今から遡ること45年前、アメリカのMLBでひとつの球団が空前の快進撃を遂げた。その球団とは、オハイオ州シンシナティを本拠地とするシンシナティ・レッズ。前身も含めるとMLB最古参にあたる同チームは、1970年代に球団創設以来の黄金期を迎え、76年には遂にワールド・シリーズ2連覇を達成。その圧倒的な強さから、当時レッズは「ビッグ・レッド・マシーン」とも呼ばれていた。
アーロン・デスナーと双子の弟ブライス・デスナーは、そんな地元のプロ野球チームが旋風を巻き起こしていた76年のシンシナティで生まれている。ザ・ナショナルのリーダーとして00年代後半以降の北米インディを牽引してきたアーロンは、のちにボン・イヴェールのジャスティン・ヴァーノンとのコラボレーション・プロジェクトを発足。そして、彼らはこのプロジェクトに「ビッグ・レッド・マシーン」と名付ける。
こうした由来が物語るように、ビッグ・レッド・マシーンの根幹はアーロン・デスナーの出自と分かちがたく結びついている。ジャンルやシーンを越えてアーティスト同士が連帯していくリベラルなコミュニティ、というのがビッグ・レッド・マシーンのミソであることは間違いないが、一方でその作風にはアーロンの抱える郷愁が色濃く反映されており、とりわけ2作目となる今作にはそうした側面がはっきり表れているのだ。
ザ・ナショナルも含め、これまでのキャリアではソングライター/プロデューサーとしての役割に徹してきたアーロン。そんな彼が今作では初めてリード・ヴォーカルを披露している。そのうちのひとつが、10代の頃に重たい鬱で苦しんでいた自分を献身的に支えてくれた弟ブライスに捧げた、穏やかなエレクトロ・フォーク“ブライシー”。この極めて私的な体験を背景とする楽曲は、相棒のジャスティンをはじめとした共同制作者たちを触発。各々が自分の幼い頃を回想していく流れで、今作の収録曲は次々と生まれていく。
そんな連鎖反応から生まれた楽曲群の共通項をいち早く見出したのは、今作に2曲で参加しているテイラー・スウィフトだった。アルバムを一通り聴いたテイラーは、「思春期」あるいは「郷愁」を今作のテーマとして見定め、アナイス・ミッチェルが作詞した“ラター・デイズ”の一節をアルバム・タイトルとして提案。自分の作品でも常にコンセプトを重んじるテイラーは、自然発生的に生まれたビッグ・レッド・マシーンの15曲に一本の筋を通してみせたのだ。
ジャスティンが大半のヴォーカルを担い、サウンド面においてもボン・イヴェールとの近似性が際立っていた前作と比べると、今回のアルバムはビッグ・レッド・マシーン=コラボレーション・プロジェクトであることをより明確にさせた作品だと感じる。その取っ掛かりとなったのはアーロンの内省的な歌であり、そこからジャスティンたちが枝葉を伸ばしていくことで、この『ハウ・ロング・ドゥ・ユー・シンク・イッツ・ゴナ・ラスト?』という作品は生まれたのだ。アコースティック・サウンドのオーガニックな質感に比重を置いた滋味深いアルバムだが、ここには確かにアーロン・デスナーという音楽家の新局面が刻まれている。
デヴィッド・バーンによる舞台(および映画)『アメリカン・ユートピア』は、劇中で展開されるリベラルな共同性の具現化よりも、白人男性としての罪悪感との対峙よりも、ドラムを複数に分化し、バンド・ミュージックの律動感を脱臼させた点が肝だった。スネアもキックもシンバルもその他のパーカッションも、一人一人が個別に担当する。ドラム・セットのない舞台で、踊りながら打音を鳴らす複数の人間。その変幻する律動音の響きが、なによりも鮮やかだった。
ビッグ・レッド・マシーンは、2009年に発表されたオムニバス・アルバム『ダーク・ワズ・ザ・ナイト』で、ジャスティン・ヴァーノンとアーロン・デスナーが共作した曲から名を取っている。ザ・ナショナルの双子ギタリストとして知られるアーロンとブライスのデスナー兄弟が企画したこのアルバムの、一曲目を飾ったのがデヴィッド・バーン(とダーティ・プロジェクターズ)だった。ビッグ・レッド・マシーンの新作『ハウ・ロング・ドゥ・ユー・シンク・イッツ・ゴナ・ラスト?』も、『アメリカン・ユートピア』と同様に、バンドにおけるドラムの再解釈を行っている。ただし、もっと慎ましいかたちで。
誰でもパソコン一台で曲を作れるラップトップ・ミュージック、それを更に進めたスマートフォン・ミュージックの時代において、律動音は多様な選択肢を持つようになった。スタジオのドラム・セットを酷使していた20世紀中盤~後半とは比べものにならない自由が、そこにはある。お金がなくても、中学生でも不登校生でも、ハードウェア一台さえあれば豊富な種類のリズム・トラックを操ることができる。バンド・ミュージックが21世紀になって対峙したのは、前世紀譲りの不自由さを引きずったまま、いかにポータブルな音楽の豊かさと渡り合うか、あるいは別の快楽を発見するかという問いだった。10年前であればまだ、打ち込みの音にはない、ドラム・セットの生音にしか出せない臨場感やグルーヴがあると信じられていた。いまや、ロックバンドのドラム・セットほど、貧相に思える選択肢はない。
『ハウ・ロング・ドゥ・ユー・シンク・イッツ・ゴナ・ラスト?』の律動音には、重みもアタック感も感じない。要するに、ロック・バンド的なパワーやアクセントがないのだ。パワーは別にハード・ロックやヘヴィ・メタルに限らない。本作が参照しているザ・バンドのリヴォン・ヘルムは、タムやスネアの重さを持ち味としていた。強いアクセントは別にパンクやファンクに限らない。本作が参照しているグレイトフル・デッドのビル・クルーツマンは、シンバルやスネアのアタック感を強調するプレイ・スタイルを有していた。たしかに、各曲の音調にはザ・バンドやデッドの気配があるものの、律動感はそれらと異なる。フリート・フォクシーズのロビン・ベックノールドがメイン・ヴォーカルを取る“フェニックス”は、ゆったりした曲調からも、疲労感ただよう和音進行からも、「How do you bear the full weight?」という詩文からも、ザ・バンドの“ザ・ウェイト”を真っ先に想起させる。だが、J・T・ベイツが叩く音はリヴォン・ヘルム流の重みを感じさせず、スネアとハットにスティックが触れた後の細かい振動や微かな残響に、むしろ耳が向かう。アルバムのオープニングを飾る“ラター・デイズ”のドラムも同様だ。積み重なった枯れ葉を踏みしめるかの如きハーフ・オープンのハイハットに、聴覚が悦ぶ。
他の曲では、シーケンサーやサンプラーを駆使した音がより耳立つ。テイラー・スウィフトがコーラスを務める“バーチ”では、虫の脚音を思わせる複数のささやかな音が律動を刻み、もの哀しきワルツバラード“ハッチ”においては、ゆるやかなピアノとスライド・ギターの広がりに、定規的な細かいリズム・シーケンスが対照を示す。出色は“レネゲイド”と“イージー・トゥ・サボタージュ”。テイラーが小気味よい韻律に乗せて軽蔑と慈悲を混ぜる前者では、砂を踏むような小さい音のループとドラマーのリム・ショットが立体的なアンサンブルを奏で、フィラデルフィア出身のMC、ナイームが参加する後者では、ミュート・ギターとシーケンサーとドラムがそれぞれ別のリズム・パターンを鳴らしながら不穏な四拍子を織り成す。複雑な音の絡み合いが繰り返されることで、聴く者は少しずつ快感と高揚感に包まれる。和音や旋律はフォークやロックの系譜に忠実である反面、律動と音触は、20世紀のロックやポップとも、21世紀のトラップやEDMとも違う快感に届いている。本作が達成したのは、アメリカン・フォーク・ロックの現在的展開だ。それはビッグ・レッド・マシーンの中心人物二人が、ザ・ナショナルとボン・イヴェールで積み重ねた試みの、一つの結実でもある。
刺激の強くない、わずかに意識にのぼる程度の音触りが、アルバム全体の印象を決めている。柔らかい印象は、あるいはアンビエント的と言えるかもしれない。このアルバムには、朝の気配がよく似合う。目覚めたばかりの、生と死の中間でまどろむ時間に現れる、心地よくも寂しい情動を思い出す。アンビエントの死と、リズムの生のあわいにある情動を。ビッグ・レッド・マシーン、「大きな赤い機械」とは、心臓の言い換えだという。本作の律動が伝えるのは、朦朧とした意識の中で、身体から微かに聞こえる脈拍の感触だ。
テイラー・スウィフトが名付けたという題名、「いつまでこれが続くと思う?」は両義的に響く。ずっと続いてほしいという願いと、早く終わりが訪れてほしいという願いが、同時に聞こえてくる。柔らかい陽光に包まれてまどろむ永遠の時は、実際にはあっけなく終わる。後に待っているのは灰色の重苦しさだろう。あるいはそれは、オシフィエンチムの朝かもしれない。苦痛と屈辱が押し寄せる、昨日と変わらない一日の始まり。主体性を奪われて、「私」が「私」であることを忘れる一日の始まり。80年前のドイツ人はオシフィエンチムというポーランドの地名を、「アウシュヴィッツ」と言い換えた。「私」の主体感覚を喪ったユダヤの人々は、意識が半分しか戻らない目覚めの時にだけ、「私」を思い出すだろう。この目覚めの瞬間が、脈の音だけ静かに響く瞬間が、いつまでも続けばいい。その外に延びる時間が、一刻も早く終わればいい。どこまでも引き裂かれた、両義的な一つの願い。
本作を包み込むオーラは、穏やかな日常の気分に近い。だが同時にそれは、致死的状況における穏やかさでもある。安寧の中に、絶望も欲望も恐怖も微笑も情愛も憎悪も潜んでいる。単調に見える生活の内にも複数の感情が溶け合っているように、大量死と隣り合う人々の生においても、彼らの複数がある。1940年のオシフィエンチムにも、1387年のエスファハーンにも、1532年のインカにも、1570年のノヴゴロドにも、1572年のサン・バルテルミにも、1618年のドイツにも、1645年の四川にも、1649年のアイルランドにも、1792年のパリにも、1794年のワルシャワにも、1822年のキオス島にも、1828年のタスマニアにも、1851年の天京にも、1864年のサンドクリークにも、1864年のパラグアイにも、1864年のアトランタにも、1876年のバタクにも、1900年のブラゴヴェシチェンスクにも、1904年のヘレロ・ナマクアにも、1907年のチリにも、1909年のアダナにも、1914年のヨーロッパにも、1915年のアルメニアにも、1917年のシベリアにも、1919年のアムリットサルにも、1920年のニコラエフスクにも、1921年のタルサにも、1923年のオクラホマにも、1932年のウクライナにも、1937年の南京にも、1937年のスペインにも、1937年のデルスィムにも、1940年のカティンにも、1941年のオデッサにも、1944年のワルシャワにも、1945年のマニラにも、1945年の沖縄にも、1945年の広島・長崎にも、1947年のパンジャーブにも、1947年の台湾にも、1948年のパレスチナにも、1951年の朝鮮半島にも、1954年のアルジェリアにも、1956年のチベットにも、1964年のベトナムにも、1964年のザンジバルにも、1966年の内モンゴルにも、1967年のビアフラ共和国にも、1968年の広西にも、1971年のバングラディシュにも、1974年のホロにも、1975年のカンボジアにも、1975年のアンゴラにも、1976年のレバノンにも、1977年のモザンビークにも、1979年のアフガニスタンにも、1980年の光州にも、1981年のエルモソテにも、1982年のハマーにも、1983年のスリランカにも、1988年のハラブジャにも、1989年の天安門にも、1991年のボルにも、1992年のプリイェドルにも、1992年のホジャリにも、1992年のアブハジアにも、1994年のルワンダにも、1994年のアルジェリアにも、1995年のスレブレニツァにも、1998年のコンゴにも、1999年の東ティモールにも、2001年のニューヨークにも、2003年のイラクにも、2003年のダルフールにも、2005年のアンディジャンにも、2011年のシリアにも、2014年のシンジャルにも、2021年のミャンマーにも、2021年の新疆ウィグル自治区にも、2021年のパレスチナにも、2021年のアフガニスタンにも、人間がいて、朝を迎えていた。彼らの中には、灰色の絶望だけでは描けない複数の感情が、複数のリズムが響いていた。ビッグ・レッド・マシーンの穏やかな音に包まれながら、私は数万の彼らが聞いた小さな脈動と、数億の彼らが知った朝のユートピアに、思いを走らせる。