います。
「うん」
●〈ジャグジャグウォー〉と〈ピッチフォーク〉との関係性はどのように始まり、現在にいたるまでどのように変化しましたか? そして、あなた自身は彼らの功績をどのように評価しているのでしょう。
「僕が大学生だった頃、90年代の音楽ジャーナリズムっていうのは……うん、〈ピッチフォーク〉が出てくる前は、みんなインターネットに音楽のニュースを求めてなかったんだよね」
●ええ。
「でも、UKには〈メロディメイカー〉と〈NME〉っていう、素晴らしいタブロイド紙があった。で、あの二つには独自にバンドを激推しして、別のバンドをひどくこき下ろす、っていう伝統があって。その正直さは、みんなが〈ローリング・ストーン〉のレヴューを参考にするような、アメリカの音楽ジャーナリズムのあり方とは全然違ってた」
●確かに。
「しかも〈ローリング・ストーン〉のレヴューはどれも星三つか四つ、五つでさ。つまり、常にアメリカの音楽批評はそのバンド、レコードの良さを強調してたんだよ。『こんなのゴミだ』とか、『このレコードはひどい』とか、叩くことがなくて。それもあって、USではリスナーの間に、音楽ジャーナリズムに対するシニカルな見方があった。『パブリシストにコネがあるから書いてるんだろう?』とか、それでなくても音楽の評価やコメントの仕方に対してね」
●わかります。
「それに比べると〈メロディメイカー〉と〈NME〉はもっとストリート的で、ライターたちもいいか悪いか、立場をはっきりさせるのを怖がらなかった。つまり、その批評に信頼が持てる気がしたんだ。でも〈ピッチフォーク〉が出てきて、最初にアメリカでインパクトを与えた頃っていうのは、音楽批評としてすごく新鮮な変化に感じられた。『このウェブ・サイトは信頼できる』って。派手に宣伝されてるレコードだったら、そのままそう書くし、逆にまったく無名のレコードを持ち上げることもあった。すべてが対象になったんだよ。で、〈ピッチフォーク〉ではそのレコードがどこから出てきたかは関係ない、っていう評判が確立された。レーベルがどれだけビッグか、パブリシストがついてるかどうか、ライターが付き合いがあるかどうか、そんなことはどうでもよくて。しかも、〈ピッチフォーク〉は当時のインターネットの状況ともシンクロしてた」
●ええ。
「つまり、ある意味、UKで〈メロディメイカー〉と〈NME〉がやっていたことを〈ピッチフォーク〉は国際化したんだよ。それが僕らのレーベルにはものすごくポジティヴなインパクトを与えたし、僕らの音楽をどんどん外に出していくことになった。で、小さなレーベルである僕らとしては、そういうハンデのない公平な場が欲しかったんだよね。音楽が誰にでも聴いてもらえるチャンスがあるような。だから、『すごい!』って感じだったし、もっとそういう場が必要だとも思った」
●ただ、その〈ピッチフォーク〉もここ数年は少し影響力が落ちてきたように感じます。あるいは、時代の変化に応じてオンライン・メディアに求められるものも変わりつつあると思うのですが。
「その観察は正しいだろうね。〈ピッチフォーク〉は以前のような影響力は持ってないし、それにはいくつか理由があると思う」
●具体的には?
「一つにはストリーミング・モデルが出てきて、人が音楽を見つける方法も変わった。毎週のプレイリストに何が入ってるか、ストリーミングのシステムの前面に何があるかーーそれが基本になってて、みんなそのシステム内で音楽について知るんだよ」
●今は完全にそうですよね。
「〈ジャグジャグウォー〉でも、例えば〈ガーディアン〉や〈NYタイムズ〉のレヴューで大絶賛されるようなリリースがあったとする。そのアーティストやバンドがツアーすると、地元紙では常に記事になる。でも、よく考えると、そうした露出にはもう以前ほどのインパクトがないんだ。2005年に〈NYタイムズ〉のレヴューで絶讃されれば、そのレコードはよく売れた。でも、今はみんなあらゆるところから四六時中情報が入ってくるし、音楽を発見する方法も変わってきてるしで、前ほどインパクトがないんだよ」
●確かに。
「僕らに関して言えば、〈ジャグジャグウォー〉の初期のリリースのいくつかを打ち出してくれたのが〈ピッチフォーク〉だった。ごく小さなレーベルだったから、〈ピッチフォーク〉で取り上げられれば売り上げがすぐ倍になった。でも、それは元々の売り上げ自体が低かったから、達成しやすかったっていうか。会社が大きくなるにつれ、そんなに大きなインパクトじゃなくなるのは当然だしね」
▼
▼
〈ジャグジャグウォー〉のレーベル主宰者が
語る、島国ニッポンの孤立を尻目に激変する
2010年代のポップ音楽事情のすべて:後編