09年の『バター』以来6年振りのフル・アルバム、とだけ聞くと随分長い時が経過したようにも錯覚するが、ことハドソン・モホークに関してはその期間、特に2012年以降における八面六臂の働きの方に思いを馳せてしまう。カニエ・ウェストのレーベル〈G.O.O.D.ミュージック〉のコンピレーション・アルバムへの参加をきっかけに、〈GOODミュージック〉とのプロデューサー契約を締結。その後カニエ・ウェストを筆頭にドレイク、プッシャ・T、リル・ウェイン、アジーリア・バンクス等々、USメインストリームで活躍する名だたるアーティストのプロダクションに名を連ね、わずか3年間でUSヒップホップ・シーンに欠かせない先鋭的なプロデューサーの一人として確固たるポジションを築いてみせたのだ。
一方で、ハドソン・モホーク本来のイメージである〈ワープ〉所属のエレクトロニック・アーティストとしての活動も、全く手を休めることなく続いてきた。ジャンルを横断する、というよりも膨大な情報量の中を自由気ままにハイスピードで飛び回るような刺激的なサウンドを展開していた『バター』の方法論を洗練させ推し進めた2011年の『サテン・パンサーズ』、2014年『チャイムズ』といったEPリリース。そして、トラップというサブ・ジャンルを世界的に知らしめ、現在のヒップホップやEDMにも多大な影響を残した、ルニスと組んだサイド・プロジェクトTNGHT(トゥナイト)としてのリリースとツアー。レフトフィールドな創作を軸にしつつもメインストリームからも一目置かれ、プロダクション・ワークからソロまでをワーカホリックにこなすハドソン・モホークは、今もっとも理想的な活動姿勢を実現させているアーティストの一人と言えるだろう。
この最新作『ランタン』は、多面的な仕事を経た上での蓄積を元に、周囲の期待よりもハドソン・モホーク自身の興味/関心だけにフォーカスを当てて作り上げたアルバムなのではないかと思う。本作のサウンドを決定付けているのは、『バター』の奔放で荒削りな手法ではなく、膨大な情報の中から自身の核となるソウルを抽出/濾過/凝縮していくような、よりスムースで洗練させた手業である。ここには、ヒップホップ経由で彼の名前を知ったリスナーの期待に応えるようなラップ・トラックは一曲もなく、それよりもむしろ意図的にソウルやR&B譲りのスムースさを優先して選び取っているように見える。
ぶっといトラップ・ビートが鳴り響く“スカッド・ブックス”や“シャドウズ”、“システム”のようなアッパーな楽曲も勿論収録されているが、より印象深いのはミゲルをゲスト・ヴォーカルに迎えたスペーシーなR&B曲“ディープスペース”、ジェーン・アイコをフィーチャーした“レジスタンス”。あるいは彼にしては珍しくノスタルジックなソウル・サンプリングが聴ける“ライダーズ”やアントニー・ヘガティが内省的な声を響かせる“インディアン・ステップス”等のトラックだ。これまでのハドソン・モホークが躁的なサウンド・メイキングを特徴としていたのに対し、本作では“引き”の部分がより重要な役割を担い、彼の手業に一層の多彩さと奥行きを与えている。
多面的な活動によって、すでにひとつのジャンルに固定化されない自由なクリエイターとしての存在感を確立しているハドソン・モホークだが、本作もまた彼にとっての“ソウル・レコード”とでも言うべき、新たな領域を開拓した一枚。彼の姿は、あらゆるジャンルが交流を持つ自由を許された今という時代のポップ・ミュージックの理想的な在り方さえ体現しているかのようだ。
ハドソン・モホークといえば、まずは誰もが『バター』で見せた、悪ガキのおもちゃと化したグライム~エレクトロ〜ビート・ミュージックの、ある種、凶暴でいて無邪気な感覚を思い起こすはず。それこそ〈ワープ〉でいえばラスティとともに、2010年代(1stは2009年リリース)的な新世代のきらびやかな電子音の遊戯の象徴だったのだ。
より具体的に言うなら、フリーキーなビートとビキビキのシンセ音からしても、サウンド・スタイル的にも、ラスティやジョーカーといったアーティスト――ダブステップではなく、グライムの進化型とも言える方向性のアーティスト。そこに、UKテクノの伝統とも言えるリチャード・D・ジェイムスやルーク・ヴァイバート、マイク・パラディナス(μ-ZIQ)といった先駆者たちと共通する、戯れの実験性を加えたのが彼の魅力だったと言えるだろう。そのガキの遊びじみたばかばかしさ溢れる自由な実験精神がエレクトロニカやブレイクコアの突端を開き、ダブステップやグライム、ジュークといった最新のエレクトロニック・ストリート・ミュージックを世に知らしめる役割を果たしてきたというわけだ。
UKのストリート・ワイズと結びつく、UKテクノの子供じみた戯れの実験性、その伝統芸とも言えるスタイルが、〈ワープ〉で『バター』がリリースされるに至った最大の理由だろう。
あれから6年。
その間、ご存知のようにカニエ・ウェストの〈G.O.O.D.ミュージック〉とのプロデューサー契約を経て、カニエ本人の『イーザス』楽曲のコ・プロデュース、ドレイクやプッシャ・TといったまさにUSメインストリームでの裏方としての活動、さらにはTNGHTとしてのヒットなどなど、彼を取り巻く状況は『バター』リリース時とは比べものにならないほど変わった。こうした状況ののちにリリースされたのが『ランタン』である。変化がないはずがない。
トラップなどUSのアングラ事情と、UKのグライムやベース・ミュージックを掛け合わせる彼らしいサウンド・メイクは、勿論、その基礎体力を司るビートとして作品の下部構造を支えている。大きな変化は、やはり冒頭に書いたようなUKのエレクトロニック・ミュージック的な伝統の“らしさ”の後退と言えるだろう。しかし、それゆえに勝ち得た成熟というものがアルバム全体を包んでいる。
アルバム冒頭から繰り出される“ウォーリアーズ”や“ディープスペース”などのフューチャリング・ヴォーカル・トラックでは、まさに横綱相撲とも言えるポップ・ミュージック的なプロダクションの緻密さに舌をまく。壮大な雰囲気といい、USメジャーの道は彼をここまで成長させたか。アントニーをフィーチャーした“インディアン・ステップス”などは大人の色気すら感じさせる。
ハリウッド的なスケール感のシンフォニックな“ケトル”や、“システム”、“ブランニュー・ワールド”といった楽曲で使用されるシンセの音色は勿論『バター』と同質の“きらめき”があるが、豪快にバタ臭く、異質なものになっている。すべてにおいてコントロールされている。どこへ飛躍するのかわからない『バター』のおもしろさとは違っている(前者がプログレ、とするならば後者はパンキッシュだ)。
勿論“スカッド・ブックス”や“ポートレイト・オブ・ルシ”辺りのリズムやインダストリアル感には、以前の彼の戯れの感覚ははっきりと刻印されている。だが、そうした感覚がアルバム全体を包んでいた前作と比べると、やはりこれは別物と言わねばならない。
リズム感を例に取ろう。グルーヴという意味では格段に凄みを増した。だが、『バター』最大の魅力でもあった、未成熟だからこそ生み出せることの出来た、いびつながらも初々しい感覚は少しばかり後退していると言わざるを得ない。
音楽として壮大なスケールと成熟を手に入れた本作『ランタン』と、未成熟でいびつな『バター』。どちらを面白いと感じるかは人それぞれだろう。だが、件のUKテクノ・シーンの重鎮たちと同様の、一筋縄ではいかない感覚のアップデート・ヴァージョンとして、彼のガチャガチャとしたいびつさに魅力を見出して聴いていた人間としては少々物足りなく感じてしまった。ポップ・ミュージックのトップ・プロデューサーの一人となり得たハドソンの手練れ感がむしろスムースすぎてしまって、『バター』の子供じみた世界観が生み出すサイケデリアが恋しくなるというか。いずれにせよ、失ったものと得たものは確実に本アルバムと『バター』の間を大きく隔てている。