『ソング・リーダー』とは、第一義的に、「他者の(ための)作品」である。しかし、その作曲作業は、ベックというひとりの音楽家にとって大きな挑戦であったことが、その前書きからは窺える。
「自分のレコード用に書くタイプの曲が、より一般的なスタイルで書かれた曲に比べて、やや不適切に思えてきました。時に、自分の作曲本能と格闘する場面もあったくらいです。単純であることと普遍的であること、陳腐なものと永続的なものの線引きはどこにあるのか。定番ソングは、ありきたりなスタイルを超越・変貌させ、使い古されたフレーズや感情を誇張することで、根源的なものになることも可能です」。
前述の通り、『ソング・リーダー』ではブルースやフォークをベースとしたスタンダードでクラシックなアメリカン・ソングを念頭に曲作りが行われた。そこには、かつて大衆歌/大衆音楽というものが広く存在した時代を思い起こさせるように、世代を問わず楽曲に興味を持ってもらい、かつ特別な知識や技術がなくても演奏をしやすい内容にするという意図もあったわけだが、その実現のためには何より「普遍性(universality)」が意識されたという。
「人の心に住みつき、自分のものにしてもらえる曲とはどんな性質を備えるのかと考えるようになりました。キャンプファイヤで歌ってもらえたり、結婚式で演奏してもらえる曲には一体何があるんだろう?時代を越え、姿を変え歌い継がれる曲は何が違うのでしょう?」。
したがって、それこそ『オディレイ』に代表されるような複雑な構造のサウンドは排され、手癖に頼ることなくメロディやコンポジションを吟味し、歌詞もプライヴェートな内容ではなく共感を得やすいユーモアや感傷を誘うものが選ばれた。そのプロセスについて、ベックは『ソング・リーダー』出版後のインタヴューで「自身のソングライティングをⅩ線でスキャンして、拡大鏡で覗き込むような作業だった」と振り返っている。
つまり、見方を変えれば『ソング・リーダー』とは、ベックの伝統的なソングライティングを、アメリカン・ソングの伝統的なソングライティングと「編集/折衷」する試み、とも言えるかもしれない。さらに、それらの楽曲は、大勢の他者による演奏を通じて絶え間ない「追加と削除」、自己流のアレンジと「編集/折衷」されることで、いわば今日の伝統的(大衆的)なソングライティングへと敷衍されることが期待されている。「ポピュラー音楽を自分自身で演奏するという人間の隠れた本能を今のリスナー達に呼び起さこさせる手段はないのかと考えたのです」。
興味深いのは、そうしてベックが喚起を促す「本能」とは、それこそビョークの『バイオフィリア』しかり、昨今のデジタル技術やソーシャル・メディアを通じた参加型/体験型の音楽消費と相似形をなすものであり、そこにはアメリカン・ソングの創世期の光景が、ソング・ブック/シート・ミュージックという最もアナログな形を借りて投影されている、という点だろう。リスナーにとっての音楽の価値を、単なる楽曲の聴取やパッケージの所有に留まらず、みずから演奏したり、アイデアをシェアしたりといったプロセスを楽しむことにこそ見出そうと導く『ソング・リーダー』は、音楽を取り巻く現在と遠い過去が交錯したプラットフォームと言えそうだ。そして、ベック自身にとっても『ソング・リーダー』の試みは、そうした音楽の価値を再確認する、重要な気づきの機会となったに違いない。
だから『ベック・ソング・リーダー』の面白さは、それがジャック・ホワイトやノラ・ジョーンズら参加アーティストにとってのベックへのトリビュートであると同時に、連綿と続くアメリカン・ソングの伝統へのトリビュートでもあり得るという、二重の価値を帯びているところだろう。しかも、その二重性は入れ子構造のようになっている。参加したアーティストは、譜面にしたためられたベックのソングライティングを介してアメリカン・ソングの「普遍性」を学ぶ機会をおのずと得ることができ、そこに各々自己流のアレンジを加えていく「編集/折衷」を通じて、自身のソングライティングをあらためて対象化するきっかけを体験できるかもしれない。
試しに、参加アーティストによる『ベック・ソング・リーダー』の楽曲と、『ソング・リーダー』の出版後に同じ曲をベック自身が披露した演奏を聴き比べてみるのも一興。あるいは、『ベック・ソング・リーダー』に先立つ昨年、「ソング・リーダー・ライヴ」と銘打ち、ジャーヴィス・コッカーやフランツ・フェルディナンド、シャルロット・ゲンズブールらを交えて行われた『ソング・リーダー』の演奏ライヴも見物である。そこに像を結ぶ「姿を変え歌い継がれる」という実践、「人の心に住みつき、自分のもの」にされる実感こそ、ベックが謳う「音楽を開放すること」であり、『ソング・リーダー』に期待したリアクションに他ならない。
ただし、あくまで想像だが、それでもやはりベックが最初に描いた理想は、『ソング・リーダー』で完遂すべきプロジェクトの形だったのではないだろうか。関連サイトに寄せられるリスナーからの動画や音源の投稿、あるいは〈キル・ロック・スターズ〉のポートランド・チェロ・プロジェクトが『ソング・リーダー』を演奏したアルバムを『ベック・ソング・リーダー』に先駆けて発表するなど好意的なリアクションは見受けられたものの、新奇さで話題こそ集めど後日のスタジオ・アルバム『モーニング・フェイズ』に比べれば評価や注目度の部分ではるかに及ばなかったことは、ベックの中で忸怩たる思いがあったに違い。
そこで、いよいよベックみずからが音頭を取る形で『ベック・ソング・リーダー』というパッケージ商品を用意しなければ、おそらくはベックが思い描いた『ソング・リーダー』というプロジェクトの真意は伝わりきらなかった、その真意の理解を100%受け手の自主性に任せるには限界があった、という現実。結果的に素晴らしい音楽作品に出来上がった『ベック・ソング・リーダー』の中身云々はさておき、今回のリリースの裏側でベックは何を思ったのか――なんてことに、つい想像を巡らさずにはいられない。
「ここにある曲たちに関して言えば、みな命を吹き込まれるのを待っていたのです。それほど遠くない過去において、曲というものは、誰かが演奏するまでは紙きれに書かれたものでしかなかったということを、この曲たちが思い出させてくれたのではないでしょうか。そう誰かが。それはあなたかもしれないのです」。
曲の精神とは楽譜に宿るのではない。実際に楽譜が演奏されて、その精神が人々の間を渡ることで、初めて曲は生を授かる。そして、ベックは『ソング・リーダー』出版後のインタヴューで、「優れたソングライターとは、かつてのブルースやフォークのように聴き継がれて歌い継がれ、あらゆる時代を通じて“真実”を掴むような曲が書ける才能のことである」と力説していたことを思い出す。そうして生まれた音楽は、社会が変わろうと、政治が変わろうと、人々が変わろうと、カルチャーの一部となり共鳴を呼ぶはずである、と。
そういえば最近、ジャック・ホワイトやアーケイド・ファイアといった、ベックとも親交の深い、ベックより下の世代の“優れた”アーティストがカヴァー・ソングに執心である。その様子に、何か偶然ならざるものを感じでいるのは、はたして自分だけだろうか。
*ヘッダーの写真は、2014年9月に開催されたiTunes Festival出演時のものです。
もしかして、これこそがベックの最高傑作?
作品を追うだけでは決して全貌の見えない
全身メディア作家が「音楽の存在意義」を
世に問う『ソング・リーダー』の凄さ。前編
はこちら。