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THE SLOW RUSH Tame Impala (Caroline) by KENTA TERUNUMA
TSUYOSHI KIZU
March 06, 2020
THE SLOW RUSH

ジャンルが溶け切ったスープ、諦めと少しの希望を添えて

テン年代のバンド・サウンド像を示した2015年作『カレンツ』の成功、コーチェラ・フェスへのヘッドライン出演、トラヴィス・スコットやカニエ ・ウェストとの共作により、トップ・アーティスト/プロデューサーの一人となったテーム・インパラ=ケヴィン・パーカー。その新作に対するプレッシャーは相当なものだったのだろう。本作『ザ・スロウ・ラッシュ』は、表面的にはドリーム・ポップ的な快楽主義的な作品だが、そのディテールには神経質な側面が、そしてその奥底には深く重い諦念が見え隠れしている。

収録曲のほとんどは、ケヴィン自ら演奏したベースやドラム、シンセをサンプリング・ソースとして部品化し、ループ主体のアンサンブルとして精緻に組み立てたコントロール・フリークなポップ・ソングである(“ゲスト・ヴォーカルなしのカルヴィン・ハリス『ファンク・ウェーブ・バウンシズ Vol.1』”とでも言えばわかりやすいかもしれない)。そして、そんなケヴィンの完璧主義あるいは強迫観念的なプロデュース・ワークは、サウンド・プロダクションにも伺える。SP-1200やMPC3000といったヒップホップを彩った伝説の機材を連想させるファットな音像はストレートに“ヒップホップ的”でありながら、砂原良徳『LOVE BEAT』やジャスティスらフレンチ・エレクトロ新世代の登場を準備したダフト・パンク『ヒューマン・アフター・オール』を思わせる緊張感を纏っている(事実、ケヴィンはシカゴ・ハウス、デトロイト・テクノ、フレンチ・エレクトロからの影響を認めている)。

『カレンツ』の延長にあるソングライティングとプロダクションでの手法をさらに突き詰めながら、より広い音楽的リファレンスを採用した本作は、まさに“ポスト・ジャンル”の時代らしい方向に歩みを進めたレコードと言えるだろう。だが、ここで興味深いのは、前作でもその要素が窺えたヨット・ロック/AORの印象が強まったことだ。サイケロック、ポップ、ヒップホップ、フレンチ・エレクトロ、デトロイト・テクノ、シカゴ・ハウス。それらの要素を稀代のプロデューサーが咀嚼して出したサウンドが、ヨット・ロック/AOR? 考えてみれば、カルヴィン・ハリス『ファンク・ウェーブ・バウンシズ Vol.1』もAOR的な側面を持つ作品だったではないか。

つまり「ポスト・ジャンルが進めば、逆に均質化に向かう」という懸念は、真実なのかもしれない。実際、退屈と新鮮、両者ギリギリのところでバランスを保っていた『カレンツ』と比較して、本作は退屈側に転んでしまった印象も否めず、一部の海外メディアでは実際にそこが指摘されている。

ただ、そんな本作に強烈な匂いを加えているのが、カニエ ・ウェストからの影響を感じさせる1曲に複数の楽曲を内包させるというアイディア、そして何よりもリリックだ。ここにあるのは「何か取り返しのつかないことをしてしまったのではないか」という、漠然とした不安。そして、気づかないフリをしている、心の奥底に潜めた後悔。まるでこの世の諸行無常すべてを真正面から受け止めて疲弊しきったかのように、とにかくビターだ。“インスタント・デスティニー”では、自身の結婚を歌いながらもどこか諦念に似た感情が滲み、2018年に火事で焼失したマイアミの自宅スタジオを連想させる描写も苦しい。死去した父への愛憎と赦しを吐露する“ポスチュマス・フォーギヴネス”やノスタルジーを描いた“ロスト・イン・イエスタデイ”では、時間の優しさと同時に残酷さが描かれる。ストリーミング時代らしい流し聴きをすれば、シンプルにチルできる気持ちいいアルバム、あるいは退屈なネオAORかもしれない。しかし、一度ディテールに目や耳を向ければ、このように様相は一変してしまうのだ。

「まだ、どうにか保てている。なんとか踏み外さずに済んでいる。しかしその時はいつかやって来る」というギリギリの感覚と、やがてすべて台無しにされてしまうだろうという予感。そして「まだ間に合うはず。今なら、まだ…」という微かな希望。ザ・スロウ・ラッシュ。そのタイトル通り、快楽主義的なサウンドに身を委ねていると、じわじわと焦燥感に急き立てられてしまう。もうお分かりだろう。本作は気候変動そのものを表現したレコードだ。

文:照沼健太

昨日の記憶を彷徨いながら、踊ること――
「明日」へ向かう意思としてのサイケデリアとダンス・グルーヴ

サイケデリアとは記憶の海のなかで彷徨うこと。2019年を代表するサイケデリック・ポップの名曲、“ザ・グレイテスト”でラナ・デル・レイは、かつてのニューヨーク・シーンの輝きとデヴィッド・ボウイ、西海岸の至宝としてのビーチ・ボーイズ、そしてカニエ・ウェストを「去ってしまった偉大なものたち」として並べてみせた。優れた過去の遺産はもはや膨大な「コンテンツ」としてわたしたちの前に転がっている、が、いつしかその文脈や歴史は忘れられて等価になり、ただフラットなものとしてクラウドに漂っている。だから、自分の趣味の良さを披露するためだけなら、AIの助けを借りつつ「コンテンツ」を気のきいた順列組み合わせでピックアップすればいい。ラナ・デル・レイは、しかし、そうしなかった。かつて、この世界を変えようとした者たちの音、その記憶こそを、「(気候変動によって)燃えているLA」ために召喚する。そうだ、“ライフ・オン・マーズ”はただの歌ではなかったのだから。

2018年、僕が個人的にもっとも聴いたアルバムは西海岸の愛の夏に想いを馳せるようなサイケデリック・フォーク、エイメン・デューンズの『フリーダム』だった。あるいは、ザ・ナショナルが編纂したグレイトフル・デッドのコンピレーション・アルバム(2016年)、アンノウン・モータル・オーケストラのいくつかのアルバム……それらのサイケデリック・ロック(・リヴァイヴァル)は、音の参照以上に、生き方としての「サイケデリック」を再考するようだった。誰かに決められた道を大きく逸脱して、より良い明日を夢見ることはいまも可能なのか。それこそラナ・デル・レイの“コーチェラーーウッドストック・イン・マイ・マインド”だって、たんなるデカダンスではなく、1969年に起きたことを現在のために真剣に思い出そうとしていたのではないか。

その点、60年代のサイケデリック・ロックのモダナイズからスタートし、次第に「ロック」から離れていったテーム・インパラは「生き方としてのサイケデリック」と言うよりは、ミュージシャンとしての純粋な探求心から過去の引用に取り組んでいるように僕には見えた。とりわけ世界中で絶賛された『カレンツ』は、2000年代末のチルウェイヴの成果も踏まえつつ10年代のR&Bのトレンドと同調してみせたアルバムで、その手際のあまりの見事さからどこか距離を感じてしまったのも事実だ。あらゆる表現に切実さを求めてしまうのは僕の悪い傾向であると自分でもわかっている、が、ケヴィン・パーカーのサイケデリアへの欲望の生々しさをもっと体感したくなってしまったのだ。

約5年ぶりのアルバムとなる『ザ・スロウ・ラッシュ』は、基本的に『カレンツ』のポップ路線を推し進め、オーガニックなダンス・グルーヴをさらに追求したアルバムであるようだ。よく比較されてきたザ・フレーミング・リップスのような脳内サイケではなく、はるかに肉体的だ。前作からの間に取り組んできた、メインストリーム・アクトたちとの数々のコラボレーションの成果が確実に表れているのだろう。

多くのジャンルを一曲のなかに同居させつつ柔らかなテクスチャーでまとめ上げていく手腕は前作と同様だが、そのなかでもとくに、“ワン・モア・イヤー”におけるバレアリック・ハウスのフィーリング、“イズ・イット・トゥルー”の初期ハウスを思わせるベースラインなど、随所でセカンド・サマー・オブ・ラヴを思わせるテイストが前面に出ているのが耳を引く。“ブリーズ・ディーパー”のハウシーなピアノ・リフやスペーシーなシンセ・フレーズ。ビートレスで始まる“オン・トラック”にだって、チルなヴァイブとゆるくて穏やかなグルーヴがある。全編を覆うソウルのフレイヴァーも、あの時期(80年代末)におけるブラック・ミュージック解釈を通しているように聞こえてくる。けれども60年代サイケを思わせるドリーミーな味わいが損なわれているわけでもなくて……ここで、こんな風なことを夢想してみる。ケヴィン・パーカーは2010年代型ジャンル・ミックスを踏まえた上で、音楽史に残るふたつの偉大な「愛の夏」を接続し、トロトロになるまで溶かそうとしたのではないか? 思えばセカンド・サマー・オブ・ラヴもまた、膨大な過去の記憶を参照しながら、「いま」立ち上がるグルーヴに身を任せることだった(と聞く)。であるとすれば、そこにも間に合わなかったわたしたちは、あるいはパーカーは、その記憶をさらに参照して新たにグルーヴを生み出すしかないのではないか。ここに彼のたしかな意思を見出したくなる。

「昨日のなかで迷う」と題された“ロスト・イン・イエスタデイ”は、膨大な過去を前に途方に暮れるしかない現代のわたしたちの感覚を示した曲であるように僕には思える。「昨日のことで心を惑わされて それでうまくいくだろうか?」。だが、だからこそパーカーはこの曲を強力なベースラインと跳ねる裏拍、つんのめるようにシンコペートするメロディを持ったダンス・チューンにする。だから、わたしたちはそのグルーヴに身体を預けていっしょに歌う――「なりゆきに身を任せるしかない」。レット・イット・ハプン。そうこれは、過去に充足するばかりのノスタルジーではない。

パーカーが『ザ・スロウ・ラッシュ』で引っ張り出しているのは、膨大な過去を頼りにどうにか「明日」を見出そうとした人びとの記憶である。そこにはダンス・グルーヴがあり、ミュージック・ラヴァーズが集うパーティがあった。僕は、「愛の夏」がいまインターネット上にあるとはどうしても思えない。そうではなくて、それでも自らのクリエイティヴィティを信じて「明日」に歩を進めようとする人びとの意思のなかに――それは、“トゥモローズ・ダスト”で言うようにやがては塵になる運命なのかもしれない。それでもやるしかない……いや、もっと気を楽にしてみよう。まずはそこから立ち上がるリズムに合わせてただ踊りはじめればいい。涼しげなラテン・フレイヴァーのなか、“トゥモローズ・ダスト”でパーカーは言う。「その日はきっと来る/そしてその日はやがて去る」、「そして今日の空には 明日の砂ぼこりが舞っている」。その塵は、わたしたちのダンスを祝福する紙吹雪のように輝いている。

文:木津毅

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