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NOT YOUR MUSE Celeste (Universal) by TSUYOSHI KIZU
RYUTARO AMANO
April 02, 2021
NOT YOUR MUSE

すべてに開かれた「わたし」の奥のどこかにある、
あなたの理想ではない「私」の歌

『ノット・ユア・ミューズ』はオープニングのスロー・バラッド“アイディール・ウーマン”でいきなりその、ほかでもない「セレステの」歌声に持って行かれるアルバムなのだが、続く“ストレンジ”の冒頭のピアノのコードにレディオヘッド“ピラミッド・ソング”を連想させられたり、“トゥナイト・トゥナイト”終盤にシー・ロー・グリーンのダイナミックなハイトーン・ヴォイスを感じ、久しぶりにナールズ・バークレイの1stを引っ張り出させられたりする作品でもある。よく言われるようにブルージーな歌はエイミー・ワインハウスを思わせるし、全編のジャジーなテイストに僕はコリーヌ・ベイリー・レイが登場したときのことを思い出しもした。ドラマティックな“ストップ・ディス・フレイム”はストレートにアデルっぽくもあり、アコースティック・バラッド“ノット・ユア・ミューズ”であくまで演奏に合わせて歌をコントロールするバランスの取れた様はノラ・ジョーンズに通ずる大器ぶりが垣間見られるかもしれない。ニーナ・シモンを想起するひとも当然いるだろう。リスナーによってアクセスできるポイントが多々ある上で、歌が素晴らしいのは誰が聴いても間違いないので、あらゆる方向に開かれたアルバムだと言える。バラッド群はオシャレなカフェや服屋でかかっていてもおかしくないし、食事デートの席で流れててもいいだろう。どこにでも馴染む心地よいポップ・ソウルであるのはもちろん本作の美点ではあるのだが……しかし、そのことを示すために固有名詞を羅列してみせることはあまり意味がない、とも思う。彼女、セレステ・ウェイトは誰で、どこにいるのか、という話だからだ。そして聴けば聴くほど、彼女自身が掴めない不思議な感覚を抱いてしまうアルバムでもある。

そうしたセレステのシンガーとしての透明感は、アーロン・ソーキン監督の映画『シカゴ7裁判』の主題歌として選ばれた“ヒア・マイ・ヴォイス”によく表れていると思う(本作のボーナス・トラックとして収録)。『シカゴ7裁判』は1968年の反ヴェトナム戦争運動をモチーフに、志の根は同じはずなのに細かな主張や思惑の違いからまとまれない左派グループをえんえんと描いていたが、映画ラストでようやく共通の想いを見出したときに流れるのが“ヒア・マイ・ヴォイス”なのである。「わたしの声を聴いて/わたしの夢を聴いて/さあ作ろう/わたしの信じる世界を」。この「わたし」はもちろんセレステ・ウェイトという「私」ではなく、もっと抽象化された「わたし」である。『シカゴ7裁判』でいうなら、左派グループがようやくまとまったときの総体としての「わたし」。それは個の主張や生々しい感情を歌にほとんど入れないセレステだからフィットする。国内盤も含めたデラックス・エディションにはボーナス・トラックが多数収録されているのだが、その最後はエディット・ピアフのカヴァー“ラ・ヴィ・アン・ローズ”が飾ることになる。本デビュー作までにすでにシンガーとしてかなりのキャリアがあるセレステは、「私」を度外視した地点で歌そのものになろうとしているのかもしれない。それこそピアフのように。

けれど、ここで同時に思い出すのは、アルバム・タイトルが『ノット・ユア・ミューズ』であることだ。「わたしはあなたの女神ではない」。リスナーがそれぞれの期待や理想を彼女の歌声に見出すことは可能なのに、肝心の彼女自身が不思議とそこからするりと逃れていく。そもそもアルバム冒頭の“アイディール・ウーマン”の時点で「わたしはあなたの理想の女性ではないかもしれない/あなたの思う素敵なひととは/抱えこんだストレスから あなたを救えるひととは」と宣言していたではないか。ここでの「わたし」は、限りなくセレステ本人に近い「私」なのではないか? 他者の期待に応えない、理想の女にはならない――それはフェミニズム的テーゼというより、セレステの場合、なにかアーティストとしての立ち位置の表明のように感じられる。つまり、個々のリスナーが求める歌はしっかりと届けるけれど、本当の自分自身はけっして明け渡さない、といったような態度である。そこに、あまりにも魅力的な歌声を持っているためにどこか超然としているセレステの生身が感じられる……ような気がする。それもまたこちらの勝手な理想の押しつけなのかもしれないが、彼女が今後「(他者から求められた)心地よい歌」を大きく逸脱していくとき、その歌の迫力はいや増していくのではないだろうか。いまはこの上質な歌声に誰もが酔いしれることができるだろうけれど、忘れてはいけない……セレステはあなたの女神ではない。

文:木津毅

「わたしはあなたのミューズじゃない」
疑問形と否定形の歌い手が生む、聞き手とのダイアログ

セレステは、聞き手とのダイアログを生むシンガーだ。

「あたたかさはじゅうぶん?/ココ・ブラッド」。ひきずるような重たいリズム、分厚いホーンズ、敷き詰められたストリングス、そしてほんのりとレゲエのエッセンスがまぶされたヘヴィなビート――彼女はジャマイカ系だ――に乗せて、伸びやかな、けれども低く、すこししわがれていて、かげりをもった声が問いかける。2019年のシングル“ココ・ブラッド”のそのフレーズは、じぶん自身への問いなのだとセレステは言う(この曲は、UKベースとジャズをつなぐ要人のスウィンドルがプロデュースしていることも重要だ)。

それから、彼女の名を広く知らしめた“ストレンジ”。ピアノ、ストリングス、そして歌のみのこの曲のコーラスでも、問いかけが繰り返される。「不思議じゃない?/わたしはわたしで、あなたはあなたのままで/おなじ場所にいるのに/ひとびとはどうやって変われるのだろう/見知らぬひとから友だちへ、友だちから恋人へ/そしてまた他人へ」。素朴で、けれどもユニバーサルな疑問を耳にしたあなたは、じぶんの経験に照らし合わせて考えこむかもしれない。

“ストレンジ”は失恋、別れの歌ととられるかもしれないが、喪失感にまつわる多くのことに関係した歌だ、と彼女は語っている。2018年にカリフォルニアで起こった森林火災に際してLAで書いたものであり、また亡き父と病院で最後に面会した時に感じたことも下敷きになっているのだという。

彼女の歌にはクエスチョン・マークがよく現れる。力強い“ストップ・ディス・フレイム”にしても、フィニアスとつくりあげた静謐な2020年のシングル“アイ・キャン・シー・ザ・チェンジ”にしても、“テル・ミー・サムシング・アイ・ドント・ノウ”にしてもそうだ。疑問形のリリックには、反語的な表現から単なる会話の引用、歌い手の迷いの表出、または先のような自問自答(2017年のシングル“ノット・フォー・ミー”では「わたしはあなたの愛を受けとめられるほどに成熟していたのかな?」と歌われる)まで、幅広い表現の可能性が含まれる。けれども、それ以上に、ひとつ重要なエフェクトがある。そこには、かならず聞き手が応答するための余白が生まれるのだ。問いかけ、疑問符のついたリリックは、聞き手とのコミュニケーションを生むと、わたしは思う。

セレステの歌は、その声の質感と響きもあいまって、とてもパーソナルな表現に思える。このアルバム『ノット・ユア・ミューズ』では、力強い「ディーヴァ」として高らかに歌い上げる場面もある。けれども、そのじつ、彼女の低くかすれた歌声は、その外側にいる他者、つまり聞き手との対話を強く求めているのだ。

こんなエピソードもある。アルバムの幕開けを飾る“アイディール・ウーマン”。これについて彼女は、古い友人との会話のような曲であり、アルバムはじぶんが経験した会話や対話(conversations and dialogue)、物語にもとづいているのだから、そのレコードの始まりではそれを感じてほしかった、と語っている。つまり、『ノット・ユア・ミューズ』を聞くことは、彼女が言う「古い友人」にわたしたち聞き手が代入されることだ。『ノット・ユア・ミューズ』には、そんな仕掛けがほどこされている。

疑問形だけではない。アルバムには2つの印象的な否定形がある。「I may not be your ideal woman=わたしはたぶん、あなたの理想的な女じゃない」(“アイディール・ウーマン”)」。「I’m not your muse=わたしはあなたのミューズじゃない(“ノット・ユア・ミューズ”)」。他人、とくに男性からのタイプキャスティングにたいして、セレステはそれを否定形にして歌い返す。それは彼女にとって、とても素朴な、シンプルな違和感の吐露でしかないかもしれない。けれども、それを聞いた者には、「not」という鋭い一語が釘のように打ちこまれる。聞き手は、彼女が「I am...」と歌うのをじっと待つものの、その時は訪れない。「She is…?」。その空白には、なにが入るのだろうか。そこにまたセレステと聞き手との、『ノット・ユア・ミューズ』というレコードとリスナーとの会話が生じる。

聞き手が歌い手とコミュニケーションすること。聞き手がレコードから聞こえてくるものに応答すること。彼女の歌を聞いていると、親密な空間で語りに耳を傾けたり、それにたいしてこちらも思ったことを言ったりと、そんなことをしているような気持ちになる。

音楽そのものについてもそれは言える。ジェイミー・ハートマン、ジョン・ヒル、ジョシュ・クロッカー、チャーリー・ヒューゴールの4人が中心となってプロダクションを担う『ノット・ユア・ミューズ』では、決まりきった機械的な、プログラムされたビートは避けられており、アレンジメントにおいては、すくなくない楽曲でドラムレスという選択肢があえて選ばれている。マシーナリーなビートにただ歌が乗っかっているのでもなく、またビートをいかに乗りこなすかがシンガーにとっての課題なのでもない。ドラムやベースと、ピアノと、ギターと、ストリングスと、ホーンズと、セレステは歌や息づかいでもって深く対話を試みて、生々しいビートやハーモニーを一瞬ごとに編み上げている。そうやって生まれたものは、オーガニックとかオーセンティックとかいった、手垢のついた形容からは逃げ去っていく、とてもいきいきとした音楽だ。ザ・ウィークエンドやジェイムズ・ブレイクからの影響が色濃い初期の作品や、アヴィーチーの曲で歌ったこともあるセレステのキャリアを思うと、このダイアログ的な音楽に彼女がたどりついたことは感動的だと感じられる。

女性はこうあれ。黒人はこうあれ。アーティストこうあれ。R&Bシンガーはこうあれ。「女性R&Bシンガー」はこうあれ。あらゆる身勝手な願望の投影とタイプキャステイングにクエスチョン・マークと否定の副詞を突き刺して、セレステは「わたしはあなたのミューズではない」と歌うシンガーだ。では、あなたはだれ? そして、わたしは? 「このおそれは、もう武器じゃない/この涙は、ただの涙/行き先(direction)を求めているわけじゃない/今、わたしはここにいる」(“アイム・ヒア”)。セレステは、そこから対話を始めようとしている。

文:天野龍太郎

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