「真夜中のラヴレター」とは「過剰にロマンティックで、エゴが出過ぎた表現」を指す、使い古された、しかし誰もが実感を持って理解できる秀逸な表現である。だが、テイラー・スウィフトは10作目にして、真夜中に書いた楽曲を集めたという本作を臆することなく作り上げた。まず耳を奪われるのは一新されたサウンドだ。ダークでダウナーなエレクトロニックな意匠が目立ち、思わず「ビリー・アイリッシュ以降」と表現したくなるものの、一方でテイラーらしいフロウやポップネスも満載で、彼女なりのオリジナルなドリーム・ポップ/ナイトメア・ポップに仕上がっている。そして、ロックダウン期に制作された前2作がどこか匿名的でパーソナルだったのに対し、本作でテイラーは“テイラー・スウィフト”という公私を混じえた自らのアイデンティティを真正面から表現している印象を受け、もはや頼もしさすら感じられる。なかでもリード曲“アンチ・ヒーロー”の歌い出しの見事さにはぶっ飛ばされてしまった。「私は歳を重ねても賢くならない/真夜中が私の昼になる」。彼女はたった2行のリリックで、自らが詩人であることとその矜持、ポップスターとしての祝福と呪縛を表現することができる人物なのだ。そしてあらためて気付かされる。優れた表現の本質は、往々にして「真夜中のラヴレター」なのだと。(照沼健太)
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「俺は虫けらだ。地面で踏みにじられている」。かつて“レット・ダウン”においてそう歌ったのはレディオヘッドのトム・ヨークだ。『OKコンピューター』まではリリックに描いていた虫けらの自意識を、『キッドA』『アムニージアック』の双子アルバムでは音色の中に拡散させた。“パルク/プル・リヴォルヴィング・ドアーズ”における重層的なリズム・トラックは、落葉と虫けらを同時に踏みしめたときの音だった。社会構造と同調圧力につぶされた魂が残す、誇り高くか弱いメッセージだった。サバ『フュー・グッド・シングス』における多層構造の律動音は、“パルク/プル・リヴォルヴィング・ドアーズ”のそれを思わせる。黒人コミュニティにおけるレディオヘッドの影響力はケンドリック・ラマーのサンプリングやロバート・グラスパーのカヴァーからも知られている。サバを擁するピヴォット・ギャングは、より密やかにその影響を覗かせる。リラックスしたメロウネスの中でも、虫けらの潰れた音が聞こえる。友と家族が、虫けらのように若くして死んだ。ピヴォット・ギャングのスクウィークは、祖母の家で叔父と一緒に銃殺された。27歳のサバは、年老いた気分の中だ。いいことなんてなにもない。“ワン・ウェイ・オア・エヴリ・N***a・ウィズ・ア・バジェット”でサバが語りかける。このストリートは一本道だ。死に向かうしかない。だけど俺は空を飛んで、複数の道を見つける。酷薄な世界で、数少ない良いものを俺はみつける。あいつらは一本道で、虫けらのように死んだ。教会の屋根を裂いたハリケーンは中にいる全員を殺した。シスターたちは育てる金がないから子供を殺した。9月にマリファナをはじめたあいつは、6月にはヘロインに浸ってた。感情的にはならない。虫に感情はない。ただただやつらのメッセージを聞き取って、リズムを産み出していく。虫けらのリズムを生きていく。複数の道は、レクイエムのなかにしか見つからない。虫けらのリズムを生きていく。(伏見瞬)
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ハンプトン大在学中にアースギャング(本作にも参加)の二人に誘われ、音楽集団スピレッジ・ヴィレッジの中核メンバーとなった2010年にソロとしても活動を始め、2016年にはJ・コールのレーベル、〈ドリームヴィル〉と契約したアトランタ出身のラッパー、JIDによる3作目のアルバム。その中盤収録曲“サラウンド・サウンド”で聴かれるのが彼のオーセンティックなスタイルだとすれば、この曲に続く“コディ・ブル・31”の最初のヴァースは全くの新趣向だ。息子を亡くした友人を丁寧に言葉を選んで力づけてゆくこの曲で、彼は、よくありがちな、歌ってみた、ではなく、真摯に歌っている。それは、イントロで聴こえる、彼の祖母の葬儀参列者の歌声(の録音)に導かれたからだろうか。こうした家族の中の自分、家族と自分を掘り下げているのも本作の特徴で、“クラック・サンドイッチ”の三番目のヴァースでは、6人の兄姉と彼が起こした騒動の顛末を物語っている。ここで彼が選んだストーリーテリングというスタイルの必然性を喚起している曲は他にもある。自分が何者かを他者に向けて表現することは、新進のラッパーの初期作品における常套手段だと言えるが、本作でのJIDの場合、自分が何者なのか一番知りたいのは彼自身なのではないだろうか。また、制作にはかなり多数のプロデューサーが携わっているようだが、アルバム全体を貫く、どこかアーシーな音作りはアウトキャストを支えたオーガナイズド・ノイズの作風を思わせる、という意味では、いかにもアトランタ産のアルバムらしい。(小林雅明)
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本作をもって、ストームジーは3作連続で全英1位に輝いた初の英国人ラッパーになった。だが、その栄光が放つような華々しさを本作は持たない。過去作で鬱についてラップすることもあった彼が持っていた湿り気や陰りが全面化し、それらがソウルフルにまとめ上げられた作品が『ディス・イズ・ホワット・アイ・ミーン』だ。ジャマイカやカリビアンのサウンドをインスピレーションにしたハードでドライなトラックのうえで、物々しいラップをする印象の強いストームジーはここにはない。ゴスペルのフィールが全編を覆い、ストリングスやピアノ、厚みのあるコーラスが大々的に扱われ、彼のアーティスト・イメージをがらりと変える本作は、彼にとっての冒険作という他はない。ボトムのリズムが変化していく冒頭の“ファイア+ウォーター”やクラシカルなピアノに導かれてジェイコブ・コリアーのコーラスが印象的な“ディス・イズ・ホワット・アイ・ミーン”、アマピアノ的なトラックがクールな“ニード・ユー”、ストームジーがラップではなく歌い上げる“ホーリー・スピリット”などを聴けばその変化の一片をつかみ取れるだろう。UKグライムの第一線で活躍し、名実ともにトップ・アーティストの仲間入りをした彼のようなアーティストが三作目で自分の内面に向かうような作品を仕上げ、それがサウンドに大きな変革をもたらし、結果的にエモーショナルなものになったというのは感動するほかない。(八木皓平)
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冒頭2曲の『F.I.A.S.O.M.』シリーズやタミル語のサウンドトラックからサンプリングされたフレーズが使用されている“エナジー・フレク”を聴いて、M.I.Aのサウンドがハイパーポップ的なジャンクネスとここまで相性がいいとは思わなかった。そういった要素がスクリレックスやリック・ルービンらが手掛けた“ビープ”のようなムーンバトンや、ディプロとBoaz van de Beatzが手掛けた“ポピュラー”のようなレゲトンと同居することで、本作は、現在進行形の音楽シーンとシンクロすることに完全に成功しており、ビートとリズムの祝祭としてのサウンドを組み立ててきたM.I.Aの本領発揮ともいえるような作品になっている。先ほど言及した楽曲以外にも豪華なプロデューサー陣が配置されており、“ザ・ワン”はドレイクやザ・ウィーケンド、ケンドリック・ラマーをプロデュースしてきたT・マイナスが手掛け、アフリカン・チャントのようなコーラスが特徴的な“ズー・ガール”はJ・バルヴィンなどと仕事をしてきたトロップキラーズがプロデュースしており、“タイム・トラヴェラー”は丸みを帯びたビートの記名性が圧倒的なファレル・ウィリアムスが担当するなど、アルバム全編を通して圧倒的なテンションのサウンドが彼らによって支えられている。海外のレヴューで本作を『アルラー』と比較しているものが多く見られたが、それについては同感だ。本作での勢いとアプローチはある意味、彼女にとっての原点回帰的なアルバムと言えるのかもしれない。(八木皓平)
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もはや新作アルバムや新曲が発表されない世界が訪れたら、あなたはどうするだろう? いや、そんな時代はすぐそこに迫っているのかもしれない。AIが絵画やイラストを生成し続けるように、ハイクオリティな音楽を毎秒リリースし続けたとしたら、人はそこに「新作」の価値を見出せなくなるのではないだろうか。「永遠」がその価値を持たないように……。そんな2022年、ザ・ウィークエンドは本作でディスコ、シティ・ポップ、ニューエイジという明確に「リヴァイヴァル」を想起させる意匠を用い、あの世とこの世の中間、あるいは天国と地獄のはざまとされる「煉獄」を表現してみせた。しかもザ・ウィークエンドからのステートメントによると、煉獄でのドライヴ中に渋滞に巻き込まれているというシチュエーションだという。このデッドエンドそのものである「どこにも行けない」感覚は、もちろんコロナ禍のロックダウンに苦しんだ世界中の人々の気持ちを代弁するものである一方、あらゆる音楽が蛇口から流れる水のように“アンビエント”な存在となりつつある現状の示唆とも捉えることができる。しかし、本作のこの抜けの良さは一体なんなのだろうか。革新性は無いかもしれないが、確実に「聴いたことのない音楽」ではある。相変わらずやや病的で脆い性愛を歌い続けるリリックも「これでいい」と感じられる。そして、そう感じる“自分”を再認識できる。逆説的な“自由”と清々しさに満ちたレコードだ。(照沼健太)
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俺は虫けらだ。俺たちは虫けらだ。ナイジェリア出身のイボ人チヌア・アチェベが1957年発表の小説『崩れ行く絆(Things Fall Apart)』で書いたように、部族の尊厳は西洋国家の植民地政策によって蹂躙された。1960年の独立後にもナイジェリアでは67年に内戦(ビアフラ戦争)がおこり、約150万人の生命が犠牲となった。現在、アフリカ大陸の中でも経済大国として成長著しいナイジェリアは、損なわれた尊厳に苦しんだ歴史を抱えている。その蓄積された歴史は、近代にアフリカ大陸全体を覆った痛みの雨を象徴している。もちろん、日本に住む者には痛みは文献を通した抽象的なものとしてしか伝わらないが。1991年ナイジェリア生まれのバーナ・ボーイことダミニ・エブノルワ・オグルは、アフリカ大陸の音楽の歴史を繋げようとする。2019年のアルバムでは自らを“アフリカン・ジャイアント”と名乗り、前作『トワイス・アズ・トール』の冒頭ではセネガルの英雄、ユッスー・ンドゥールを召喚した。本作『ラヴ、ダミニ』においては、1960年から現在まで活動する南アフリカの伝説的コーラスグループ、レディスミス・ブラック・マンバーゾが冒頭と終幕にアカペラを披露する。フェラ・クティのマネージャーを母に持つバーナ・ボーイは、損なわれたアフリカン・ピープルの尊厳を奪い返すかのように、各地の音楽家と手を取って音を鳴らす。「ハッピーバースデー、ダミニ」の祝福に乗せて、「アパルトヘイトのように心が裂かれていた」と歌いだし、個人の痛みと歴史の痛みに橋を架けんとする。無重力のパーカッションが軽薄なほど快楽的に響く中で、暗い恥と苦い誇りを混ぜていく。英語とヨルバ語を行き来するビジンなフロウは、アフロビーツとアマピアノが前景化し、〈Nyege Nyege Tapes〉がウガンダの臭気を伝えるアフリカ音楽の現状において、一つのハブとして機能した。バーナ・ボーイを通して、極東の島民はアフリカ大陸の蓄積へと接近する。その蓄積は単純ではない。アフリカン・アメリカンのライター、ジェシカ・カリッサは〈ピッチフォーク〉のレヴューで“ワイルド・ドリームス”の最後の一ライン「思い出そう、マーティン・ルーサー・キングは夢を持っていたが、最後には撃たれたことを(Remember,Martin Luther King had a dream and then he got shot)」に対して、「まったくもって無礼だ」と非難している。しかし、その悲観的かつ慎重なリリックはどこから来るのだろうか。“ワイルド・ドリームス”は、豪華なオーケストレーションとは裏腹に、悪い夢に追われ続ける感覚を歌っている。バーナ・ボーイの悪夢はどこからやってくるのか。キング牧師との距離は何に由来するのか。私たちは、そうした暗い謎から出発しなければいけない。(伏見瞬)
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1970年代のブラック・エクスプロイテーション映画を、サウンドに移植したヒップホップ。ピンとくる読者が少なそうな説明だが、ザ・ルーツのフロント・マン、ブラック・ソートとプロデューサーのデンジャー・マウスのタッグ作品『チート・コーズ』を聴いていると、どうしても『黒いジャガー』や『スウィート・スウィート・バック』が思い浮かぶのだ。ソウル・ミュージックをふんだんにサンプリングし、ブラック・ソートが黒人代表として自分の思考回路を開示する作品であるから、多少のズレがあるとしても的外れではないだろう。だいたい、ブラック・ソートの子ども時代が70年代だ。デンジャー・マウスとブラック・ソートが知り合ってから15年以上の月日を経て実現したプロジェクトだそう。その間、何度か組んではいるが、1枚丸ごとアルバムを作るアイディアが形になったのがまず喜ばしい。ブラック・ソートは、2018年にEP三部作『ストリーム・オブ・ソート』をリリースしており、創作意欲は絶好調。Vol.1はナインス・ワンダー、Vol.2はサラーム・レミ、Vol.3はショーン・Cに主にプロデュースを任せたコンセプチュアルなトリロジーで、ブラック・ソートの本気度が伝わってきた。デンジャー・マウスは、2007年にシーロー・グリーンとナールズ・バークレーを組んだり、ベック、ブラック・キーズ、アデルの曲やアルバムをプロデュースしたりと八面六臂の活躍を見せているプロデューサー兼ミュージシャン。控えめに見積もっても『チート・コーズ』は鬼才ふたりの共同プロジェクトだ。ブラック・ソートはずっしりした内容のリリックを聴かせるタイプのラッパーで、フローの引き出しは少なめ。そこは、ウータン・クランのレイクウォン、シカゴのキッド・シスター、グリセルダからコンウェイ・ザ・マシーン、ジョーイ・バッダス、ラス、新鋭のディラン・カートリッジ、イギリスからマイケル・キワヌカと多彩なゲストを招集。組み合わせの妙を聴き比べるのも、本作の正しい楽しみ方だろう。私の一推しは、エイサップ・ロッキーとラン・ザ・ジュエルズが参加している“ストレンジャーズ”。ブラック・ソートはフィラデルフィア出身、デンジャー・マウスはニューヨーク州北部のホワイト・プレーンズ出身のせいか、イースト・コースト・ヒップホップの香りが強い作品ではある。この曲は「アンダーグラウンド」がほめ言葉であった頃のニューヨーク・サウンドを彷彿とさせて、最高だ。万が一、ブラック・ソートとデンジャー・マウスのふたりが揃い、本作の客演陣の数人が出演するライヴがあるとしたら、飛行機に乗ってでも観に行きたい。(池城美菜子)
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〈コーチェラ2022〉では、衣装、振り付け、照明、セット等全てにこだわったコンセプチュアルな舞台劇のようなステージが魅力的だったルワンダ系ベルギー人アーティストがストロマエ。本作は(フランス語圏では2010年代に最も売れた)前作『Racine carrée』から約8年半ぶりの復帰作にして3作目のアルバム。その特色は「マリアージュ」ではなく「ペアリング」と言うべきなのか。例えば、“Sante”のトラックからはクンビアとデンボー、“Fils de joie”ではバロック音楽(ハープシコード等)とバイリファンキ、“La solassitude”や“Riez”では中国の二胡とアフロビート、といった組み合わせを聴き取ることができる。ただ、それらは楽曲内でひとつに融けあおうとしているわけではなく、互いの存在を認めあっているように聴こえる。このあたりが「多数性」を意味する表題Multitudeと繋がってくるのだろう。そういったサウンド・プロダクションを基に、ストロマエがバリトンで歌う(演じてみせる)のは、市井の人々についてである。“Sante”で、彼が健康を祈っている相手は、いわゆる家事代行の人たちであり、“Fils de joie”では、セックスワーカーの母を持つ息子によるサビを挟むかたちで、性風俗利用者、ピンプ、警察の三者の立場、それらがすべてストロマエひとりによって歌われる。Multitudeには、群衆(あるいは一般大衆)という意味もある。「生きづらさ」が注目されてしまう2022年に、ひとりひとりが違う人間であることをあらためて伝えてくれている。(小林雅明)
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前作『無限のHAKU』がコロナ禍の世界と寄り添うように作られた「静」のアルバムだとしたら、本作『Howl』はポスト・コロナの時代に突き進む我々をその先へ引き連れてゆくような「動」のアルバムと言えるだろう。その象徴が“ONI”だ。8ビートとギター・リフを基調にした、ロット・バルト・バロンらしからぬまっすぐなロック・サウンドに驚かされる。この曲の存在意義は大きく、彼らがひとつ殻を破ったことを示すものだ。彼らはこれまでも、“獣”など、自分たちの音楽活動の軸となる部分に民俗学的なアプローチを導入してきた。それを考えると、“ONI”=「鬼」の名を冠する楽曲が、本作のひとつの柱となっていることは自然に受けれられる。「人間」ではない、その外側を見つめる想像力が彼らを、人間とそれらを隔てる「境界」に置くことに成功している。同じく8ビートが基調となっている“赤と青”も色彩の「境界」についての歌と考えると、彼らの「境界」へのこだわりに気づかされる。近作のロット・バルト・バロンのサウンドを特徴づけるポスト・プロダクションがひとつの完成を見ていることも、その「境界」へのこだわりと無関係ではない。プログラミングしたもののみを使うわけでもなく、人が演奏したものをそのまま使っているわけではない、その「境界」にポスト・プロダクションがあるからだ。ぼくたちは本作を通して「境界」を思考することの大切さに直面する。(八木皓平)
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2022年 年間ベスト・アルバム
31位~40位
2022年 年間ベスト・アルバム
扉ページ
〈サイン・マガジン〉のライター陣が選ぶ、
2022年の年間ベスト・アルバム、
ソング、ムーヴィ/TVシリーズ5選