今振り返ると、英国インディの歴史においてブリットポップは特異な現象だったと言っていい。現代アーティストのダミアン・ハーストやデザイナーのアレキサンダー・マックイーンから映画『トレインスポッティング』に至るまで、様々な分野で新世代/新たな表現が台頭した90年代半ばのイギリス。その中で音楽におけるユース・カルチャーの爆発が、当時を代表するメガ・ポップ・アクトであるスパイス・ガールズと、ブリットポップだった。
ビートルズやキンクスの時代にまで遡り、若くフレッシュな感性でブリティッシュネスを再定義したギター・バンドたちは、時代の機運に乗って次々とメインストリームへと進行。その牽引役だったブラーやオアシスはもちろん、オックスフォードのはみ出し者たち=レディオヘッドやスーパーグラス、そして諧謔的なシンセ・ポップで80年代前半から細々と活動していたパルプまでもが華やかな舞台に押し上げられた。当時はすべてが飛ぶ鳥を落とす勢い。語弊を恐れずに言えば、ブリットポップは英国インディでもっとも幸福な時代のひとつだろう。
だが、97年には早くもブリットポップに暗雲が立ち込める。トニー・ブレア政権が打ち出した国家ブランド戦略=クール・ブリタニアに取り込まれ、ブリットポップは政治と経済の道具に成り下がってしまったのだ。熱狂の中で足元をすくわれたブリットポップが、その後の英国インディに落とした影は大きい。詳しくは以下の鼎談を参照してもらいたいが、00年代初頭に登場したリバティーンズ、そして現在のサウス・ロンドン・シーンにおける徹底した現場主義は、ブリットポップの失敗を反面教師としたDIYへの回帰だと言っても過言ではない。
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鼎談:仲真史×照沼健太×田中宗一郎
20年続くブリットポップの後遺症から
英国ロックは解放されるのか? 前編
00年代以降のバンドたちがブリットポップの「後遺症」と如何に向き合っているかは、上の対談で詳細に語られている。では、ブリットポップの当事者たちは、如何にその「後遺症」を乗り越えてきたのか? あの熱狂から20年余り。多くのアーティストがシーンの表舞台から姿を消した中、今もなお注目すべき表現を提示し続けているアーティストたちを紹介していこう。彼らの作品と活動はブリットポップに対する贖罪の季節をとっくの昔に後にして、更新され続ける現代的なサウンドを取り込みながら、世の中を悩ませる2010年代的なイシューにしっかりと向き合っている。
スーパーグラスはブリットポップ全盛期に鳴り物入りでデビューした時代の寵児だった。と同時に、多くのバンドが徒花として消えていくのを尻目に、アルバムを重ねるごとに着実な進化を遂げてきた数少ないバンドの一組でもある。その理由は、ビートルズやキンクスはもちろん、戦前のブルーズやソウルやブリティッシュ・サイケから、ディスコ、スカ、トラッド・フォークまでを掘り尽くした徹底的な音楽至上主義。確かなバンド・アンサンブルとズバ抜けたソングライティング能力を武器に、彼らは2010年の解散までポップ・ミュージックの熱心な探究者であり続けた。
スーパーグラスのフロントマン、ギャズ・クームスはソロになってからもその姿勢に揺るぎはない。いや、バンドという制約から解放され、一人ですべての楽器を演奏するスタイルになってからは、より自由な音楽的冒険に踏み出している。その最初の大きな成果は、スーパーグラスのデビュー・アルバム『アイ・シュッド・ココ』(1995年)以来となるマキュリー賞ノミネートを成し遂げた『マタドール』(2015年)。ここでは彼の多彩な音楽的ボキャブラリーが、成熟した味わい深い演奏によって血肉化されている。
そして、2018年5月4日にリリースされた最新作『ワールズ・ストロンゲスト・マン』も、ギャズの才気と探求心がいまだ衰えていないことを証明する作品だ。例えばこの“ディープ・ポケット”は、近年のギャズのトレードマークと言える、リニアなクラウトロック的ビートで疾走するナンバー。大胆な音の抜き差しはそのサウンドに強烈なダイナズムを生み出している。
打って変わって、“ウォーク・ザ・ウォーク”はBPM78のブレイクビーツに乗せ、ギャズがソウルフルなファルセットを聴かせるファンキーなトラック。これは、ギャズ流のヒップホップ解釈と捉えることも出来るだろう。
本作を語る上では、アルバム・タイトルとリリックのテーマについても触れないわけにはいかない。「世界でもっとも強い男」という逆説的なタイトルが示唆するように、このアルバムは2018年における男性性を問う作品でもある。ブラック、女性、LGBTの表現に大きな注目が集まる今、白人の男性として自分は何を表現出来るのか?――そうした困難な問題にも真摯に向き合おうとしているギャズは、今もなおアクチュアリティを失っていない。
海の向こうのグランジ/オルタナティヴの猛威に対抗すべく、60年代からの英国文化を総動員した新しい「ブリティッシュ・サウンド」を創出する――それがブリットポップの音楽的アイデアだったとすれば、もちろんその中心にいたのはブラーだ。しかし、自らそのアイコンを買って出たところがあっただけに、ブリットポップ終焉後に、もっとも強い内省を見せたのもブラー、とりわけフロントマンのデーモン・アルバーンだった。
ブリットポップの強固な英国中心主義は、言うなればナショナリズムと紙一重。だからこそ、ブリットポップ衰退後の反省を踏まえたデーモンは、イギリスの外側へと目を向けている。ソロではトニー・アレンやマリのミュージシャンたちとの共演でアフロ・ミュージックを探求。ゴリラズではジャンルや世代を超えた多彩なゲストを召喚し、独自のグローバルなポップ・サウンドを打ち出している。2017年にゴリラズとしてリリースした『ヒューマンズ』は、ヴィンス・ステイプルズやドラムといった旬のMCから、ジェイミー・プリンシプル、ノエル・ギャラガー、グレイス・ジョーンズまでを招集した、デーモン流のグローバル・ポップの最新型。最早それがライフ・ワークであるかのように、彼はブリットポップの幻影ともっとも真摯に向き合い続けている。
改めて言うまでもなく、ブリットポップが生んだ最大のモンスター・バンドはオアシスだ。しかし、ブリットポップ期の初期二作が破格の傑作であったがゆえに、その後は何よりも偉大過ぎる自らの「過去」を重圧として背負うことになる。初期二作と較べて今度のオアシスはどうなのか? と。
実際、中期以降のオアシスがいまいち精彩を欠いた理由のひとつは、いかにも成金趣味のゴージャスなプロダクションに手を出してしまったことだろう。ノエル・ギャラガーが90年代最高のメロディメイカーの一人であることに疑問を差し挟む余地はないが、ひたすら仰々しいだけの刺激に欠けたサウンドはどうにも歯がゆいものがあった。何度かの紆余曲折は経ているものの、基本的にそうしたプロダクションの志向はノエルのソロにも引き継がれていた。
しかし、2017年にリリースされたノエルの最新作『フー・ビルト・ザ・ムーン?』では心機一転。ジェイムス・マーフィーの師匠筋でもあるデヴィッド・ホルムスをプロデューサーに迎え、どこまでもサイケデリックな、2010年代版のウォール・オブ・サウンドを作り上げてみせた。間違いなくソロ・キャリアでもっとも冒険的なプロダクションだと言っていい。
ノエル曰く、アルバム冒頭の“フォート・ノックス”はカニエ・ウェスト“パワー”を意識した曲。60年代のバブルガム・ポップ・バンド、アイス・クリーム“ザ・チューインガム・キッド”からフルートのリフをサンプリングした“ホーリー・マウンテン”は、フューチャーやドレイクなどが使用し、一時期ヒップホップで流行ったフルートのループも思い起こさせるだろう(少なくともホルムスは意識していたはず)。ノエルを聴いてカニエやフューチャーを連想する日が来ると誰が思っていただろうか? 彼は今、何度目かのクリエイティヴィティの充実期を迎えている。
ブリットポップのハイライトは1995年の〈グラストンベリー〉で10万人近いオーディエンスが“コモン・ピープル”を大合唱した瞬間だったが、当のパルプは決して生粋のブリットポップ・バンドではなかった。そもそも彼らは80年代前半にキャリアをスタートさせ、なかなか日の目を見なかったグリッターなシンセ・ポップ・バンド。出自も音楽性もブリットポップとは完全に別物だ。
ただ、市井の人々の日常に起こる悲喜劇をウィットに富んだ言葉で描写するジャーヴィス・コッカーのセンスが、英国中で愛されるようになったのは必然だったかもしれない。アンセムとなった“コモン・ピープル”も、男女関係をモチーフに「階級の違い」を面白おかしく皮肉った曲。どんな時もジャーヴィスには、やるせない日常を笑い飛ばすユーモアと報われない人々を慈しむ眼差しがある。
2002年のパルプ活動休止後は、TVコメンテーター、俳優業、出版社での総合監修、そして〈BBC・6・ミュージック〉のパーソナリティなど、アーティスト活動以外が目立っていたジャーヴィスだが、2017年にはゴンザレスとのコラボ作『ルーム29』を発表。数多くのスターが宿泊したハリウッドのホテル、シャトー・マーモントをテーマにした同作には、銀幕の世界の華やかさではなく、その裏に隠された悲哀、あるいは、どんなに美しい夢もいつかは必ず終わることの切なさが込められているように感じられる。モチーフこそ違えど、ジャーヴィスの視点は今も変わっていない。
2018年3月にはソロでのライヴ活動を遂に再開している。そのショーは携帯撮影NG、レヴューNG、本人からのコメントも特になし――という徹底した情報制限の中でおこなわれたので詳細は不明。だが、何かしらの新しい動きの始まりであるのは間違いない。果たしてこの2018年にジャーヴィスは何を打ち出すのだろうか。
ブリットポップ後期の1996年にアルバム・デビューしたスーパー・ファーリー・アニマルズは、イギリス国内でもそのアイデンティティが十分に理解されているとは言い難かった「ウェールズ」という出自に最初から意識的なバンドだった。と同時に、リリックではアインシュタインやカリメロなど無数の引用を散りばめつつ、19世紀以降の西洋社会に対する観察と見直しをユーモラスな形でおこない続けてきたバンドでもある。
中心人物であるグリフ・リースのソロ作にも、バンド時代からの一貫した問題意識が流れている。2015年にリリースした前作『アメリカン・インテリア』は18世紀に米ボルチモアへと単身で渡った実在のウェールズ人、ジョン・エヴァンスの軌跡を追うストーリー。こちらの記事に詳しいが、そこでは繰り返される(そして単純に善悪では語れない)侵略の歴史がユーモアと共に炙り出されている。
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やっぱり誰よりもグリフが凄かった!
この世界的な「動乱の時代」において、
「誰もが決して忘れてはならない視点」を
描いた『アメリカン・インテリア』の凄さ
そして、2018年6月8日にリリースされる最新作『バベルスバーグ』で描かれているのは、英メディア〈モジョ〉によれば「終末の淵に立たされ、トランプ・タワーのような悪に支配されている、新たなバビロン」。かなり不穏なテーマだが、それを敢えて聴き手に安らぎを与えるような、端正で美しい60年代風チェンバー・ポップに乗せるというひねりはグリフならでは。ただ声高に危機を唱えるのではなく、リスナーのイマジネーションに訴えかける形で現代社会に対する問いを投げかけるグリフの姿勢は、今の時代にこそ評価されてしかるべきだろう。