SIGN OF THE DAY

ジュリアン・カサブランカス渾身の新作に
『ピッチフォーク』が4.9点をつけたことに
本気で幻滅した田中宗一郎が綴る
2014年におけるポップの可能性について
by SOICHIRO TANAKA October 31, 2014
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ジュリアン・カサブランカス渾身の新作に<br />
『ピッチフォーク』が4.9点をつけたことに<br />
本気で幻滅した田中宗一郎が綴る<br />
2014年におけるポップの可能性について

1)
理想的な世界においては、誰もポップにクオリティなど求めたりはしない。ましてや、良識など求めない。そして、勿論のこと、ポップに正解など求めない。ポップに求められるのは、昨日まで当たり前と思っていた常識や思い込みが一瞬にして無に帰してしまう容赦ない問いかけや告発であり、心地よい安心の底がいきなり抜け落ちて、奈落に突き落とされてしまう衝撃であり、それまで後生大事に大切にしてきたものすべてを捨て去ってしまって構わない、そう思わせてしまう興奮だ。何故なら、ポップの存在意義とは変革の触媒のことを指すからだ――理想的な世界においては。

だが、勿論、われわれが暮らしているのは、誰もが心の平静を追い求めるがゆえに、降り積もった現状肯定という負債によって腐臭が漂う現実という寂れた彼岸である。出来ることなら、はた迷惑な変化などないまま、ほどほどの明日を迎えたいと願うがゆえの無関心さの群れ、そして、さしたる悪意もないにもかかわらずポップを日夜サブカルに貶めていく好事家たちに囲まれながら、日常という汚濁に流され、ポップはすっかり行き場をなくしている。もはやポップにアクチュアリティなんてないんですよ。いいとこが、コミュニケーション・ツール。気の置けない仲間たちと楽しげに語り合うためのね♡ おい、シニカルだな、相変わらず!

2)
今から70数年前、幾人かの学生連中がベルリンで交わすこんな会話を君は耳にする。「資本主義の下でどんな表現形態がはびこるか見てごらんなさい。ポルノグラフィばかり。愛も――エロティックな愛、キリスト的な愛、犬と少年の愛――すべてポルノ化されてしまう。日没のポルノ、殺しのポルノ、推理のポルノ――ああそこか、と殺人犯がわかったときの気持ちよさ――小説から映画から歌から、よってたかって人びとの気持ちをなだめてくれる。程度の違いはあってもみんな絶対的な慰みの極地をめざしている点は同じよ」。つまり、さっさと達したい、すぐに気持ちよくなりたい、そのオーガズムの果ての安心と慰めを感じたい、そんな欲求に手っ取り早く答えてくれる表現。要するにあれね、「感動しました!」という、どこにも辿り着かない自己目的化したカタルシス。もしくは、悪の専制君主をみつけて、つるし上げる快感。そうしたオーガズムの果ての、「自分は間違っていない」という安心と慰めをもたらすもの。なるほど、不安と屈託と思索を楽しむ余裕は持ち合わせてはいらっしゃらない? 今も昔もポップは現実逃避やガス抜きのためだけにあるというわけだ。まあ、そうでしょう。しかも、もはや神もいなければ、大きな物語もない。私もあなたも精一杯ときた。

3)
現在のメインストリームのポップ音楽の大半は、レディ・ガガにしろ、FKAツイッグスにしろ、ケイティ・ペリーにしろ、ロードにしろ、アリアナ・グランデにしろ、ビョークにしろ、1Dにしろ、きゃりーぱみゅぱみゅにしろ、SEKAI NO OWARIにしろ、AKB48にしろ、ザ・ヴァンプスにしろ、ファイヴ・セカンズ・オブ・サマーにしろ、ソングライティングからプロダクション、ヴィジュアル戦略に至るまで、プロデューサー・チームと組織的かつ分業的に、つまり、どこまでも効率的に作り上げるもの。悪いことじゃない。ティン・パン・アレーやら、ブリル・ビルディング、〈モータウン〉以来のヒッツヴィル音楽の伝統でもある。そもそも今の時代にビートルズを求めちゃいけないよ。それにビートルズにだって、アストリッド・キルヒヘアがいたし、ジョージ・マーティンもブライアン・エプスタインもいた。セックス・ピストルズにはマルコム・マクラーレンとヴィヴィアン・ウェストウッドがいたし、クラッシュにもバーナード・ローズとコズモ・ヴァイナルがいたじゃないか。うるさいな、ただあまりに破綻のない完成度と明確すぎる目的意識にどこか萎える部分がなくもない、という話だよ。気がつけば、ポップ音楽だけでなく、映画もファッションもすっかりそんな具合になってしまいました。集合知? ああ、なるほど。そりゃあ、楽しそうだ。

ところで、君はもうSEKAI NO OWARIの“ドラゴンナイト”は聴いたかね。あれにはさすがに舌を巻いた。下降クリシェという、名曲を書くメソッドとしてはクリシェの中のクリシェを使った見事なまでにクリシェな和声構成。EDM的なリズムの抜き差しによって緩急を生み出す練り込まれた展開。アヴィーチーが“ウェイク・ミー・アップ”で使った音源モジュールの大胆な引用。実によく出来ている。とにかく圧倒的な完成度。と思ったら、ニッキー・ロメロとの共同プロデュースというじゃないですか。なるほど、それも含めて見事としか言いようがない。でも、やはり少しばかり萎える部分がなくもない。

そこで君は“ウィ・アー・ネヴァー・エヴァー・ゲッティング・バック・トゥゲザー”でテイラー・スウィフトが歌ったように、資本の後ろ盾を持ったプロフェッショナリズムの前ではもはや太刀打ち出来ないという萎えた気持ちを、「お気に入りのクールなインディ・レコード」を聴いて、慰めているというわけだ。かつて君は筋金入りのインディ・キッズだった。それゆえ、カントリー界の救世主という立場をかなぐり捨てて、ポップという濁流の渦中に飛び込んでいったテイラーの勇気を理解しつつも、君はやっぱり受け入れられない。思わず「だって、ポップなんて下らないよ!」と心の底で叫んでしまう。すると、遠くでテイラー・スウィフトが歌うのが聞こえた。「♫ウィ・アー・ネヴァー・エヴァー・エヴァー・エヴァー・ゲッティング・バック・トゥゲザー!」。切なく、狂おしい声で。

4)
2009年のダーティ・プロジェクターズの傑作『ビッテ・オルカ』。アーケード・ファイアが登場した2004年辺りから一気に隆盛を極め出した北米インディの世界は、このアルバムをひとつの象徴的な起点として、有史以来最大の黄金期を迎えた。それから先はあなたも知っての通り。一月毎に珠玉の名盤の類いが産み落とされるようになる。嬉しい悲鳴。君はすかさずそれを追いかける。『ピッチフォーク』という頼れる味方だっている。さらなる名盤の嵐。すっかり空になっていく財布の中。さらなる嬉しい悲鳴。という喜ばしき数年を君は過ごした。だが、気がつけば、すっかり飽きてしまった。だって、どれもこれも、いいレコードばっかなんだもん。つまんない。それに疲れちゃったよ。と、すっかり動物化を受け入れた欲望の傀儡である、とあるキャラクターにご登場いただきましょう。取りあえず名前はオルキヌス・オルカとでも。

さて、望みもしない大舞台にいきなり上げられた彼は、はにかみながら、マイクに向かって呟く。「だって、エントロピーは拡散と収縮を繰り返すっていうか」と、まず一言。そして、気まぐれで、移ろいやすく、無責任、かつ、理不尽な場所から、かぼそき声を上げるのであります。「こんなにも良質な作品で溢れ返っている現在にあっては、これ以上、新たなレコードなど必要だろうか! どれだけ良質であろうと、それが限られた者にしか享受されないのならば、一日の終わりに破棄される賞味期限切れの無数のコンビニ弁当とどう違いがあるというのか!」。そんなわけで、すっかり疲れきった彼は、タイ・セガールが無性に聴きたくなる。毎夜、打ち捨てられ続けるコンビニ弁当のように、とりとめもなく次々と新作をリリースし続けるロックンロールの彼岸。「うひゃあ、最高だあ! タイ・セガールさえあれば、他に何もいらないよ!」と、オルキヌス・オルカ再び高らかに宣言。でも、お前、アリエル・ピンクにはまった時にも確か、そんなこと言ってなかったか? まあ、いいや。では、再びマイクをスタジオに戻すことにいたしましょう。テレ朝のアナウンサー弘中綾香が呼びかける。田中さ~ん、聞こえますか?

>>>>>はい、田中です。

というわけで、2014年におけるポップの見取り図はとても複雑なのです。誰一人として悪意などないにも関わらず、気がつけば、いたるところでいくつもの無益な権力闘争が巻き起こっている。静かに。とても穏やかに。嫌いなものについて語る時間があるのなら、好きなものについて語ることに時間と労力を費やした方がいい、そんな心優しい態度がもたらしたものが「今」だと言っていいかもしれません。ここでは好き/嫌いという美学的な態度を乗り越えようとする批評は求められてはいないというわけです。求められているのは、それぞれの領土を互いがとても慎ましやかに主張し合う分割統治。つまり、政治です。しかも、ここ20年のネットの発達と共に、誰もが取り立てて意識もしないまま、そうした状況をさらに着々と進行させているとしたら。これは、大の大人を泣きたくさせるに十分なほど悲劇的と言ってもいいかもしれません。

佐野元春なら、君の肩を叩いて、こんな言葉をかけてくれるかもしれない。「♫言葉の弱さに燃えつき/そして君は唄うだろう」。すると、やおら誰かが歌い出す。「♫強き人はどこに?/誰か、いくつもの信頼を一手に引き受けようとする人はいないのか?/ハーモニーはどこに行った?/あのスウィートな調和は?」。出来ることなら、ここはエルヴィス・コステロの声で。そうすれば、見えてくるものがある。時として、愛や平和や互いの理解を求める態度は、過剰に変革を求めるがゆえに、とても強い語気を帯びてしまうのです。思わず目を伏せて、無視したくなるほどの強い語気を。と同時に、どこか偉大なスターを待ち続けているかのような反動性をも帯びてしまうのが、さらに厄介なところ。ああ、面倒臭い。

つまり、冒頭の1)において記した理想的なポップは、この2014年において、いくつもの困難にさらされています(そんなものがあるとすれば!)。だとするなら、マルクスとコカコーラの子供たちはどこに向かうのでしょう? 何を求めるのでしょう? すっかり調子に乗ったオルキヌス・オルカは今度はこう宣言します。「エロイムエッサイム」と、まずは水木しげるの引用から。「我は求め訴えたり。変化だけを希求し、失敗を恐れず、過剰なアイデアで溢れ、完成からはほど遠く、だが、聴き手を猛烈にインスパイアする作品を。技術ではなく、知識ではなく、資本の力ではなく、素敵なアイデアだけが現状を革新するという無鉄砲極まりなく、されど高貴な夢を。だって、退屈なのはもうたくさん。何もかもが予想の範疇だ。豪快な失敗作が聴きたくないですか?」。さっきと言ってることがすっかり違う気もするが、絶対化しない限りにおいて相対主義はまだ有効だ。でも、それって、ないものねだりじゃないのかい? と、ここまでがMCの仕事。クラッシュを紹介する82 年シェア・スタジアムでのコズモ・ヴァイナルを思わせる余計な戯れ言。

そこでようやく真打ち登場と相成ります。舞台は暗転し、本稿の主人公ジュリアン・カサブランカス&ザ・ヴォイズが颯爽と登場する。ストロークスの司令塔ジュリアン・カサブランカスを初め、6人のメンバーにスポット・ライトが当たる。その服装は? と言えば、かなりありえない。では、アルバム『ティラニー』から“ホエア・ノー・イーグルズ・フライ”のPVを改めて観ておきましょう。

Julian Casablancas+The Voidz / Where No Eagles Fly

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お馴染の『劇的ビフォアアフター』のナレーションがすかさず会場に響き渡る。なんということでしょう! 無数の鋲が打ちつけられた漆黒のライダース・ジャケット! まさに時代錯誤とはこのことではありませんか! ヴィジュアルだけでなく、肝心のサウンドに関しても、誰もが呆気にとられるか、笑い出すか、言葉を失うか。おそらくそんなとこ。だが、最高にエキサイティング。因みにこのクリップを観た直後の、我が友人ニコラ・テスラによる140文字がこれ。「あまりに酷すぎて笑った。1分50秒くらいからスクリレックスみたくハーフ・リズムになるし、ミスフィッツのTシャツ着てるし。曲もPVも最強&最狂に酷い。最高すぐる」。なかなかに的確ですね。

ところが、よせばいいのに、続いてこんな余計なことも呟いた。「この2014年にまともにロック音楽をやろうとしたら、スプーン新作みたく知識と愛情と新しいアイデアを駆使する以外はほぼ100%ゴミみたいなものしか出来ない。でも、ジュリアン・カサブランカスはむしろロック音楽がゴミでしかないことを逆手に取った。これ以上のゴミはない。マジ最高」。ふむ、これは少しばかりレトリックに頼りすぎ。山崎洋一郎じゃないんだから。それにしても、「酷い」と、「ゴミ」の大安売りだ。

だが、もう一度目を凝らし、耳を澄ませば、このPVをゴミと呼びたくなってしまう理由が見えてくる。それはこの1曲の中に詰め込まれた、おびただしい数のヴィジュアルやサウンドの引用だ。VHSのヴィデオテープ的な荒んだ質感、ヴィンテージなエレクトロニクス機材の使用、チープなシンセ・サウンド、70年代半ば~80年代初頭を思わせるフォントやロゴのデザイン、やはり同時期の『ウォーリアーズ』や『ブレイキン2』といった映画を意識したスタイリング。そう、埃まみれの屋根裏部屋から見つけ出されたかのようなおびただしい数のゴミ。どことなくバッド・テイスト、どことなくロックとディスコと黎明期のヒップホップがせめぎ合っていた時代のテイスト、という共通点がなくもないが、基本的にはありえない組み合わせ。つまりここには、誰もがとても使い道がないと思っている埃を被ったアイデアを掻き集め、組み合わせることで新たに再定義しよう、という明確な意図がある。

果たして、アルバム『ティラニー』はまさにそんなレコードに仕上がった、というわけ。ただ、ここでのジュリアン・カサブランカス&ザ・ヴォイズの場合、(例えば、ベックのように)掻き集めたゴミの山にひとつの方向性や文脈を見いだして、そこに新たな文脈や意味を与えようとはしていない。むしろ、敢えて未整理で、無軌道なままの情報のオーヴァーロード状態を生み出そう、そうすることによって、誰もが作ったことのない壮大なゴミを作ってみよう、ここにあるのはむしろそんなアイデアだ。まず間違いない。

では、改めて。ゴミの定義とは何か。もとの文脈から切り離されて、以前にはあった意味を失ってしまったもの、それがゴミ。逆から言うと、誰もがそこから何かしらの意味や文脈を見いだせないほど奇妙で、途方もないもの、それがゴミ。これは何? 情報量多すぎ。わけがわかんない。音楽としてどこを楽しめばいいわけ? 彼らはどこまでも意識的にそんなレコードを作った。

まずとにかく音が悪い。メタリックで、ノイジーで、インダストリアルで、耳障り。音のバランスもかなりありえない。基調トーンは、ひたすら凶暴で、どこか冷笑的。勿論、音楽的な参照点はいくつも見いだせる。特にリズムに関しては、メンバーからも、エルメート・パスコアール、コンゴトロニクス、ダーダー・バンドといった具体的なリファレンスが挙がってもいる通り、南米やアフリカからの刺激を聴き取ることが出来る。だが、その影響下で何かひとつの形式を練り上げようとしたというよりは、いくつもの刺激がハレーションを起こして、きちんと機能しない場所をわざとたぐりよせたような印象。かなり未整理。そのカオティックさで言えば、ジョン・マクラフリンが弾きまくっていた70年前後のエレクトリック・マイルスや、ジェイミー・ミューアが参加していた72年のキング・クリムゾン辺りを連想することも出来る。ただ実際は、それをグレン・ダンジグ抜きのミスフィッツとタイ・セガールの混成バンドがカヴァーしようとして、すっかり収集がつかなくなった状態を想像した方が近いでしょう。て、あまり想像つかないか。いずれにせよ、『ティラニー』を聴いた誰もが目が点になるはず。

じゃあ、取りあえず位置付けてみますか。曰く、ポップとは使い捨てだ、という例のクリシェに倣うなら、この『ティラニー』は、使い捨てられる以前に、誰もが使いあぐねてしまうような、どこまでも奇妙で、手に負えないレコード。アウトサイダー・アートにも似た、日常の中でどう使っていいのか、途方に暮れてしまうような作品。ここにはフライロの新作『ユー・アー・デッド!』のような明確な引用、理路凄艶とした音楽的/歴史的な文脈はない。エイフィックス・ツインの新作『サイロ』のようにすんなりとディスコグラフィの中に収まってくれる安心はない。くるりの新作『THE PIER』のような完成度とはおよそ無縁だ。それゆえ、誰もが口にすべき言葉が見当たらず、途方に暮れてしまうような作品だと言っていいだろう。

それゆえ、誰もがその存在やアイデアに気も止めず、その意図に理解しようとすることもなく、見過ごしてしまう可能性にさらされている。この島国における孤独なレジスタンス、曽我部恵一が渾身の力を込めて作り上げた『超越的漫画』や『まぶしい』という二作品がどうしようもない無関心にさらされたように。ぷんすか。

しかし、もし冒頭の1)において記した理想的なポップの定義が何かしらの意味を持っているとして、この『ティラニー』ほど見事にそのすべてを満たしている作品もない。矮小なフラストレーションや不安を解消してくれるポルノグラフィにもならず、資本や政治や欲望の傀儡にもならずに、具体的な問いかけや告発を宿しつつ、圧倒的な衝撃と興奮を聴く者に感じさせるような作品。何よりも、心優しい好事家たちの楽しい酒の肴になるには、あまりにエクストリームすぎる。最高なわけです。ただ最大の問題は、2)や3)、4)で記したように、もはや誰もそんなもの求めていないかもしれない、ということ。もし仮にそうだとすれば、こんな駄文をだらだらと書き連ねたところでまったくの無駄だということ。実際、ここ数年ずっと、無駄だ、無駄だ、とパフォーマティヴ面した言葉がいろんなところから飛んできてる気もしないではない。でも、書く。アホ面ぶら下げて、さらに書く。何故なら、2+2=5ではないから。

回想シーン1>>>

10代の終わり頃、初めてヴェルヴェット・アンダーグラウンドの2ndアルバム『ホワイト・ライト/ホワイト・ヒート』を手に入れた時――確か万引きだったと思いますが――とにかく心底後悔したことを思い出します。スピーカーから流れてくるサウンドはノイズまみれで、起伏らしい起伏もなし(と、当時は感じました)。不幸なことにプレスの悪い盤に当たったせいもあった。それ以上に、事前情報として、ロックの狂気だの、ドラッグの効果だの、嘘八百を叩き込まれていたせいもあったと思います。とにかくまったく理解出来ない。聴いても聴いてもわからない。つまり、音楽的な文脈を何ら自分自身の中に持ちえなかったのです。あの時の残念すぎる気持ちは今も忘れられません。せっかく盗んだのに。

だが、本当に手に入れる価値のあるレコードというのは、時としてそんな風にやってくるものなのです。

もしあなたが、この『ティラニー』というレコードの途方もなさに耐えきれなくなったなら、「救いようのない失敗作」と呼びさえすれば、すぐに楽になれるので大丈夫。そう断言する勇気がなければ、無視してしまえばいい。何かを排除したり、何かを無視することで、「ああ、これでいいんだ」と肩から重い荷を降ろすこと。これほど満ち足りたオーガズムをもたらす瞬間はないわけです。しかし、音楽を聴くことの最大の楽しみと喜びというのは、「わかった!」というオーガズムの誘惑に屈することなく、聴き手の創造性がもっとも縦横無尽に浮かび上がるもっともエキサイティングな場所――「わからない」という場所に立ち止まること、その屈託を楽しむことなわけです。童貞にはわかんないよね、ごめん。

ところが、今、誰もが「用意された文脈」に沿って、ポップ音楽を聴いている。この際、文脈でも物語でもキャラでも何でもいい。で、所謂アイドル音楽のファンダムを例に取るまでもなく、音楽はむしろ、そうした文脈や物語の添え物でしかない。用意された、という言葉に語弊があるなら、自分自身が引いたと思い込んでいる、と言い換えましょう。で、「用意された文脈」というのが何かと言えば、まさにポルノグラフィなわけです。オートマティックに、ひとり勝手に、達しているだけ。すかさず「♫イッツ・オ~トマ~ティック」と宇多田ヒカル。つまり、既存の文脈に沿って、音楽を聴くなんて、音楽を聴いてることにはならないんですよ。と、自分自身の逃げ道も封じておきます。

厳密に言うなら、聴くことはすなわち、自分だけの文脈をそこに作り上げること。逆説的に言うなら、音楽についてもっともらしいことを語るための最適な方法は、聴かないこと。実際の音に耳を傾けずに、作家の意図、これまでの経歴、時代性辺りを手がかりに、わかりやすいイメージに翻訳してやればいい。与えられた文脈に乗ってやればいい。これは本や映画も同じ。読んだり、観ない方がいい。実際、誰もが語る以前に、誰もがこんな風に見たり、聴いたり、読んだりしている。与えられた文脈や意味に沿って、好き/嫌いという線引きを引くことで快適なコクーンを作り上げ、各々がその中で安心している。もしそうだとしたら。ちょっとぞっとしませんか。

ディストピアを築き上げるのは帝国でも専制君主でもありません。百歩譲って、企業やテクノロジーでさえない。ディストピアを築き上げるのは、快適な檻での暮らしを求める奴隷たち。アーキテクチュアをアーキテクチュアたらしめるのは、それを設計したエンジニアや黒幕ではない。それに従っているという意識もないまま、ひたすら受動的に流されることで、ゲームの規則を確固たるものとして築き上げようとしている私やあなたです。

もし、この『ティラニー』というレコードが何かしら抵抗しようとしているものがあるとすれば、それはまさにこうした倒錯した状況に対して、と言っていいでしょう。

つまり、この『ティラニー』というレコードは、どこかにいるだろうクリエイティヴな耳を持った聴き手の存在を信じて、未来という海に向けて投瓶通信のように投げ込まれた、「あんたがこいつに文脈と意味を好き勝手に見いだしてくれないか?」というメッセージなのです。でなければ、何度かこのレコードを聴き終えた後、もっとも記憶に残っているのが、あまりに凶暴極まりないテクスチュアの中から時折頭を覗かせる、とても切なげなメロディの美しさだということ、その説明がつかないのです。と、好き勝手な導線をひとつ引いておくことにしましょう。

つかの間の慰みを求めて、今日も心優しい奴隷たちがポップ音楽を楽しんでいます。勿論、この書き手も奴隷のひとりです。件の青年オルキヌス・オルカはまたどこかに行ってしまいました。弘中綾香は彼女なりに自らの仕事を懸命にこなしている。ねえ、タモリさん。実際、こんなにも実用性に富んだ音楽ばかり、しかも、それが至れり尽くせりの状態で供給され続けるこの世界は間違いなく楽園だと言っていい。しかし、ジュリアン・カサブランカス&ザ・ヴォイズは、「ポップ」の名において、偉大なる専制君主として、われわれ無意識の奴隷たちの前に君臨すべく、この『ティラニー』という途方もない新秩序を打ち立てました。裸の王様として見過ごされ、嘲笑されるというリスクに身をさらしながら。この傲慢で、無慈悲なる為政に対し、われわれ数多の聴き手は、創造性と覚醒という名のレジスタンスとして今こそ立ち上がるべきだと思うのです。




「ジュリアン・カサブランカス interview
『安心と慰めに対するプロテスト、
未来からのビザールなラヴ・レター』」
はこちら



「総力特集:
ゼロ年代を変えたストロークス、
その頭脳、ジュリアンの頭の中」
はこちら


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