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COLLAPSED IN SUNBEAMS Arlo Parks (Big Nothing) by TATSUMI JUNK
RYUTARO AMANO
April 07, 2021
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COLLAPSED IN SUNBEAMS

世は「脆弱性を肯定する若者」ブーム
それを拒否する魔法のポエトリー

2021年、「脆弱性(Vulnerability)」はポップ・ミュージックの「マニュアル」になった。脆さ、傷つきやすさと言い換えてもいい。感傷と内省を肯定し共有する音楽トレンドは「混乱する社会で不安を抱える若者」像としてパッケージングされていき、今となってはPRの常套句、「ポップスターの教科書」とばかりに商業的側面を強めた。北米のプリンス・オブ・ポップ、ショーン・メンデスを例にするとわかりやすい。3rdアルバム『ワンダー』シーズンの彼は、パーソナルな不安と「有害な男らしさ」からの解放を描き、「己の脆弱性を認めてこそ本当の強さを得られる」、「世界でもっともタフな男は涙を流したあとに良い気分だと言える人間だろう」と結論づけている。「強き男」論に着地するとはやや自家中毒な感もあるが、こうした表現や思考こそ米国市場を中心としたポピュラー・カルチャーの流行と言える。

この業界トレンドを踏まえれば、2000年ロンドン生まれの詩人アーロ・パークスは「脆弱性を肯定する若者」像にふさわしいアーティストだ。「人を助けること」を創作動機にする彼女が書いた楽曲“ホープ”は、自身の友人について書きながらもリスナーに「君はひとりじゃない」と呼びかけるアンセムとして機能している。フランク・オーシャンやパティ・スミス、レディオヘッドから影響を受けたノスタルジックなインディ・ポップ・サウンドにしても、それを熱烈に支持したビリー・アイリッシュと同じく、ベッドルームで孤独を抱えるティーンを癒やしてゆく図が思い浮かぶ今日的質感がある。だからこそ、BBCやApple Musicのプッシュ・アーティストに選ばれて以降、数々のメディアが「Z世代の代弁者」としてアーロを紹介していった。

しかしながら、アーロ・パークスの興味深いところは、「Z世代の代弁者」のラベルを与えられる度に拒否し、キャッチフレーズそのものに疑問を投げかける点だ。「私は自分の想いを描いているに過ぎないから他の誰かの代弁はしていない」「たまたまこの時代に生まれただけ」「(世代で括ろうと」さまざまな個人がいる」。本人が具体的に説いていることではあるが、なにより、その理由はデビュー・アルバム『コラプスド・イン・サンビームズ』を聴けばわかるかもしれない。

うつ状態に苦しむ友人との関係を歌う“ブラック・ドッグ”、異性と交際する友人への恋心をつづる“ユージーン”、そして村上春樹「ノルウェイの森」の登場人物ハツミから得た人生訓を披露する「Just Go」“ジャスト・ゴー”など、アーロの音楽はパーソナルな体感と思索に満ちている。思春期の日記につづられたつらい経験をもとにした作品が多く、その点では、西洋的な「脆弱性」が充満する音楽アルバムと言える。ただし、ジャジーでフォーキーなあたたかいサウンドからも感受できるように、未来に希望を見出すポジティヴィティも携えている。楽曲“ハート”にて引用される詩人オードリー・ロードの言葉「痛みは変化するか、終わるもの(Pain will either change or end.)」こそアルバムの芯とされているのだから、単に「脆弱性」概念を軸とする作品ではないだろう。

「悩める若者の代弁者」イメージを与えられては拒んできたアーロは、こうも語っている。「悩み続けるのは好きじゃない」、「魔法が少し色あせてしまうから」。思春期のポートレイトとされたデビュー・アルバムは、彼女の「ポロライド写真を見ているような感覚になる楽曲」志向に適ったノスタルジアを醸しだす。万物は変化していくのだから、かつて撮影した写真と同じ場所、同じ構図で撮影したとしても同じポロライドが撮れるとは限らない。同じくして、『コラプスド・イン・サンビームズ』で描かれた「脆弱性」と光明、そのどちらにしても、変化を遂げた今現在のアーロがそのままの状態で保有しているフィーリングではないのだろう。だからこそ、彼女が描きだす「かつてのエモーション」には、陰か陽かを一言では表せない厚みと豊かさがあるのかもしれない。

‪ゼイディー・スミスの『On Beauty』から着想を得たアルバム・タイトルは「すべて感情に身を任せて、憂鬱しているのか高揚しているのもわからなくなる感覚」がイメージされているという。音楽産業において「脆弱性」概念が自家中毒的な紋切り型になりつつある今、アーロ・パークの『コラプスド・イン・サンビームズ』は、人間の感受性が魔法のように多様であることを教えてくれる豊穣な作品だ。

文:辰巳JUNK

わたしたちはみんな傷を負っている――
若きリリシストが架橋する「普遍性」と「超個別具体性」

そのリリシストは自身の物語について、「普遍的(universal)であると同時に、超個別具体的に(hyper specific)感じるものにしたかった」と言う。両立しえない二律のあいだに橋を架け渡すものは、歌であり、詞/詩であり、音楽であり、語り手と聞き手の想像力だ。そういう、普遍的なもの(もしそんなものがあるとすれば、なのだけれど)と個別具体的なもの、矛盾するものどうしを共存させてしまう荒唐無稽なダイナミズムこそ、ポップ・ミュージックの超現実的で魔術的な力だと思う。

2000年生まれのアーロ・パークスがわたしたちとおなじ時代を生き、その苦しみや痛みを包み隠さずにこの『コラプスド・イン・サンビームズ』で明かしていることは、幸運なことだと思える。なぜなら『コラプスド・イン・サンビームズ』の物語は、彼女のものであり、またあなたのものでもあり、同時にわたしのものでもある、と感じることができるからだ。映画でたとえるなら、まるでバリー・ジェンキンスの原作をもとにケネス・ロナーガンが脚本を書き、ノア・バームバックかデイヴィッド・ロバート・ミッチェルが撮ったかのようなショート・ストーリーが12篇おさめられている。あるひとにとってこのレコードは、フランク・オーシャンの『ブロンド』になりうるかもしれない。そんなふうに表現すれば、ユニバーサルとハイパー・スペシフィックを架橋する詩人が、その1stアルバムでどんなことを表現しているかが伝わるだろうか。

アーロ・パークスの頼りなげでか細く、親密さにあふれていて、なめらかで透きとおった歌声は、ジェントルかつ所在なさげに響く。ノスタルジックでオーガニックなヒップホップ/R&B風の音楽的意匠もあいまって、思わずその声を聞き流してしまいそうになる。けれども、彼女の言葉がそうさせない。パークスのリリックは、とにかく耳に引っかかるフックに満ちている。

彼女が書く詞/詩でとくに目立つのは、ネーム・ドロップだ。「マットレスの上で『ツイン・ピークス』を見ながら」、「チャーリーは星を見はじめた 彼はジェイ・ポールの新曲に夢中」(“ハート”)。「あなたはトム・ヨークを引用して、寄り添ってキスをする」(“トゥー・グッド”)。「あなたの目はロバート・スミスそっくり」(“ブラック・ドッグ”)。「わたしはヌジャベスをかけて、電話越しのあなたにも聞こえるようにした」(“フォー・ヴァイオレット)。「彼にシルヴィア・プラスを読んであげた それはわたしたちのものだと思った」(“ユージーン”)。リリックに織りこまれた身近なポップ・カルチャーのアイコン――シルヴィア・プラスのように彼女のアイドルが多い――の名前は、淡々と綴られたひと連なりのテクストの中で、その語だけがボールドになっているかのように浮き上がって聞こえてくる(そもそも、アルバム・タイトルはゼイディー・スミスの『美について』からの引用だそうだ)。それを耳にしたわたしたちは、彼女のハイパー・スペシフィックな世界に、否応なしに引きずりこまれてしまう。

そういったアーロ・パークスの詩作は、たとえばThe 1975のマッティ・ヒーリーやラナ・デル・レイ、ファーザー・ジョン・ミスティ、そのファーザー・ジョン・ミスティから影響を受けたことを明かしているブラック・カントリー・ニュー・ロードのアイザック・ウッドなんかとの共時性を感じさせる。ただ、パークスのリリックが超個別具体的である理由は、それだけにとどまらない。ポップ・アイコンの名前だけでなく、彼女はさらに、彼女を取り巻く具体的な友人たちの名前をもネーム・ドロップしているからだ。ユージーン、チャーリー、カイア……。代名詞ではないこれらの名前は、パークスが生きる現実の日々をその手触りごと活写して、生きた関係性をありありと立体的に描きだす。

具体的であればあるほど、それだけ彼女が歌う痛みの経験は生々しく響く。血が通った身体にぱっくりと開いた傷口を、心の内側をえぐり取る強烈な痛みを、やまない疼痛を、聞き手はパークスとバーチャルに共有することになる。たとえばクレイロを招いた“グリーン・アイズ”では、ホモフォビアにさらされる自身と恋人のクィアネスを歌っている。「わたしたちが2か月続いた理由はもちろん知っている/人前では手をつなげなかった/彼らの目がわたしたちの愛を裁いて、血を乞うのを感じた/あなたのことは責められない、ダーリン/あなたをかなしませるひとも中にはいる/でも信じて、あなたの内側で感じるものを/そして輝きを/あなたの両親がもっとやさしければいいのに/彼らは、あなたが『普通』から外れている(out of habit)ことを憎もうとしむける/放課後、わたしたちが出かけているのをつかまえて/『娘をうしなったようだ』とあなたのお父さんが言ったことを覚えている」。

かつてローファイ・ビートにのせて「わたしたちはスーパー・サッド・ジェネレーション/時間をつぶして、お金をうしなって」(“スーパー・サッド・ジェネレーション”)とつぶやいたアーロ・パークスは今、メンタル・ヘルスの問題や自殺抑止のためのチャリティ、CARMのアンバサダーとしてひとびとに寄り添っている。“ホープ”でパークスが「あなたは、あなたが考えるほど孤独じゃない/わたしたちはみんな傷を負っている、そのきつさはわかる」と歌ったこと、その“ホープ”のヴィデオで傷つき、孤独にさいなまれた少女を抱擁したことは、とても意味のあることだ。その彼女に「Z世代の代弁者」を背負わせることは、このエンパシーに長けた若きストーリーテラーがもつ「普遍性」、「痛みにあふれたものから虹を描きだす」(“ポートラ・400”)彼女のいとなみを、狭小なフレームに押しこめてしまうことになるだろう。

アーロ・パークスの音楽を聴くことは、そのまま彼女の物語を知ることと等号で結ばれている。そしてその超個別具体的な物語は、あなたのものにもなるし、わたしのものにもなる。それを「普遍」と呼ばずして、なんと呼べばいいのだろう。

文:天野龍太郎

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