「カナダから帰国して最初のミニ・アルバムを作っていた頃から、例えば、キース・リチャーズなんて実はブルーズだけじゃなくてカントリー・スタイルのギターをとりいれているってことを改めて認識して、なんだ、ブルーズもカントリーもつながってるじゃんってことに気づいた。実際、その頃好きになったブルックリンのバンド、ダーティ・プロジェクターズとかは、いわゆるロックじゃない、ブラック・ミュージックもフォークやカントリーもとりいれていた。その感覚が自分を開かせてくれたのかもしれないですね」
ローリング・ストーンズのとりわけキース・リチャーズが、『ロデオの恋人』(1968年)を通じてバーズにカントリー・ロックのフレイバーをもたらした後、フライング・ブリトー・ブラザーズを経てソロに転じたグラム・パーソンズと交流を持っていた、というのは有名な話。これもストーンズとグラム・パーソンズの交流から生まれた一曲。
井上はさながらその当時のグラムと邂逅して目覚めたキース・リチャーズのように、内面ではアメリカン・ルーツ・ミュージックと自身との関係性に意識的になっていく。バンドとしては「海外産インディ・ギター・ロック」との共振を見せていた頃だったが、次第に井上が作る曲はルーツ・ミュージックへのアプローチを前提としたようなものが増えていったという。もしかすると、その頃、バンドとして進むべき方向に葛藤、迷いが少なからず生じていたのかもしれない。その証拠に、人気が徐々に高まる中、〈SECOND ROYAL〉から2012年にリリースされた1stアルバム『Yellow Yesterday』の制作には、実に約1年を費やしている。
「洋楽が好きなギター・バンドって、一口に言っても、僕らがやろうとしていることはルーツとつながっていくことなのかなってことにも気づくようになった。それが曲とかにも現れていくようになったと思いますね。と同時にバンドとしての一体感、まとまり、共有意識もその頃から高まった。結局、『Yellow Yesterday』を出した時には、メンバーが抜けたりもしてリセットしていました。でも、そこからは殆ど迷うことなくライヴをどんどんやるようになっていったし、新たなつながりも出来ていったんです」
アンチ・ドメスティックなギター・バンドとして出発した僕たちも、根っこを掘り下げていくときっとカントリーやフォークにたどり着くはず。それを今の日本で、京都で、アップデートすることだってできるはず……。その頃の井上の本音はそんな感じだったのかもしれない。その結果、歌詞こそまだ英語ではあったものの、『Yellow Yesterday』以降の彼らは、「日本のウィルコ」、あるいは「京都発オルタナ・カントリー・ロック・バンド」といった横顔を大いに発揮していく。
結果、地元の大先輩、くるりと共同開催でイヴェント〈WHOLE LOVE KYOTO〉を京都で企画したり、東京の新世代インディ・バンドとして台頭してきていたシャムキャッツと交流を結び、スプリット12インチ・シングルをリリースしたり(どちらも2013年)、さらにはASIAN KUNG-FU GENERATION主催の〈NANO MUGEN CIRCUIT〉への出演(2013年)をきっかけに後藤正文のソロ・プロジェクトに井上が借り出されたり……と活動範囲は一気に拡張。
スライド・ギターや鍵盤などのサポート・メンバーを加えた6人体制でライヴをすることが定着した彼らの演奏からは、いなたい風合いの曲調とは裏腹のスピード感と瞬発力も伝わってくるようになった。そして、ライヴで披露される新曲はいつしか日本語へ――。
「日本語で歌ったら? って言ってくれたのは岸田(繁)さんですけど、僕自身、日本語で歌詞を書くことにトライしたい気持ちはずっとあって。でも、僕は日本のバンドとか日本の音楽をほとんど聴いてこなかった。今でも詩人としてはボブ・ディランが好きだったりするんですけど、メッセージとか主張が極端にあるわけでもないから、伝えたいなと思う感覚を日本語で歌うことにはそれほど抵抗はなかったんです。むしろ、日本語で書くことによって風景を描くという僕の手法の特徴がわかりやすくなったかなと思いますね」
「東京インディ・エクスプロージョン以前に
京都にタンテがいたからこそ今がある。
Turntable Films キャリア総括取材:後編」
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