SIGN OF THE DAY

鼎談:仲真史×照沼健太×田中宗一郎
20年続くブリットポップの後遺症から
英国ロックは解放されるのか? 前編
by SOICHIRO TANAKA
MASASHI NAKA AND KENTA TERUNUMA
May 16, 2018
鼎談:仲真史×照沼健太×田中宗一郎<br />
20年続くブリットポップの後遺症から<br />
英国ロックは解放されるのか? 前編

この2018年に至るまで、なぜ英国インディは長らく低迷していたのか? そして、なぜサウス・ロンドン・シーンはその停滞を打ち破って活況を呈することになったのか? その理由を説明するのは決して簡単ではない。少なくとも、過去数年の動きを近視眼的に振り返っただけではすべてを説明することは出来ないだろう。我々はもっと長いスパンで歴史を見渡す必要がある。

そこで本稿では、90年代半ばのブリットポップを重要な分岐点と捉え、ブリットポップ以前/以降という観点から英国インディの歴史を改めて振り返ることにした。ブリットポップ到来で英国インディは如何に変わったのか、そしてブリットポップはのちの英国インディにどのような影響を及ぼしたのか――こうした形で歴史を再考することで、また新たに見えてくることがあるはずだ。

結論を急ぐと、以下の鼎談では〈NME〉が1986年に編纂したカセット・コンピレーション『C86』を英国インディにおける重要な起点のひとつと位置づけている。最初期のプライマル・スクリーム、パステルズ、ウェディング・プレゼントなど、パンクの洗礼を受けたジャングリーなギター・ポップ・バンドたちがパッケージングされた同作が、アンダーグラウンドに息づく当時の英国DIYカルチャーの秀逸なドキュメントであったことは改めて言うまでもない。少なくとも80年代までの英国インディは、パンク以降のDIY/インディペンデント精神を継承したバンドたちを指す言葉であり、メインストリームに対するカウンターカルチャーという側面も強かった。

だが、90年代のブリットポップで、インディは完全にメインストリームの一端を担うことになる。オアシスはネブワース2日間のライヴで25万人を集めるメガ・バンドとなり、ブラーはブリットポップの顔としてアイドル的な人気も博した。パルプは“コモン・ピープル”の大ヒットで瞬く間にお茶の間の人気者へと駆けのぼり、ストーン・ローゼズの代役で急遽出演した〈グラストンベリー〉ではヘッドライナーとしてメイン・ステージで大合唱を巻き起こした。商業的にもこの時代が英国インディのひとつの頂点だと言って間違いない。

ただ、この狂騒が残した負の遺産を挙げるならば、97年のトニー・ブレア政権発足後、ファッション、アート、音楽などのユース・カルチャーを推進する国家ブランド戦略=クール・ブリタニアに巻き込まれていったことだろう。ノエル・ギャラガーやアラン・マッギーがブレアと握手をしている写真を覚えている人もいるかもしれない。この時、浮足立った英国インディは政治や経済の道具として国家に取り込まれてしまったのだ。

このブリットポップが英国インディに落とした影は大きい。2000年代初頭に登場したリバティーンズがファンと直接的に繋がる現場のコミュニティを重視し、ビッグになってからもパブでのライヴを続けていたのは、ブリットポップに対する反動だったと言っても過言ではない。リバティーンズを筆頭とする初期イースト・ロンドン・シーンは、英国インディにDIY精神を取り戻そうとする動きでもあったと位置づけられるだろう。

そして、現在のサウス・ロンドン・シーンは、リバティーンズの時代よりもさらにDIY志向と現場主義が強いムーヴメントである。なぜこのような発展、もしくは批判的な継承が起きているのか。結局のところ、ブリットポップの幻影を完全には拭い切ることが出来なかったイースト・ロンドン・シーンを経て、現在のサウス・ロンドン・シーンはどのような可能性と課題を持っているのか――駆け足となったが、こうしたところまで鼎談の話題は及ぶこととなる。

この鼎談に参加したパネラーは、80年代から英国インディを熱心に追いかけ、90年代以降はDIYの輸入レコード・ショップのバイヤー/オーナーとして日本のリスナーにシーンの最前線を伝え続けている原宿〈Big Love〉の仲真史、主にゼロ年代以降のインディの変遷をリアルタイムで見つめてきたライターの照沼健太、そして司会も兼任する〈サイン・マガジン〉の田中宗一郎。この3人の対話からは、あるひとつの興味深い英国インディ史観と、「イギリスの今」を考える上での何かしらのヒントが立ち上がってくるに違いない。(小林祥晴)




>>>自分にとっての「英国インディ」を定義した音楽は何か?

田中宗一郎(以下、田中)「この鼎談では、80年代から現在のサウス・ロンドン・シーンに至るまでの英国インディ・シーンの変遷を追っていきますが、その真ん中に90年代半ばのブリットポップを置いてみたいと思います。先日、〈サインマグ〉では、2018年現在、明らかに活況を呈しているサウス・ロンドン・シーンの当事者たちにインタヴューをする短期連載特集も組ませていただいたんですが」


【短期集中連載①】英国インディ・ロックの
新たな震源地=サウス・ロンドンの実態を
その当事者に訊く:シェイム編


【短期集中連載③】英国インディ・ロックの
新たな震源地=サウス・ロンドンの実態を
その当事者に訊く:ソー・ヤング編


田中「ここでは英国インディがブリットポップを迎えてどう変わったのか、そしてブリットポップがその後の英国インディにどういう影響を及ぼしたのか――ということを俯瞰的に眺めることで、また違った角度から『イギリスの今』について考えるのが狙いです」

仲真史(以下、仲)「わかりました」

田中「なので、最初はブリットポップ以前のことから話を始めさせてください。まずは個人的な質問です。自分自身を定義したイギリスのインディ・ミュージックを挙げるとすると何になりますか? その出会いから教えてください」

仲「僕は小6くらいの時に、〈FM STATION〉という雑誌で〈ビルボード100〉を下から見ていって、その中で日本盤が出ているものはどれか、全部チェックしていたんですね。そこに小さくイギリスのチャートが載ってたんですけど、知らないものばっかりだったので、『これ、何なんだろう?』って興味を持ち始めたんです。それまで外国のものは全部一緒だと思っていたんですけど、そこから意識的にイギリスのやつを買ってみようと思いましたね。ちょうどYMOの流れでジャパンとかも好きだったんですけど。ドリーム・アカデミーとか、アズテック・カメラとか、ネオアコっぽいものが出てきて、ラジオでもかかっていた時期です」

田中「タイミング的には82、83年ですか?」

仲「そうです。それが全部イギリスだったんで、そういう流れがあるんだと気づいて、関連の雑誌を買い始めたっていう感じです。当時はロンドンが流行っていたじゃないですか。その絡みで音楽を聴き始めたんですよね」

田中「パンクがニューウェイヴ/ポストパンクに移行していく過程で、ロンドンという街自体に注目が集まっていた時代ですよね。照沼くんの場合はどうですか?」

照沼健太(以下、照沼)「僕が所謂インディと呼ばれる音楽を聴き始めたタイミングは97、98年ですね」

田中「つまり、ブリットポップが終わって、レディオヘッドが『OKコンピューター』(1997年)をリリースしてから一気にプロップスを高めていった時代」

照沼「そうです。ただ、『UKロック=暗いのしかない』みたいな言われ方をしていた時代だったこともあって、リアルタイムのUKインディは聴いていませんでした。2001年にストロークスが出てきて、翌年リバティーンズがアルバムを出してから、ようやくイギリスの音楽をリアルタイムで聴くようになったという感じです。それ以前は、まずは歴史を遡ってビートルズやセックス・ピストルズから聴き始めていましたね」

田中「その時期、英国インディに対する自分のテイストを決定づけたアーティストを何組か挙げてもらってもいいですか?」

照沼「やっぱり、まずはリバティーンズですね。彼らが僕の中ではインディというもののイメージを決定づけたアーティストです。音楽的なテイストでは、ベイビーシャンブルズの1st『ダウン・イン・アルビオン』(2005年)ですけど。例えば“ペントンヴィル”っていう曲は、ラガっぽいビートをフィーチャーしていて、彼らは所謂ロックだけではなかった。“ファック・フォーエヴァー”も、当時エレクトロが盛り上がってたのと呼応していた感じがします。もちろんリリカルでもあって。広がりがあるのがよかったですね」

Babyshambles / Fuck Forever


田中「仲さんは80年代前半で、自分のテイストを決定づけたアーティストを幾つか挙げるとすれば?」

仲「当時は輸入盤屋もろくにないくらいの時期なんですけど。個人的には、マイクロディズニーの2ndアルバム(『ザ・クロック・カムス・ダウン・ザ・ステアーズ』、1985年)、プリファブ・スプラウトの『スティーヴ・マックイーン』(1985年)、あとジューン・ブライズっていうバンドのアルバムとシングル。そういうのでイギリスっていうものを強く意識したと思います」

Microdisney / Birthday Girl

Prefab Sprout / When Love Breaks Down


仲「当時はMTVが盛り上がってた時期だったので、僕も影響されてカーズとかを聴いてたんです。でも、今名前を挙げたようなバンドは音作りからしてMTV的な音楽に対するカウンターだったので、一気に夢中になりましたね。MTVの煌びやかな感じがみんな好きだったはずなのに、突然モノクロの暗い、曇り空のジャケットになっていって。外国のセンチメンタルなムードをこっちが勝手に受け取るみたいな感じがあったと思います」

田中「それが85年辺りですよね。そういった流れに自分自身の音楽的なテイストも影響を受けたという実感はあるのでしょうか?」

仲「そうですね。当時はヴァン・ヘイレンの“ジャンプ”とかが流行っていて、ギター・バンドでもシンセが鳴っているのが主流だったんです。純粋なギター・バンドというのは街では流れてなかったんですよ。だからこそ、逆に夢中になっていきましたね。その感覚は自分の中に残っていると思います。そこから〈C86〉が出てくるわけですけど、まさにあれから今まで、インディと呼ばれるものはずっと繋がっているんじゃないでしょうか。自分もその視点からずっと音楽を聴いている感じがしますね」

V.A. / C86 - Compact Digital Edition



田中「なるほど。読者向けに説明すると、〈C86〉というのは〈NME〉がコンパイルして、当初はメール・オーダーのみで販売したカセットですね。すぐレコードも発売されましたが。CはカセットのC、86は1986年の86。その年に話題となっていたインディペンデントのギター・バンドを中心に全22バンドが収録されていて、プライマル・スクリームやパステルズ、ウェディング・プレゼントなども紹介されていました」

仲「その通りです」

田中「そこに収められたバンドや音楽は、仲さんにとっても大きいし、英国インディを規定した大きな動きでもあるということですよね。照沼くんは後追いだと思いますけど、その辺りについてはどういう印象ですか?」

照沼「僕がリバティーンズを聴いていたのも、当時のインディ文脈というより〈ロッキング・オン〉〈スヌーザー〉の流れだったんです。あの頃の音楽雑誌って、〈C86〉の流れは基本的に無かったものとして扱っていたじゃないですか? でも、インディ系のクラブに通うようになると、僕より若い世代の子はその辺まですでに遡っていて、詳しいんですよ。僕としては『これ、何なんだ?』っていう感じでした。なので、その頃の音楽は後からかじった程度ですね。僕が聴き始めた頃は、『80年代=悪しき時代』みたいな風潮があったんですよ。よかったのはプリンスとスミスだけだった、みたいな」

田中「〈ロッキング・オン〉史観ですね(笑)」

照沼「その影響を多大に受けてると思います(笑)」

田中「仲さんが渋谷・宇田川町の輸入レコード・ショップ〈ゼスト〉のバイヤーになって、音楽やそれにまつわる情報を受け取るだけではなく、伝える側になったのは何年くらいでしたか?」

仲「91、92年くらいですね」

田中「その時にも、〈C86〉からの流れというのは重要な位置にあったのでしょうか?」

仲「そうですね。僕はそこがベースになって音楽は流れていると思っていたので。その頃にはもう〈ビルボード〉を一切見なくなったっていうのもあるんですけど。自分でも売り始めたのは〈クリエイション〉がドンっときてた時でしたけど、あれも完全に〈C86〉からの流れですしね。ダンスにしても、プライマル・スクリームが『スクリーマデリカ』(1991年)を出していましたし」

田中「91年というと、ちょうど『スクリーマデリカ』とマイ・ブラッディ・ヴァレンタインの『ラヴレス』が出た年ですが、〈C86〉から91年までの間で、重要なレコードやアーティストを3つ選べと言われたら、何を選びますか?」

仲「まずはプライマル・スクリームの1st『ソニック・フラワー・グルーヴ』(1987年)ですね。僕、リアルタイムでは売切れちゃってて買えなかったんですけど。みんな、あれが基本のベースにあったと思います」

Primal Scream / Gentle Tuesday


仲「その後は、マイブラのEP『ユー・メイド・ミー・リアライズ』(1998年)が大きかったですね。ここで何かが変わった、ここから何かが起きる、っていうのは感じました。それはマンチェ前の瞬間の、ほんの数ヶ月ですけど。みんなそのシングルを買いに行って。一枚目のアルバム『イズント・エニシング』(1988年)は、(1987年にリリースしたシングルの)“ストロベリー・ワイン”とかが好きだった人は嫌がってましたけど。『ドラマーが変わったからだよー』とか言ってたりして」

My Bloody Valentine / You Made Me Realise


仲「あとは〈サラ・レコーズ〉のシー・アーチンズとか、〈C86〉をもっとDIYにしたバンドやレーベルが幾つかあったんですよね。ヴァセリンズのシングルは衝撃的でしたし、そういうのを高校生の僕は追いかけていたので。でも、ヴァセリンズはハードだしガレージだし、『これ、イケてんのかどうか、わからないな』っていう部分もあったんですよ。でも、東京に来てみたら、みんな好きだって言ってたんで、『あっ、正しかったんだ』って」

The Vaselines / Molly's Lips




>>>マッドチェスター、ブリットポップで「英国インディ」は分断されたのか?

田中「その後、インディ全体でいうと、マッドチェスター/インディ・ダンスがあって、シューゲイザーがあって、やがてスウェード辺りを挟んでブリットポップへと移行していきますよね。その辺りの変遷はどう見ていましたか?」

仲「当時、僕がつるんでいた音楽仲間が30人くらいいたんですけど、マンチェで3分の1になったんですよ」

田中「なるほど。『なんか違う』と感じた人たちが、かなりいたということですよね。その頃から、〈C86〉とはまた別の流れが出来たとも言えるのでしょうか?」

仲「でも、その辺りは僕の中ではある程度繋がっているところがあって。ブリットポップのバンドとして名前が挙がるパルプも1st『イット』(1983年)の頃から好きでしたし、ブレイクした時も『あのパルプ?』みたいな感じでしたから」

田中「なるほど」

仲「逆にレディオヘッドは、一枚目のシングルとか“クリープ”はすごくいいと思ったんですけど、『こいつは違うところから来たな』って受けつけない部分も正直あったりして」

田中「実際、レディオヘッドはイギリスの音楽シーンの流れからはみ出したところから出てきたバンドだと思います」

仲「マンチェは基本的にどのバンドも〈C86〉の流れから来ていて。〈C86〉系のバンドがいきなり、みんなワウ・ギターを使い始めるっていう。それか、スープ・ドラゴンズみたいな偽物が怒られていたり(笑)。そのどっちかでしたよね。みんなダンス系の音になりましたけど、シーンとしては互いに仲がいいっていう感じでもなくて。当時、たくさんその手のレコードを扱って売ってましたけど、そういうシーンは見えなかったですね。あれは本当に一年くらいだったので」

田中「あっという間でしたよね」

仲「91年の夏に初めてロンドンに行った時には、もう何もなかった。マンチェをやっているやつはもうダサい、っていう。でも、そういう奴らがまた違うことをやり出すんですよね。例えば、ブラーの1stシングル“シーズ・ソー・ハイ”はすごいマンチェっぽいじゃないですか? でも、その後すぐ変えてきましたよね。そういう感じでずっと繋がっていると思います」

Blur / She's So High


仲「あとは、アメリカの影響も結構あったと思います。91年に行った時は、グランジの影響で、『アメリカが偉い、一番すごい』みたいな感じで。それをイギリス人がマネているっていう。ティーンエイジ・ファンクラブとかそうだったと思うんですけど」

Teenage Fanclub / Star Sign


仲「パステルズが89年に、自分のレーベル〈53rd & 3rd〉からソニック・ユースとかレッド・クロスとか、アメリカのその辺のバンドを混ぜたコンピを出していて(『グッド・フィーリング』)。当時、その辺りのレーベルが〈Kレコーズ〉のイギリス流通をやっていたんですよ。だから、当時は〈ラフトレード〉で〈K〉のカセットをめちゃくちゃ買っていました。だから、アメリカとの繋がりっていうのもずっと流れとしてはあったんじゃないですかね」

田中「実際、91~93年くらいが、一番アメリカとイギリスがクロスオーヴァーしているタイミングですよね。わかりやすいのが92年の〈ローラーコースター・ツアー〉。ダイナソーJrとマイブラとブラーとジーザス&メリーチェインが一緒にツアーを回るっていう。今考えると、とても象徴的だと思います」

Rollercoaster Tour



>>>イギリスとアメリカで分断が起こったのはいつからか?

田中「これはLCDサウンドシステムのジェームス・マーフィーが言っていたことなんですけど、91、92年くらいまではイギリスとアメリカの音楽はクロスオーヴァーして影響を与え合ってたと」

仲「ええ」

田中「でも、その後、両者は分断されていったと言うんですね。91年はニルヴァーナの『ネヴァーマインド』がリリースされて、アメリカでグランジ人気が爆発した年です。一方のイギリスでは、マッドチェスターの集大成でもあるプライマルの『スクリーマデリカ』がリリースされました。そして92年には、アメリカでドクター・ドレの1st『ザ・クロニック』が出ています」

仲「そうですね」

田中「この辺りから、イギリスとアメリカがあまりクロスオーヴァーしなくなっていったんだと。イギリスはダンス志向になって、アメリカはグランジや、もしくはヘヴィなファンクやヒップホップになっていった。そしてその後、イギリスはブリットポップの隆盛を迎えるわけです。こういったジェイムス・マーフィーの歴史観についてはどう思いますか?」

仲「ジェームス・マーフィーが言うように、イギリスはそこで『俺らだけでイケるやん』となった感じがありますよね。インディって、それまではインディ・チャートっていうのが別にあって、その中でやってたんですよ」

田中「ナショナル・チャートとは別にインディ・チャートというのが〈NME〉や〈メロディ・メーカー〉に載っていて、基本的にインディ・バンドはそこにチャート・インしていましたよね。ナショナル・チャートでも上位に入るバンドは、本当に一握りしかいませんでした」

仲「そうなんです。でも、それが91年頃からガンガン行くようになったんですよね。僕がイギリス行った時も、普通のアイドル雑誌みたいなものの表紙にラーズが載っていたりして(笑)。『こんな感じなの? 本当に売れてるんだな』っていう」

田中「僕がロッキング・オンに入社したのが91年なんですけど、日本のレコード会社がイギリスのインディ・ロックを売るのに力を入れ出した時期だったっていう記憶があります。ちょうど雑誌〈ロッキング・オン〉の当時の編集長だった増井さんがロンドンのメディアよりも早くストーン・ローゼズをフックアップすることに成功した直後でもあって。この時期にさらに〈ロッキング・オン〉はイギリス寄りになっていくんですけど」

仲「だから、当時グランジとか〈サブ・ポップ〉とか、もっとミクスチャーなものとか、ヒップホップもありましたけど、そういうアメリカのものは全然別の感覚で聴いていましたね。その前とは違う感覚がありました」

田中「やっぱり90年代前半が大きな分岐点ですよね」

仲「その後、僕はずっとイギリスをメインで聴いてきたんですよ。ビッグビートもイギリスですし、のちのエレクトロもそうですよね。それとは別にアシッド・ジャズもあったりして、それにもハマってたんですけど。アメリカのインディとかオルタナもたくさん聴いていましたけど、やっぱりイギリス寄りで聴いてきたので、そんなに夢中にはなれませんでした」

田中「その後、再びイギリスとアメリカがクロスオーヴァーしているように感じられるようになったタイミングはありますか?」

仲「ストロークスが出てきた時、『これ、ニューヨークのバンドなんだよね』って言われて、『マジか?!』って思ったのを覚えています。これがイギリスでも売れるんだ、っていう驚きがありましたね。リバティーンズが出てきた時も、『これで大丈夫なの?』っていうか、〈C86〉みたいっていう印象でした」

The Strokes / The Modern Age

The Libertines / Time For Heroes



田中「わかります。僕もそうなんですけど、自分が若い頃に聴いていたものに近いものが出てきた時って、『俺は大好きだけど、これで盛り上がっていいのか?』っていう心理的なメカニズムが働くことがありますよね」

仲「当時はエレクトロクラッシュの時期でもあったので、若い子たちはもっとビートとかエッジの効いたものが好きなんだと思っていましたし、僕もラプチャーが出てきた頃でダンスとかエレクトロの方にいっていましたから。リバティーンズみたいのが受けるのは、最初は理解出来なかったんです。プロデューサーのミック・ジョーンズとか、本当に仕事してんのか? って感じで(笑)。実はめちゃくちゃしてるんですけど。だから、僕がすごく好きな音なんだけど、その時は受け入れられなかったんですよね。実際、ストロークスとか、ニューヨークのバンドに対するカウンターでもあったんでしょうけど」

照沼「そうですね」

仲「なので、僕が理解出来たのは、ベイビーシャンブルズが結成された頃ですよ。エディ・スリマンと同じくらいのタイミングで、『あ、わかった!』って(笑)。イギリスのインディ音楽で、僕が出てきた瞬間に興奮出来なかったのって、その時だけなんですよね」

照沼「ストロークス以降の数年はもう一度リンクしていたかな、と僕も思いますね。ストロークスだって、今ではアメリカでも売れていますけど、元はイギリスの〈ラフトレード〉経由ですし」

田中「〈ラフトレード〉のジェフ・トラヴィスが契約したバンドですよね」

照沼「アメリカ人がイギリスでブレイクして、イギリスで盛り上がるっていうのが、ひとつの伝統文化してあるのかなって思います」

田中「それこそジミ・ヘンドリックスがまず最初にイギリスでブレイクした65年からの伝統(笑)」

照沼「そうです(笑)。ホワイト・ストライプスだって、〈NME〉が盛り上げたわけじゃないですか。それで3rd『ホワイト・ブラッド・セルズ』(2001年)でブレイクしたっていう」

田中「そうですね。彼らは90年代後半からずっとアメリカでインディとしてやっていたバンドでもありますけど、大々的に発見されたのはやはりイギリス経由だった」

照沼「それで、インターポールとかが今度はニューヨークから出てきた。リバティーンズとかイースト・ロンドンのバンドが盛り上がると同時に、“ザ・~ズ”みたいなバンドがアメリカでも増えましたよね。そういうのが曲解されて、のちにキラーズみたいな面白いバンドも出てきたりして」

田中「(笑)照沼くんが言うように、ゼロ年代前半にはイギリスとアメリカのクロスオーヴァーに留まらず、欧米諸国でほぼ同時にプリミティヴなガレージ・ロックが脚光を浴びたという流れは確実にあったと思います」



>>>英国インディの停滞とブリットポップ後の「空白」

田中「一気に時代が進んでしまったので、90年代前半に話を戻させてください。92年にはスウェードがデビューしましたよね。例えば彼らは日本のインディ好きにとっては、どういう位置づけだったのでしょうか?〈ロッキング・オン〉は大絶賛でしたけど」

仲「基本的に、〈ゼスト〉は〈ロッキング・オン〉が褒めたら売らないっていう(笑)。宇田川町周辺のお店はそういう感じが多かったすね。『ラヴレス』とかもそうでした。最近お客さんと、『『ラヴレス』のレコードが見つからない』って話していたら、『当時みんな、『ラヴレス』はディスってて買わなかったじゃないですか』って言われて」

田中「ハハハッ! そういった感じはいつから始まったんですか?」

仲「ストーン・ローゼズですね。僕、ローゼズはリアルタイムではちゃんと聴いてないんですよ。当時、『マンチェなんだけど、ちょっとネオアコっぽくて、すごくいい』って褒められているのは知っていたんですけど、聴けなくて。ある時、クラブですごくいい曲がかかってて、『これ何ですか?』って訊いたら、ストーン・ローゼズだったんです。で、その訊いた相手が実はストーン・ローゼズのファン・クラブ会長だったっていう(笑)。その翌日に全部買いに行きましたね」

田中「(笑)じゃあ、英国インディ好きや〈ゼスト〉界隈の流れと、〈ロッキング・オン〉の流れが対立項になってるみたいな感覚はその後5年、10年くらいありました?」

仲「たぶんあったんじゃないですかね。『それ、〈ロッキング・オン〉が褒めてるよ』『じゃあ、ダメだな』みたいなことは普通に言ってましたから。〈ロッキング・オン〉があまり褒めないメンズウェアとかは推してて。でもアルバムが出る前にダメになってきちゃう、っていうこともありましたけど」

田中「(笑)」

仲「雑誌だったら、僕らは〈フールズ・メイト〉だったんですけど、それもなくなったりして。〈ロッキング・オン〉とか〈クロスビート〉はありましたけど、輸入盤のリアルタイム感とは違うから、だんだん対立さえも出来なくなっていった、というのはあるんじゃないですかね」

田中「なるほど」

仲「それからダンスになっていくんですけど、ファットボーイ・スリムは元々ハウスマーティンズでしたし、〈C86〉からの流れで出てきていたから、そっちの方に夢中になっていきましたね」

田中「ファットボーイの1stアルバム『ベター・ライフ・スルー・ケミストリー』は96年ですね。その頃には、仲さんもダンス寄りになっていたと」

仲「実際、イギリスで90年代後半からリバティーンズまでの間に、インディ・バンドで売れているのって、誰かいましたかね?」

田中「レディオヘッドくらいでしょうね」

仲「『OKコンピューター』(1997年)は、『ビースティ・ボーイズのマイク・Dも褒めてたからいいらしい』って話になってたんですよ。で、『うん、確かにいい』って(笑)」

Radiohead / Paranoid Android



田中「あとは、マニックス・ストリート・プリチャーズがずっと続けていて、国民的なバンドになっていった、というのがありますね」

Manic Street Preachers / A Design For Life



田中「ただ、『OKコンピューター』の後はコールドプレイが出て来たり、デビュー時期は武骨なロック・バンドだったトラヴィスがいきなりバラッド・バンドになったりとか、メロウな歌モノバンドが出てきちゃって」

照沼「所謂、叙情系ってやつですね」

田中「チャートに入ってるのはレディオヘッドの劣化コピーばかりで、そおしなべて面白くなかった。トゥーリン・ブレイクスとか」

照沼「だから、僕は聴かなかったんですよね。ミスチルじゃん! っていう」



>>>ブリットポップは英国インディの何を変えたのか?

田中「そんな風にして、90年代後半はイギリスのインディが厳しい状況に置かれることになったわけですが、その直前にはブリットポップという一大ムーヴメントがあったわけですよね。改めて、お二人がブリットポップをどういう実感で聴いていたのか。もしくは、今振り返ってみると、実はこういうことだったのではないか、その後にこういう影響を及ぼしたのではないか、ということも含めて教えてください」

照沼「ブリットポップって、具体的には何年から何年までなんですかね?」

田中「94年から97年くらいですね。オアシスの1st『ディフィニットリー・メイビー』とブラーの『パークライフ』が出たのが94年で、ブラーがブリットポップ後の内省を見せ始めた5th『ブラー』をリリースしたのが97年です」

照沼「それでいうと、僕は通っていないところなんですよね。『トレインスポッティング』(1996年)を観て、こういうのがあったんだ、っていうくらいで」

Trainspotting (trailer)



田中「『トレインスポッティング』もリアルタイムでは観ていませんでした?」

照沼「僕は観ていなかったので、のちにツタヤで借りて観た感じですね。それで、『スクリーマデリカ』を遡って聴いたりとか。今はそんな感覚ないですけど、少し前までのロック文脈って、『一昔前の世代の音楽はダサい』っていうのがあったじゃないですか。だから、僕の中で、90年代の音楽はストロークス以前の、反抗すべき対象みたいな感覚があったんです」

田中「なるほど。先ほども言ったように、オアシスが出てきて、『パークライフ』以降のブラーが本格的に売れ出したのが94年。で、パルプが『コモン・ピープル』で大ブレイクしたのが95年です。仲さんはその流れはどう見てましたか?」

仲「イギリスに行った時、〈クリエイション〉がすごいバンドとサインしたって話題になっていたんです。それがオアシスだったんですよ。聴かせてもらったら、マンチェでも何でもないし、分かんないなって。〈クリエイション〉っぽくないな、と思っていました」

Oasis / Supersonic



仲「ブラーはすごい分かったんですよ。今までのインディを、プライマルとは違う形でアップデートした感じで。オシャレだし」

Blur / Girls And Boys



仲「でもオアシスは、プライマルとかが繊細に積み上げてきたところに、土足でガンガン入ってきた。で、『これでいいじゃん!』って周りもなってしまった感じがしたんです。僕は、『これをやっちゃったら、おしまいじゃん』と思っていましたね。みんな、やれたけどやらなかったことをやってしまって、それを正しいものとさせた感じがありました。個人的にそこに引いてしまったのがあります。それに、すぐデカくなったじゃないですか」

田中「あっという間でしたね」

仲「インディは常にデカいものへのカウンターだったと思うんです。それでいて、いつの間にか無関係のものも巻き込むみたいな感じだった。それが、オアシスの場合は最初からそのステージにいたんですよね。それは今までとは違いましたね。だから、オアシスが〈クリエイション〉を終わらせたっていうのは事実だと思うし、それで美意識みたいなものがズレたっていうのは思います」

田中「確かに。では、パルプのブレイクはどのように見ていましたか?」

仲「パルプは初期からずっと好きなバンドだったんですけど、ブリットポップの時の売れ方は、ストリートから支持されて売れた、っていうのとはちょっと違うかなと。ジャーヴィス・コッカーが『よし! 売れてやる!』っていきなりあのテンションになったのに、みんながウワっと反応したみたいな」

Pulp / Common People



仲「そういうバンドも買っていましたけど、ファットボーイ・スリムとかケミカル・ブラザーズとか、ダンス寄りのものが当時は好きでしたね。そっちの方が色々と混ざってたんで。あとはアメリカでもビースティとか〈グランド・ロイヤル〉があって、そういうものともクロスオーヴァーしていた。そっちの方が自分の感覚には近かったです」

Fatboy Slim / Going Out of My Head



Beastie Boys / Sabotage



仲「でも、プライマル・スクリームとパルプはクロスオーヴァーしていましたし、オアシスもケミカル・ブラザーズと近かったし、シャーラタンズもいましたし、結局は一緒だったのかもしれませんけどね。照沼くんの言うように、ストロークスとかリバティーンズが出てくるまでは、その流れが細い線になっていた気がします。その時代がインディに夢中になれなかった唯一の時代なので、今からでもいいバンドがいれば教えて欲しいくらい(笑)」

照沼「97年以降ですよね? 全然思いつかないですね」

田中「僕も97年くらいは、〈グランド・ロイヤル〉周り、レディオヘッド、〈スキント〉周りのブレイクビーツものに興味が向いてた記憶があります。あとは、テクノやドラムンベース」

照沼「僕は〈スヌーザー〉を買っていましたけど、やっぱりそんな感じでしたね」

田中「仲さんの観点からすると、〈C86〉的なインディの価値観はオアシスの〈クリエイション〉契約で崩壊してしまったわけですよね。では、オアシスの登場以降、90年代半ばから後半にかけて、〈C86〉的な価値観を担保してたバンドやシーンはあったのでしょうか?」

仲「92、93年くらいまでは、イギリスでもアメリカでも〈サラ〉みたいなところがインディ、インディした美学をやっていたじゃないですか。僕はあれに途中から嫌悪感を覚えていて。もうインディなんて聴いてるんじゃなかった、みたいな」

田中「あー、なるほど。ただ、その理由をかいつまんで教えていだたけますか?」

仲「元々〈サラ〉っていうは、プライマル・スクリームのグルーピーたちが作ったみたいなところで。そこに美学があったと思うんですよ。それまでもインディはインディだけど、ある程度は売れようっていう価値観があって、スタイルもバチっと決まっていた。でも、その価値観が変わっていって、ちょっと傷の舐め合い的な感じが出始めたんですよね」

田中「インディがインディの小さなコミュニティの中だけで自己完結するような感じが強まってきたと」

仲「その後、そういうレーベルがアメリカにもイギリスにも、オーストラリアとかにもたくさん出来て。音はいいんだけど……っていう。〈C86〉が好きでオレンジ・ジュースが好きで、っていう所謂ギター・ポップ的なバンドは、日本にもいっぱいいますよね。でも、それと〈クリエイション〉とかがやろうとしてたことは全く違うと思うんです」

田中「というのは?」

仲「〈C86〉はパンクの流れを汲んでいるから、敢えてパンクの激しさとは逆に、という意識があったと思うんです。当時のアノラック好きが始めた“レイトアノラック”みたいな、『可愛いのが好き』という価値観は違うんですよね。だから僕は、アシッド・ジャズの方がカッコいいし、ビッグビートの方が面白いと思ってました。そういう中で、ブラーとかパルプとかスウェードとかはよかったんですど、オアシスはダメでした。今見るとカッコいいんだけど、当時は激ダサだったぞ! と」

照沼「当時、僕は小学生、中学生だったんですけど、『売れてる=ダサい』みたいな気持ちがあって避けていたのはあります。オアシスは如何にもビッグなバンドというイメージがあったので」

仲「オアシスから始まったスタジアムで合唱させるっていう価値観は、リバティーンズが出てきて、また変わりましたよね。リバティーンズの曲も合唱はしますけど、昔ながらのパブ・ロックとかの価値観に戻った感じがします」

田中「そこで揺り戻しが起こったのではないかと」

仲「フランツ・フェルディナンドだって、90年代だったら出てこれなかったバンドだと思うので。ただ結局、インディでやっているバンドはずっと繋がっているような気もします。フランツ・フェルディナンドの前身はヤミー・ファーっていうバンドだったんですけど、当時から僕はすごい好きだったので、『あのメンバーなんだ!』っていうのがありましたし。そんな感じで続いてるのかなって」

田中「なるほど、なるほど」

仲「〈クリエイション〉に18ホイーラーっていうバンドがいたんですけど、そのヴォーカルはうちの流通をやってくれていたスタッフと結婚したんで、会ったことがあるんですよ」

田中「へぇ! そうなんですね」

仲「『僕はアラン・マッギーについていく』って当時話してて、実際に〈ポップトーンズ〉にもついていったみたいなんです。あと、初期ギタリストのデヴィッド・キーナンっていう人はライターもやっていて、コイルとか、カレント93の本も出しているんですけど、グラスゴーで〈Volcanic Tongue〉っていうレコード屋をやっていて。そこではアイスエイジとか、2000年代のノイズやインダストリアルを扱っているんです。昔、〈クリエイション〉でポップな甘い音楽をやっていた人が、今はレコード屋でノイズを売っていたりする。そこも繋がってるんだなって思いましたね」

田中「〈C86〉からの流れで言うと、スコットランドというキーワードもあると思うんですね。プライマル・スクリームもそうだし、グランジと共振した時のティーンエイジ・ファンクラブもそうだし、フランツにしてもそう。イングランドやロンドンとはまったく違う空気感を持っている。そういったものが繋がって、浮き沈みはありつつも、イギリスのある側面を代表する価値観になっているということですよね」

仲「オレンジ・ジュースとか〈ポストカード〉周辺もそうですし、ジーザス&ザ・メリー・チェインもそうですしね。あまり目立たない時代はあったにせよ、フランツまで繋がっている。それは、そもそもアンダーグラウンドがしっかりしているということなんだと思います。グラスゴーはずっとそういうのがあるんだなと」



>>>ブリットポップの寵児? ジミヘンの再来? スーパーグラスとは何だったのか?

田中「僕は95年に〈グラストンベリー〉に行ったんです。その時の初日のヘッドライナーが2ndアルバム『モーニング・グローリー』を出す直前のオアシス。二日目のトリはストーン・ローゼズだったんですけど、ジョン・スクワイアが直前にケガをしてしまって、急遽、“コモン・ピープル”が大ヒット中だったパルプがブッキングされた。そこで一ヶ月前にリリースされたばかりの“コモン・ピープル”をフィールドを埋め尽くした何万人ものオーディエンスが大合唱したんですね。あれはまさにそれまでずっと辛酸を舐めてきたバンドが国民的なバンドになった瞬間でしたね」

Pulp / live at Glastonbury 1995 (47:00~ Common People)



田中「最終日のヘッドライナーはキュアーだったんだけど、集客はかなり寂しいことになっていて。彼らの場合、その後、アメリカ経由でまた大復活するんですけど、95年の時点ではかなり厳しいことになっていた。それ以外に、その三日間で目についたのは、ケミカル・ブラザーズが1st『イグジット・プラネット・ダスト』を出す直前で、会場中が彼らのポスターだらけだったんですよ。で、プロディジーやマッシヴ・アタック、ポーティスヘッドが大人気だった。つまり、南イングランドを中心としたブレイクビーツのシーンが一気に全国化するタイミングだったんですね。で、もう一つが、当時の2ndステージだった〈NME〉ステージはとにかくブリットポップ・バンドだらけで。中でも、とにかく人気が凄まじかったのがスーパーグラスだったんです」

照沼「なるほど」

田中「1stアルバム『アイ・シュッド・ココ』がリリースされた一ヶ月後っていう絶好のタイミングで。ケミカル・ブラザーズみたいなダンス・ミュージックの新しい動きがある一方で、オアシスとブラーだけじゃないブリットポップの流れとして、スーパーグラスは一番の象徴的に捉えられていたかもしれません」

Supergrass / live at Glastonbury 1995



田中「で、僕が長年ずっと大好きだったジュリアン・コープがメイン・ステージでやっていたんですけど、客がほとんどいなかった(笑)。その一つ小さいステージでは、まだシングル3枚しか出してないアッシュがパンパンのオーディエンスの前でやっていたという。なので、95年のグラストンベリーがまさにブリットポップの隆盛を実感したタイミングだったんです」

仲「なるほど」

田中「そういったブリットポップ真っ盛りの中で、鳴り物入りでデビューしたのがスーパーグラスだったわけなんですけど、改めて振り返ってみると、スーパーグラスとは何だったんだと思います? かなり不思議なバンドだと思うんです」

仲「スーパーグラスって、どこの出身ですか?」

田中「オックスフォードです。ロンドンから電車で1時間ほどの南イングランドの学生街ですね。スーパーグラスが出てくる少し前、90年代前半のオックスフォードと言えば、ライドとか、チャプターハウスみたいな中産階級の学生たちのシューゲイズ・バンドが出てきた場所で。その後、しばらく何もなかったんですけど、レディオヘッドが出てきます。で、実はスーパーグラスとレディオヘッドは、同じマネジメントがやってるんですよ。元々はオックスフォードの郊外でバンドの練習スタジオを経営していたおじさん2人が始めた本当に小さなマネジメント事務所なんですが、そこでたまたま練習していたのがスーパーグラスとレディオヘッドの前身バンドだったという」

仲「ああ、そうなんですね」

田中「『ザ・ベンズ』が出る直前の95年春に、アルバムのローンチ・ライヴを地元のオックスフォードでやったんですけど、サポート・アクトがまだシングル1枚しか出していないスーパーグラスだったんですね。でも、当時のレディオヘッドはワン・ヒット・ワンダー扱いされていて。メディアも事務所もスーパーグラスに気持ちが行き過ぎてて修羅場みたいになった、という話もあって(笑)」

照沼「(笑)」

田中「ともあれ、南イングランドでもオックスフォードは郊外で、なおかつ裕福な街。ロンドンとも違うし、他の場所とも全然違う場所から出てきたバンドなんです。だから、改めて振り返ると、どちらのバンドも文脈がつけにくかったりするんですよ」

照沼「確かに。初期のレディオヘッドにしろ、スーパーグラスにしろ、むしろアメリカのロック・バンドに近い感じなのかな、って思います。ロンドンとの距離感が関係あるのかもしれないですけど。スーパーグラスはその後のバンドで言えば、アークティック・モンキーズっぽい気もしますね。あのバンドも、リバティーンズ以降の流れはあるけど、音としては全然違うじゃないですか。ギターを分厚く重ねる感じとか。22-20sとかにも近いですよね」

田中「そう、22-20sもオックスフォード出身ですね」

照沼「趣味人が自由にやっていたのがたまたま時流と重なった、という感じがどちらも強いように感じます」

田中「〈C86〉からの流れには、ロンドンとは違う、マンチェスターやリバプールのような北イングランド的な価値観、あるいはポストパンクの系譜があると思うんです」

仲「ええ」

田中「で、英国ミッドランドのバンドと言うと、代表的なのがブラック・サバス、アークティック・モンキーズ、カサビアンというリフ・ロックの系譜ですね。センスがあるんだかないんだか、わからないけど、とにかくパンチがある人たち」

照沼「(笑)」

田中「ロンドンはロンドンで、ブラーが象徴するような価値観がありますよね。そうやって、イギリスのバンドは地域によってある程度プロファイリング出来るんですけど、オックスフォード界隈はちょっと不思議なんです。どことも相容れず、どこにも加えることが出来ない。にもかかわらず、スーパーグラスはブリットポップの一つの象徴になってしまった。今考えると、それも不思議な話だなと思うんですよ」

仲「スーパーグラスのシングルは〈ゼスト〉でもすごい売れました。ブリットポップはバンドがたくさん出てきて、ヴァリエーションが増えていったから、音の傾向は一つにまとめられないじゃないですか。その中でも、スーパーグラスやアッシュは、ちょっとパワー・ポップ的な感じがありましたよね」

田中「〈ゼスト〉でもスーパーグラスの1stアルバム『アイ・シュッド・ココ』(1995年)は売れていたんですか?」

仲「すごい売れましたね。僕も好きでしたし。よく覚えてるんですけど、あのアルバムは最初7インチ付きだったんですよ。他のバンドは時間が経つとバカにされることもありましたけど、スーパーグラスはちゃんと曲が書けるから、そんなことにはならなかった」

田中「僕もスーパーグラスはずっと好きで。一番ではないんだけど、結局、どのレコードもよく聴いてるっていう。でも、基本的に謎なバンドなんですよね。音楽的なリファレンスは作品によってバラバラだし、トレンドを取り込むわけでもない。60年代というよりは70年代的で、スリー・ピースで、パズルのピースを一つ変えると絶対にこうはならない、っていうバンドっぽさもある。『一体何なんだろう?』って。でも、確かに演奏が出来て、曲は書けるんですよね」

照沼「そういうバンドって、なんだかんだ、いつの時代もいる気がしますね。イギリスじゃないですけど、ハイヴスとか。地元がスウェーデンで、メロコア系のレーベルなのに一組だけオーセンティックなロックンロールを同じ衣装でコンセプチュアルにやってたバンドが、何故かアラン・マッギーの目にとまってブレイクする、みたいな。ああいうブルージーな要素のあるバンドを定期的にフックアップする土壌はイギリスにある気がします。最近だとストライプスもそうなのかなって。ちょっと違いますけど、ナイン・ブラック・アルプスとかも」

田中「自分の中でスーパーグラスに一番イメージが近いのは、ジミ・ヘンドリックス&ジ・エクスペリエンスなんです。彼らの1stアルバム『アー・ユー・エクスペリエンスド』(1967年)をアップデートしたのがスーパーグラスなのかなって。オックスフォードの裕福な家庭の男子3人が始めた音楽至上主義バンドですね。そういう意味では、何かしらのトレンドに沿ったものではなくて、たまたまブリットポップにはまったんだろうな、と思います。育ちのいいジミヘンですね」


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20年続くブリットポップの後遺症から
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