『ヴィジョンズ』。全編がベッドルームにおいてGarageBandを駆使してひっそりと孤独に制作され、何度目かの全盛期を迎えていた〈4AD〉というレーベルのカラーとの奇跡的なマリアージュを経てリリースされたこの傑作の成功は、みなさんがよく知る通りでしょう。
とりわけ“オブリヴィオン”と“ジェネシス”のヴィデオのヒットはグライムスから「カルト」という冠を外すのに十分すぎるほどでした。RPGとSFを掛けあわせたかのような奇妙な映像感覚で、クレアのヴィジュアル・アーティストとしての才気走った想像力が存分に発揮された“ジェネシス”もさることながら、特筆すべきはやはり“オブリヴィオン”。ピンクの髪を眉上に揃え、ヘッドホンをし、オーバーサイズのコートを身に付け、ラグビーの試合がおこなわれているスタジアムでオラつく男性観客たちと歌い踊る少女の姿はまさしくポップ。そのキュートネスは男性たちのハートを射止め、そのキッチュなファッションは女性たちをも魅了しました――奇妙なポップ・スターの誕生です。
勿論グライムスの音楽が実にフレッシュで、どこまでも新しかったことが重要です。『ヴィジョンズ』で完成されたグライムスの音楽は次のようなものです。どこか揺れ、もつれているダンス・ビート、ビヨビヨとうねるシンセ・ベースのループとオリエンタルでエキゾチックなシンセのフレーズの前景化、そして深いリヴァーヴやエコーがかけられたことで天上から降り注ぐかのようなスピリチュアルな響きを持ったクレアのロリ・ヴォイス。上の2曲に加え、アルバムの幕開けを飾る“インフィニット・ラヴ・ウィズアウト・フルフィルメント”のサウンドに誰もが驚かされたことでしょう。
『ヴィジョンズ』のサウンドのほぼ全てを物語っています。しかしなによりも『ヴィジョンズ』が訴求力を得たのは、これまで実験的に扱われていた彼女の歌声がはっきりと親しみやすいメロディを歌っていることでポップな力強さが彼女の音楽に宿ったからに他なりません。「アヴァン」な感触は残しつつ、もう「ドリーム・ポップ」なんて記号では呼ばせない、とばかりにパワフルでポップ。『ヴィジョンズ』を引き金としてグライムスのプロデューサー/ソングライターとしてのクリエイティヴィティは一気に『アート・エンジェルズ』へと向かう、と言いたいところですが、そこには若干の逡巡がさしはさまれます。
『ヴィジョンズ』の成功とともに大規模なワールド・ツアーを完遂したグライムスは、再び孤独な音楽制作へと戻っていきます。誰もが彼女の新作を待ち望む中、2014年6月に突如ポストされたのは新曲“ゴー”でした。
これは元々リアーナのために書かれたものでしたが採用されず、自身の新曲として発表したものだと伝えられています。EDMを意図的に模し、ポップの本流へ身を投じたことで批評家たちからは好意的に迎えられた会心のシングルは、『ヴィジョンズ2』を望むファンからはネガティヴな反応でもって迎えられました。それに続いてメディアが伝えたのは、グライムスが制作中の新作をお蔵入りにした、という噂。この頃には「フロントに立つようなことはやめて、裏方で作曲をしたいと思っていた」とも告白しています。グライムスというアーティストの人間的な葛藤が垣間見えたおもしろい瞬間でした。そんな紆余曲折を経て再びアルバム制作へと挑み、そして彼女が完成させたのが『アート・エンジェルズ』です。
このアルバムにひとつ補助線を引くのであれば90's、そして00's R&Bへのリスペクトと憧憬がストレートに、しかしクレア・バウチャーの身体を通って奇妙に捻れた形で結晶化したポップ・アルバムだと思います。例えばこれを、リアーナのクラシック『ガール・ライク・ミー』や『グッド・ガール・ゴーン・バッド』と聞き比べてみる、っていうのは?
そう、『アート・エンジェルズ』は『ヴィジョンズ2』などではけしてないのです。であれば、『アート・エンジェルズ』はストレートなポップ・アルバムなのでしょうか。それともポップへの批評なのでしょうか。その審判はここでは措くとして、グライムスは幾度かの変態を経て得た翼を大きく広げ、その想像力とクリエイティヴィティとを携えて天高く駆け上がろうとしています。あなたは彼女の飛翔についてこられますか?
「21世紀の炎上少女、グライムスのトリセツ。
全世界の年間チャートをかき乱す話題作
『アート・エンジェルズ』はこう聴け!
① by 萩原麻理」
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