ロット・バルト・バロンは、安易なレッテル付けを許さない圧倒的にオリジナルな存在。という大前提は、こちらの記事で書きました。では、結局のところ、ロット・バルト・バロンとは何なのか?――そのような問いに対しては、我々も安直な「答え」を押し付けたくない。むしろリスナー1人ひとりが自分なりの答えを見つけて欲しい、と考えています。
そこで〈サイン・マガジン〉では、田中宗一郎が作ったロット・バルト・バロンに関する10の質問に、ライターの岡村詩野氏が応える、という記事を用意しました。バンドの特徴を微分し、それを2人の視点から解きほぐしたQ&Aは、「ロット・バルト・バロンとは何なのか?」を考える上でひとつのヒントになるはずです。
では、早速行ってみましょう。この記事を楽しみながら、あなたなりの「答え」を探してみて下さい。(小林祥晴)
1) ロット・バルト・バロンの音楽性を考える時に、ここ10年のUSインディにおけるフォーク・ミュージックの復権からの反響を外すことは出来ません。ただ実際に、彼らの音楽からあなたが聴き取る、戦前から2010年代にかけてのフォーク作家、フォーク作品にはどんなものがありますか? 具体的に挙げて、その共通項について教えて下さい。
フォーク・ミュージックというと、地味で渋い、泥臭くて田舎っぽい、というイメージの言葉を抱きがちですが、ボブ・ディランやジョニー・キャッシュが見直されてきた主に90年代以降は、音響、音色、あるいはアトモスフェリックな音の気配などに注目させることでフォークに新しい感覚を与えて上書きするようなアーティストも見られるようになりました。ロット・バルト・バロンはそうした傾向にシンクロするバンドの一つと認識しているのですが、そういう点では、ジム・オルークと組んでオルタナ・カントリー・スタイルをサウンド・プロダクション面から洗練させた00年代以降のウィルコ、管楽器やコーラスをふんだんに生かした室内楽的バンドのニュートラル・ミルク・ホテル、そしてフォーキーという曖昧な言葉を壮大な音の波で描くことで解放させたボン・イヴェールあたりの、それぞれの特徴とクロスするところが大きいと思います。
見過ごされがちのフォーク・ミュージックの叙情性を引き出した、という点では、そのウィルコら90年代以降の新感覚派フォーク系バンドのルーツにあたるだろう、ティム・バックリィ、ピーター・アイヴァース、キース・クリスマスなどの持つウェットなセンチメントの影響も受けています。その叙情性をさらに遡ればレッドベリーやベッシー・スミスなどに辿りつくのですが、実際にそうした黎明期のフォーク、ブルーズの哀感をロット・バルト・バロンは根っこに持っているのではないでしょうか。
2) ただ、ロット・バルト・バロンの音楽性は、古今東西のフォーク音楽の影響からも明らかにはみ出ています。フォーク音楽以外で、あなたが感じる彼らの音楽性の幾つかの特徴を出来るだけ具体的に教えて下さい。
エレキ・ギターのロング・トーンとエフェクトによってリズムや旋律によるわかりやすい区切りをなるべく感じさせないようにする、という点でドローンの影響。通常背景となるような心地良い鍵盤のトーンを音の隙間から効果的に覗かせる、という点でアンビエントの影響。グロッケン、タムなどを無邪気な鼓笛隊のように扱う、という点でトイ・ポップの影響。比較的オーソドックスなアレンジに従ってストリングスを挿入している、という点でオーケストラ・ポップ、ソフト・ロックの影響。スタジオの中で繰り返しダビングをしたり音を重ねる実験にいそしめる、という点でフィル・スペクター的ウォール・オブ・サウンドの影響。マレットやブラシを端正に用いつつも情熱的でプリミティヴな響きを指向する中原のドラム・スタイル、という点でアフロ・ミュージックの影響。
3) ロット・バルト・バロンの音楽を考える時、ヴォーカリストである三船雅也のヴォーカリゼーション――ハイトーン・ヴォイス、ファルセット、つぶやくような歌い方から雄々しく張り上げた声へのダイナミックな変化――は外すことは出来ません。彼と比類するような発声、譜割、声質を持ったアーティストは誰か? と問われたら、あなたは何と答えますか? そのヴォーカリストとその代表曲、及び、その共通点について教えて下さい。
一番しっくり感じるのは、無伴奏、単旋律のグレゴリオ聖歌、もしくは歌詞がより形式的な讃美歌。特にロット・バルト・バロンがライヴの最後に完全なアンプラグドで披露する“アルミニウム”を聴くたびに、三船雅也の声が教会音楽の持つ清潔さ、気高さ、安らぎ、したたかさをまとっていることに気づかされます。彼のファルセットがいわゆるポピュラー音楽における他アーティストのそれとは表面的に似てはいても、根本的に異なると感じることが多いのも、グレゴリオ聖歌さながらの旋律の跳躍を技術的にもしっかりと生かした歌い方をしているからかもしれません。
4) 三船雅也のヴォーカリゼーションと彼らの特徴的なサウンドを接続させる必然とは何だとあなたは考えますか? あるいは、その2つの合体が彼らの音楽性にどんなカラーや感触を与えているのか? あるいは、リスナーにどんな感情を想起させる機能を果たしていると思いますか?
音楽そのものが持つ本質的なヒューマニズムへの回帰。そもそもなぜ人間は歌を歌い始めたのか、なぜ人間は空気の振動である音を作品化しようとしたのか、そして、なぜそこに意味を与えようとしたのか……それらの根源的な疑問を自分たちや聴き手に投げかけ、その答えを作品とステージによって体現しているように感じます。
5) ロット・バルト・バロンは基本的にはギター・ヴォーカルの三船雅也、ドラムスの中原鉄也の2人編成です。しかし、レコードでもライヴでもサポート・メンバーを加えることで、多種多様な鍵盤や管楽器によって、非常にカラフルなものになっている。あるいは、ライヴでは大方のメンバーが大半の曲でグロッケンシュピールを使用したり、ドラム・キットの使い方も通常のポップスとは違っていたりする。その結果、楽器編成、個々の音色、アンサンブルも含め、彼らの音楽は、19世紀的な古色蒼然さと、過去と未来がまじりあったような不思議な近未来性を感じさせるものになっています。彼らがこうした時代やエリアを限定しないサウンドと世界観を志向する理由は何だと思いますか? あるいは、そうした彼らの音楽から、あなたはどんな可能性を感じますか?
ある種の折衷主義というよりも、古典と現代、あるいは未来、こことあそこ、あるいはどこか、などを無意識で繋いでしまうシームレスな感覚を自然に兼ね備えているのではないかと思います。そして、そんな無垢な想像力の源泉にあるもの……フィリップ・K・ディック、アーサー・C・クラーク、レイ・ブラッドベリ、藤子・F・不二雄らが描いてきた、小学生をもワクワクさせるようなわかりやすくも不気味なクラシック・モダンの世界は、錯覚などではなく、想像力次第でいかようにも現実化する、という可能性を伝えているのではないかと感じます。
「サザン、セカオワの次の国民的バンドって、
実はROTH BART BARONなんじゃ?
孤高の小さな巨人を紐解く10の特徴:後編」
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