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WHOLE LOTTA RED Playboi Carti (Universal) by MASAAKI KOBAYASHI
RYO ISOBE
November 05, 2021
WHOLE LOTTA RED

音楽的文脈から切り離され、拡大解釈が進む「ロック・スター」。
そんな一大潮流の中、吸血鬼に己を擬えたマンブル・ラップの寵児

「ロック・スター」って、もしかしてインフレ状態? 2020年のダベイビーによる“ロックスター”の成功を見ていて、そう思わずにはいられなかった。

ラップ・シーンで「ロック・スター」が使われる場合、既存のロック・スターとは、文化的あるいは音楽的文脈が切り離されている。もちろん、その根底には、既存のロック・スターから反射的に連想される一定のイメージ――曲を作って出せば、レコードは売れるは、ライヴは超満員で大儲け、オンナもドラッグもアルコールも選り取りみどり――がもちろんあった。例えば、ショップボーイズが“パーティ・ライク・ア・ロック・スター”をヒットさせた頃(2007年)ならまだしも、カニエ・ウエストが「俺は最高峰のロック・スターだ」と言うときには、法律や社会的慣習などは気にも止めぬ(という意味での)アウトロー的存在であり、自分でも制御できないほどの「絶大なパワーを持つ者」へと、抽象化されている。問題は、そのパワーの使い道だ。「ロック・スター」をトキシック・マスキュリニティ(表現)の最後の砦と捉えることは簡単だ。

ご丁寧に、ロック・ギターではなく自分はグロック(銃)を使うとダベイビーが息巻く“ロックスター”のミュージック・ヴィデオ(MV)で、彼とロディ・リッチが、ゾンビを相手に『コール・オブ・デューティ』ばりの戦闘を繰り広げるのも、「ロック・スター」ゆえに絶大なパワーを持ちうるからだろう。そうだとすれば、同曲のリミックス(のMV)で、「ロック・スター」が、ブラック・ライヴズ・マター・ムーヴメントを先導してもなんの違和感もない。ダベイビーが、パワーの用途の振り幅を思いきり広げてみせることで、手垢がついていたはずの「ロック・スター」の命脈を保つかたちとなった。

そして、その数か月後に2020年を締めくくるタイミングでリリースされたのが、プレイボーイ・カーティ2作目となるアルバム『ホール・ロッタ・レッド』だった。ただ、ここであらためて振り返ってみるなら、同作の先行カットで「ロック・スターな輩だけど、俺はマシン・ガン・ケリーじゃあない」と出てくる“メー”と、ダベイビーの“ロックスター”の初出は同じタイミングだった。噂されていたカーティのアルバム(つまり本作)の収録予定曲とおぼしきものがコンスタントに漏洩され、なかなか正式発売に踏み切れないうちに、ダベイビーが“ロックスター”をMVで、さらには〈BETアウォーズ〉のタイミングでのリミックスMVの公開へと展開させていった、という流れも見落とせない。“メー”はサウンドで、“ロックスター”はコンセプトの面で、「ロック・スター」の解釈拡大を試みたと捉えることができる。柔らかみのあるその響きごとマリンバの音を加工したような単音が転がる上物は、それだけで、ここまで書いてきたどの「ロック・スター」とも結びつけようのない“のどかさ”さえある。その一方で、ビートのほうでは、キックのディケイによる歪んだ低音がブンブン鳴っている。この手の低音かつハイパーなラップのコンビネーションで想起されたのは、2017、2018年頃の、まず、シティ・モーグ、次にスカーロード、ゴーストメイン等あるいはリコ・ナスティとのコラボ作をはじめとするケニー・ビーツの楽曲だった。そして、試しに、それらのビート特有のそういった低音を、彼女/彼らが参照しているというパンクやゴスやメタルやインダストリアルといった「ロック」のドラムと並べて聴いてみると、時代の(求めている)音が如実に示されることにもなる。

「ロック」を参照している、もしくは参照しているように見えても、右のものを左に持ってきただけではないのは、カーティのデビュー作のアルバム・アートワークや、今回の『ホール・ロッタ・レッド』のそれが醸成したイメージをもとに、収録曲を初めて聴いた時の感覚を思い出してみてもわかる。

“ロックスター・メイド”と名づけられた楽曲で始まるこのアルバムにおいて、前述の1曲目、3曲目“ストップ・ブリージング”、セルフ合いの手でアヒルのような奇声を発する5曲目“ジャンプアウトザハウス”、9曲目“ニュー・タンク”、16曲目“オン・ザット・タイム”、22曲目“ダイ4ガイ”あたりで、“メー”のように「ロックスター」に直接的に、あるいは間接的に(イメージなどについて)言及しているのは、なに言ってるのかわからないとか、声もサウンドの一部とか言われ勝ちな彼の楽曲であっても、何回か聴くうちにわかってくる。しかも、これらの楽曲すべてのみならず、アルバム収録曲の大半で、“メー”と同じ嗜好性を持った低音が鳴り、個性的な上物が被さる。

このアルバムを聴いていてカーティが「俺はロック・スター、スレイヤーに入ってたかも」とラップしているのに気づいて、その曲の名が“スレイヤー”なのを知っても、スラッシュ・メタルのスレイヤーと、スムースには結びつかなかったり、結びついたとしても無理やり納得させられたような違和感を覚えたりするようなリスナーがいたら、「ロック」の音楽的文脈から切り離された「ロック・スター」像が十分に確立されていないということなのかもしれない。その一方、“ティーン・X”で、「We on the X, we on the codeine」と壊れたロボットのように繰り返され、その間に合いの手を入れているのが、「パコセ、モリー、パコセ」で有名なフューチャーともなると、もはやドラッグまみれの「ロックスター」像だけに依存しているのではないこともわかる。

では、カーティとしては「ロック・スター」像をいかに塗りかえようとしたのか、といえば、“ヴァンプ・アンセム”と“キング・ヴァンプ”から聞き取れる“ヴァンパイア”なのだろう。無敵感、万能感を漲らせたパワーの持ち主としての「ロック・スター」を提示したのは、ダベイビーだった。方向性としては、カーティもそれと同じだ。夜行性で、女性を惑わし、自分でもコントロールしきれないほどのパワーを持った存在に、自己を投影した形跡もまた前述のアートワークに認めることができる。

この『ホール・ロッタ・レッド』は、2020年代の「ロック・スター」像に対する認識を、ポップ・リスナーのあいだでだめ押しすることはできる。だが、ヴァンパイアのコンセプトのほうは、その認識の補強材料にはなっても、カーティ自身の、彼独自の「ロック・スター」像の提示は理解はできてもどうも弱い、というか、次の作品がどうなるかにもよるだろう。

次の作品へのきっかけなのかなんなのか、アルバムは、なぜかボン・イヴェールの“iMi”のトラップ・リメイク的な楽曲で締め括られる。“iMi”が「I Am, I Am…」を意味するなら、リリックに「ロック・スター」やジミ・ヘンドリクスが含まれる、このラスト曲の骨格としてふさわしいとも言える。収録時間1時間以上のアルバムなら、こういったセンスの曲も、もう少し欲しかったような、最後の1曲だから、より耳に引っ掛かりやすかったのか。いずれにせよ『ホール・ロッタ・レッド』は、2020年の時点で「ロック・スター」の解釈の拡大化と、定義の定着化が同時進行していることが、よくわかる作品となっている。ちなみに、2021年2月リリースのトリッピー・レッドによる『ペガサス』のデラックス盤では、単純なポップ・パンクへの憧憬にも突き動かされているようだが、「ロック」の音楽的文脈から「ロック・スター」へのアプローチを試みていることを付け加えておきたい。

編集部注)この原稿は2021年2月に執筆されたものです。

文:小林雅明

マンブル・ラップ終焉の墓碑として受け取られたリリースから一年。
パンデミック下の行き場のない不満が再生させた憤怒の行方

2021年7月29日。盛夏の夕刻。イリノイ州シカゴのグランドパークで開催されていた、アメリカを代表する音楽フェスティヴァル〈ロラパルーザ〉のメイン・ステージに現れたプレイボーイ・カーティは、前年のクリスマスに発表した2ndアルバム『ホール・ロッタ・レッド』(以下、『WLR』)収録曲“ストップ・ブリージング”に合わせてひとしきり暴れると、「アイ・ミス・ユー、マザファッカーーーズ!」と叫んだ。彼は赤地に白色でピエロが描かれた布をすっぽりと被り、中央に空いた楕円形の穴から巨大なフロアでもみくちゃになる人々を愛おしそうに見つめていたが、それはジヴァンシィのTシャツをつくりかえたものなのだという。その奇妙な目出し帽姿は、まるでこれから敵の襲撃に向かう臨戦態勢のギャングのようにも、あるいは時制柄、感染症対策を徹底しているようにも見えた。

『WLR』のエグゼクティヴ・プロデューサーを務めたカニエ・ウエストもここ最近、フェイス・マスクに固執していて、そこには彼らがヒップ・スターとして一挙手一投足にカメラを向けられ、消費されるストレスと、それすらもパフォーマンスに利用せんとする逞しさが読み取れるだろう。もちろん、コーヴィッド・19が露わにした、黒人男性のマスク姿が警戒されるステレオタイプに対するアイロニーも。ポスト・パンデミックという点では、この日のステージはカーティがライヴ・パフォーマンスを再開、『WLR』の楽曲を公共空間で披露した記念すべき場であったどころか、音楽エンターテインメントの今後を占う運命の別れ道でさえあった。

今回の〈ロラパルーザ〉は例年以上に注目を集めた。ただしその視線の多くは訝しげなもので、ステージというよりは運営側に向けられていた。前年は世界的パンデックに伴い中止。本年はアメリカにおけるワクチン接種の進展を踏まえて開催に踏みきったが、直前になっていわゆるデルタ株による感染者が増加する中、決行の是非が厳しく問われることになったのだ。運営側は参加者にワクチン接種か72時間以内の陰性証明書の提出を求めたものの、密集するオーディエンスの様子が報じられると批判が高まり、屋内フロアではマスクの着用を義務化するなど、対策に追われた。ただし、閉会後に陽性が確認されたのは38万5000人の内の203人だったということで、様々な問題を含みつつもスプレッダー・イヴェントにはならなかったと見る向きが多い。それも踏まえてアメリカの音楽エンターテインメントはギアを上げており、カーティも10月から北米を巡る〈ナルシスト・ツアー〉をスタートさせた。

経緯を正確に書いておくと、カーティは2020年12月25日の『WLR』発表後、ニューイヤーズ・イヴにはオンラインで行われた〈サイバーワールド〉に、2021年7月23日にはポスト・パンデミックにおけるフェスティヴァル・シーズンの幕開けとして、フロリダ州マイアミで行われた〈ローリング・ラウド・フェスティヴァル〉に出演したが、後者でウォーム・アップが出来たのか、1週間後の〈ロラパルーザ〉のパフォーマンスはずっとクオリティが高かった。そして最大の収穫は、発表当時は賛否両論だった『WLR』の楽曲がライヴにおいて素晴らしく映えると分かったことだ。だからこそ、発表よりもうすぐ1年が経とうとしている本作は改めてレヴューされるべきだろう。その真価は〈ナルシスト・ツアー〉で問われるはずだし、パンデミックに翻弄された『WLR』は2020年代初頭のポップ・ミュージックを象徴しているのだ。

待望のムードの中で発表された『WLR』は、冒頭こそそれまでのサウンドのイメージを一新するような激しさに誰もが息を吞んだものの、ほぼ同じテンションが1時間、24曲に渡って持続するにあたって、人々は徐々に他の楽曲を再生し始めた。否定的な意見として多く見られたのは単調だというもので、それをやや肯定的に捉えると過剰だということになり、いずれにせよ『WLR』は問題作のレッテルを貼られ、棚に仕舞われた感がある。しかしその単調さ、過剰さに堪えながらじっくりと聴くことで浮かび上がってくる要点は多い。「Homicide」の連呼で始まり、「Suicide」を匂わせて終わっていくこと。ハイになった際のうわ言のようなリフレインの中で、金、薬物、女、敵、銃といったモチーフがひたすら歌われ続けるが、次第にカーティが暴力的なイメージに取り憑かれている原因は兄の死であると分かってくること。マンブル・ラップという時代の徒花としか思われていなかったサブ・ジャンルの拡張を試みるかのように、あるいは自己が分裂していくかのように、ベイビー・ヴォイスからスクリームまで多種多様なヴォーカル・テクニックが使われること。とは言え、そもそもラップ・ミュージックのアルバムにトータリティを求めてどうするのだとも思うし、実際、すっかりウェルメイドになったこのジャンルにおいて、本作は18曲目“プレイス”冒頭数秒の謎の空白に表れているように、メジャー・レーベルからのリリースとは思えないラフな部分を残したところが印象的である。

〈ロラパルーザ〉のライヴ・パフォーマンスは『WLR』の混沌としたエネルギーを解放してみせたわけだが、一方でそれがベッドルームに押し込められることによってムーヴメントが生まれ、本作の再評価に至った事実も忘れてはいけない。日本語圏でも既に幾つかの記事詳細に検証されているように、転換点となったのは2021年5月に発表されたトリッピー・レッド“ミス・ザ・レイジ”のヒットだ。『WLR』タイプのビートを選び、他でもないカーティをゲストに迎えたこの曲では、レッド曰く、パンデミックによって音楽フェスティヴァルが中止になり、「Rage(憤怒)」を発散する機会を失ったフラストレーションが表現されているのだという。ハードなロック・ギターやトリッピーなレイヴ・シンセをチープなゲーム・ミュージックにしたようなメロディと、低音が割れているラフなトラップ・ビートという組み合わせのサウンドは、まさに使い古したヴィデオ・ゲーム機と安価なサウンド・システムが転がった、狭いベッドルームのモッシュピットを連想させたし、そのアイディアは瞬く間に伝染、「レイジ」というサブ・ジャンルが確立されることになる。もちろん、レイジ・ビートの発生源は『WLR』だけに求められるわけではないものの、発表当時に人々を困惑させた同作が、切実さをもって聴き返されるようになったことは確かだ。

ベッドルームで暴れていたレイジ・キッズたちは、ポスト・パンデミックになって何処へ向かうのだろう。カーティの北米ツアーのテキサス州ヒューストン公演は、観客がライヴの開始を待ちきれずセキュリティ・ゲートを破壊して会場へ侵入を試みるなど、暴動状態になり急遽中止されたという。彼らはベッドルームのドアを開け、死ぬほど楽しみにしていたイヴェントのコアへとひたすら突進、それを潰したのだ。どうしようもないエピソードだが、そもそも、『WLR』収録曲“スカイ”のMVは暗視スコープを通して、スーパーマーケットで現金をばら撒きながら狼藉の限りを尽くすカーティとその仲間たちの様子を捉えるというどうしようもないものだった。『WLR』に込められた衝動は権力には向かわず、闇雲に発散される。ファンによってライヴを潰されるのは、実にカーティらしいエピソードだ。あるいは前述したように、コーヴィット・19はもともとあった政治/社会的問題を露呈したに過ぎないと言われる。ポスト・パンデミックになっても根本は解決したわけではない。狭い部屋を出ても、そこはまた狭い部屋だったということなのだろう。本作はその出口のない状況の中で鳴り響いている。

文:磯部涼

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