「こんな場所で生きていきたくないし/こんな場所で死にたくもない」「僕らはどれだけの時間を耐えていけるだろう?」。2013年の10月から今年1月に録音された今作は、一年を経て預言書のごとく響いている。アメリカーナ・サウンドの要人、ジョナサン・ロウ、ブライアン・マクティアーとの作業を経て、粒の立った各楽器の鳴り、空気が振動していく様子を可視化したかのような音の広がりをものとしたバンドは、「氷河期」と名付ける景色から物語をスタートさせた。生命の仄かな熱さえも隠蔽してしまう灰色の街で、子供たちは蜂起の夢を見る。「家を燃やせ/名前を捨てろ」。2014年はまだこのバンドの時代ではなかったかもしれない。だが、過酷なツアー日程の果てに、今作のスケール感を生演奏で完全に掌握した彼らゆえ、風化の心配はない。カットニス・エバディーンが立てた三本指のように、この抗議のアルバムもまた青白き炎を静かに広めていく。(田中亮太)
「光/輝き」を意味するタイトルにふさわしく、ホラーズ史上、もっと高揚感に満ちた作品かもしれない4thアルバム。たとえばクラウト・ロックの参照やジョルジオ・モロダーの名前も連想させる“イン&アウト・オブ・サイト”をはじめ、随所に打ち出された強かなダンス・フィール。楽曲の一部でポール・エプワースがプロデュースを務めているというのも、勿論ある。が、むしろ2ndアルバム『プライマリー・カラーズ』の時点ですでに窺わせていたモータリック・ビートやデトロイト・テクノへの関心を独自に昇華させた、という流れで捉えるのがフェアだろう。そうしたアップリフティングな手触りは、デビュー当時のゴシックなガレージ・パンクの面影とは一転、ギターやシンセのレイヤーに溢れ出た色彩感覚にも投影されていると言えよう。7分を超える“アイ・シー・ユー”のエピックなサイケデリアの果てには、彼らが敬愛する裸のラリーズへの憧憬も浮かぶ。(天井潤之介)
本作に参加したバンド・メンバーが全員揃ったのが、録音の二週間前。さらに完成した時点ですら、どこからどうリリースするかも決まっていなかったと聞く。だが、その後の快進撃はご存知の通り。バンドの状況は、渋谷クアトロを満員とするほどになった。会社員から無名の音楽家へと転身した時と同様、吉田ヨウヘイという人間は、突拍子もない確信が降りてくる瞬間があるのだろう。シカゴ音響派からマス・ロックまでポスト・ハードコアの系譜でアンサンブルを開花させつつ、いまだ朴訥ながら間口の広い日本語ポップスへと着地させた音楽性は発明だ。そして、サウンドの揺るぎなさの一方、リリックにおいては、幾度と無く過去の苦味をフラッシュバックさせ、現在地の寄る辺のなさを発露するという、不思議なバランスが、聴き手のセンチメントへと突き刺さる。先日、ファゴットの内藤彩が脱退。最高傑作を背中に、すでにバンドは新しい季節へと駈け出している。(田中亮太)
〈ピッチフォーク〉では7.7と微妙な得点に甘んじていたが、本国では見事に初登場一位を獲得、バンドに過去最高の成功をもたらすこととなった。確かにシンセやループを多用した精緻でシャープなサウンド・プロダクションは今日的なシンセ・ポップとの共振と捉えることもできるだろう。だが、重要なのはその背後から立ちのぼってくる高揚感あるメロディや晴れやかなヴォーカルが一瞬のハピネスをもたらしてくれることではないか。滑らかなダンス・ビートに身を委ねてこそ吉、な曲が多いし、中近東~バルカン周辺の旋律を取り入れた“フィール”はベイルートなどと並べることもできるが、例えばファルセットと清潔なピアノ演奏とが静かに溶け合う“アイズ・オフ・ユー”あたりになるとアントニーにも似た穏やかな哀感すら重なる。先の見えない薄ぼんやりとした、でも今ここにあるささやかな幸福が英国民たちの共感を呼んだのかもしれない。(岡村詩野)
リリースの一年程前に見たライヴでは、あのチルウェイヴ然と感じられた前作『eye』の“fly me to the mars”もベース音が異様に強調されたサウンドに姿を変えていて、思わず身を乗り出したことを覚えている。音像を削ぎ落として「バンド」の輪郭を露わにした生々しい手触りは、“停滞夜”や“いらだち”のミニマルなロウ・ファンクが伝える通りだろう。が、研ぎ澄まされた音の抜き差しの一方、ミツメを他と分かつのは、その背後や行間に流れるあまやかな気配であり、メロディやギターのユニゾンに張り付いたみずみずしい浮遊感。前年のEP『うつろ』の惚けたポップネスが、火照りをたたえた深い翳りに染まっていく“ささやき”以降が美しい。淡い追憶を綴った“3年”の川辺素の歌声は、とても赤裸々に響いて感じられる。来るべき新作を予告する『Blue Hawaii Session』で見せた演奏面の探求も素晴らしいが、私がミツメに惹かれてしまうのは、つまりそういうことなのかもしれない。(天井潤之介)
プロデュース業での活躍や楽譜アルバム『ソング・リーダー』製作のおかげで、不在の感覚はそれほど強くはなかったものの、前作『モダン・ギルト』から6年の間にベックは脊髄損傷による深刻な音楽活動の危機を迎えていた。そこから回復して届けられた本作は、傑作『シー・チェンジ』の轍をなぞる形で制作された、重層的なフォーク・アルバムである。しかし、そこに込められた意味合いは、ある意味で真逆とも言えるだろう。『シー・チェンジ』が雄大な変化を続ける深遠な海のイメージなのに対して、本作は周囲の変化を取り払った後にも残る普遍性や核の所在を思わせる、清々しい朝や光のイメージで彩られている。音楽家としての危機を乗り越えたベックによる、ソロ・キャリアの新たなスタートを告げる「夜明け」のアルバムだ。(青山晃大)
ジャケットの茜雲から『モンスター・ムーヴィー』のロボットが姿を現しそうな錯覚も与えた前作『100年後』だったが、本作の紙で出来た宮殿から、例えばキング・クリムゾンが顔を覗かせるような瞬間は訪れない。近作を経てライヴの場に敷衍されたプログレッシヴな演奏からすると、「ミニマルでメロウ」というコンセプトは狙い通り功奏していると言える。ただ、淡々として穏やかというわけでは勿論ない。むしろ沸々とした禍々しさを覚える。この此岸の景色を書き割り的な世界と見立てたアナロジーは、“他人の夢”や“いつかの旅行”のまるで彼岸から眺めるようなシビアな寓意を含んだ歌詞が窺わせる通り。そのどこか実体性の薄らいだ感覚は、しかしサウンドとも相乗関係にあるようだ。耳触りを残す管楽器や打楽器、ノイズ、あるいはモノローグが迫り出すことでアンサンブルの遠近感が揺らぎ、「バンド」が後景に押しやられているというか。そこはどこ? お前は誰だ?(天井潤之介)
最近流行のファッションを“ノーマル・コア=ノームコア”と言うそうだが、それを言うなら5年前のデビュー当時からずっと“ノームコア”だったのが、リアル・エステイトなんじゃないだろうか。普通をとことん突き詰めた、究極の“フツー”。だがそれは一歩間違えればただの浪人生になりかねない、上級テクニックだ。近年はダックテイルズやアレックス・ブリーカー&ザ・フリークスといったそれぞれのプロジェクトで活動していたメンバーが、ウィルコの所有するシカゴのスタジオに集まってレコーディングした本作は、一児の父親になったヴォーカルのマーティン・コートニーの門出を祝うような和やかなムードと、マリッジ・ブルーとも言えそうな、ほんの少しの郷愁が漂っている。かつて彼らの地元ニュージャージーのショッピングモールに掲げられていたという絵画をあしらったジャケットも象徴的だ。(清水祐也)
アジーリア・バンクスがあの素晴らしき“212”を引っ提げて登場した3年前、世界中の誰もがそのスター性と未来に待ち受けているだろう一大センセーションを信じて疑わなかった。しかし、決定打となるはずだった1stアルバムは幾度もリリース延期を繰り返し、遂には〈インタースコープ〉と喧嘩別れ。一時は幻に消えるか、とも思われた。そんな紆余曲折の末、ようやく発表された本作は、一切の妥協を許さない姿勢で磨き上げられた結果、彼女の持つ多面性を余さず凝縮することに成功している。シームレスなビート・ミュージック~ヒップホップを主軸として、M.J.コール参加のUKガラージからアリエル・ピンクのサーフ・ポップをそのままカヴァーした飛び道具的サプライズまで、徹底した攻めのプロダクション。その上で、小悪魔のように舞い踊るアジーリアの歌とラップ。今のトレンドに対するクールな批評性と天衣無縫のポップ・センスが違和感なく共存する、「ポップスかくあるべし」という見本のような一枚だ。(青山晃大)
ボニー“プリンス”ビリーやカイロ・ギャングのバック・シンガーとして、これまで地道な活動を続けてきたエンジェル・オルセンにとって、本作は「バック・コーラスの歌姫」では終わらない自らの歌・サウンドを確立した最初の記念碑と呼べる一枚だ。ジョン・コングルトンのプロデュースとバンドを率いた初レコーディングにより、フォーキーな曲調にローファイなざらつきを残したフックが加わり、甘味の少ないハスキー・ヴォイスにもさらなる華と説得力が。彼女がここで歌うのは、他人への依存に甘えることなく自らの脚で人生を歩もうとする自立した女性の姿と、それにも関わらず他者と愛を求めて止まない自身が感じる痛みや怒り。ハッとするようなメッセージや派手なギミックではなく、あくまで真摯な視線と凛とした態度によって、エンジェル・オルセンは誰もが感じる孤独を、美しく心に染み入る11の歌曲にしてみせた。(青山晃大)
「2014年 年間ベスト・アルバム 31位~40位」
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「2014年 年間ベスト・アルバム50」
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