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TYRON slowthai (Universal) by MASAAKI KOBAYASHI
Shun Fushimi
May 11, 2021
TYRON

社会的な存在としての個と無軌道な内面を抱えた主体との
狭間で葛藤する「 I 」と「 i 」が織りなすドキュメンタリー

ビリー・アイリッシュの『WHEN WE ALL FALL ASLEEP, WHERE DO WE GO?』とスロウタイの今回のアルバムには共通点がある。二人ともアルバム表題の表記はすべて「大文字」オンリーで、収録曲には「小文字」オンリーのタイトル表記を使っている。

この小文字オンリー表記文化は、SNSにおいて個人的な思いのたけ(本音、本心)をテキスト化する上で、何ものにも妨げられることなく、具体的には、大文字への変換で中断されることなく、溢れるまま、流れ出るまま、自分の言葉を発して/打ちだしてゆくこととも関係すると言われている。SNSにおいて、と書いては見たものの、これは、ひとり対不特定多数、というより『WHEN WE ALL FALL ASLEEP, WHERE DO WE GO?』を思い出せば、親密な関係にある二人の間で、一対一で交わされることば(の行き来)をとらえたものとして受け止めるべきなのだろう。それは、テイラー・スウィフトが2020年に『folklore』から『evermore』へと、アルバム・タイトルから収録曲名まで小文字表記に統一した作品を出し続けたことにもつながってゆくようにも思えるし、表面的にはパンデミックで失ったように見える大観衆全体に向けてではなく、その大観衆を構成するひとりひとりの聴き手の存在をことのほか意識していることのあらわれとしてとらえることができる。

『TYRON』と『WHEN WE ALL FALL ASLEEP, WHERE DO WE GO?』、さらには『folklore』や『evermore』(トラヴィス・スコットによる2016年のアルバム『Birds In The Trap Sing McKnight』もここに加えるべきなのか?)との見た目の共通点について書こうとしてみたものの、相違点もあるスロウタイの今回のアルバムでは、1曲目から“PLAYING WITH FIRE”までの前半7曲のタイトル表記が大文字統一でで、小文字統一となるのは、つづく“i tried”以降の後半収録曲なのだ。

まずオープニングとなる“45 SMOKE”で示されるのはアグレッシヴな姿だ。“Doorman”の印象があってもなくても、これはスロウタイのパブリック・イメージの提示なのだろう(ただし、ラップにせよビートにせよ“Doorman”のスタイルをなぞったようなものはここにはでてこない)。それは、批判よりもキャンセル・カルチャーに負けない俺を出してくる“CANSELLED”にも見られる。スロウタイは、2020年のNMEアウォーズ授賞式での言動がもとでキャンセルが叫ばれ、すぐ謝罪している。ただ、なんの前触れもなく不適切な発言をしたわけではない。この場面は、司会のコメディエンヌのそれこそ唐突かつ不適切な発言にまんまと誘発されたように見える。それだからなのか、この曲では、スロウタイはいつまでも四の五の言わず、キャッチーなフックも担当するスケプタの援護に重きが置かれている。

アルバム前半は、クウェス・ダーコのプロダクションを中心に、打ち込み感を強調したささくれだったアップビート(“VEX”のトラックや“DEAD”のフックは90年代中期メンフィス趣味だ)を大きな枠組みとしている。悪い意味ではなく、先のキャンセル騒ぎもやむ無しと思わずにいられないのが、大文字オンリー表記最後の“PLAY WITH FIRE”から小文字オンリー表記の1曲目となる“i tried”への流れだ。どこからかサンプルしてきたようなピッチをいじったような声で表題の言葉が繰り返し歌われるイントロから不可解な前者だが、どうやらこれは、手を出したら絶対ダメなのはわかっちゃいるけど(PLAY WITH FIREなのだ)、手を出したら、と考えるだけでもワクワクする自分の中のもうひとりの自分で、両者の葛藤と言ったら大袈裟だが、そのアンヴィバレンスが表現されているようだ。そんな精神状態が、後者に進むと、前者のとは少し違う声音で「死のうとした(i tried)」と歌うのが聴こえ、まともになれと自分に言い聞かせる自分が現れる。

そこが大文字から小文字への切り換えポイントなら、スロウタイの小文字は、テイラーやビリーのような不特定多数のリスナーひとりひとり(あなた)とより親密さをもってつながろうとしているのとは少し違う。すでにMCネームをつけるにあたって、小文字オンリーのslowthaiに設定していた彼の今回のアルバムでは、自分に向けて自分にしか言えないこと、自分自身に言いたいことを表現するうえで、意味を持ち得ているようだ。とはいえ、逆に、こうした演出を加えることで(評者のように)リスナーの中には、なんだこれは?と疑問や注意を喚起される者も出てくる。もう少し具体的に言うと、アコーティックな質感の音に傾いてゆくアルバム後半の小文字表記オンリーの曲になると、最後の“adhd”での叫び声にいたるまで、ヴァースとは別の場所で何かしら(スロウタイの頭の中で?)声がしている。“i tried”で聴いたやや抑制を欠いた穏やかな声は、“terms”と“nhs”でもイントロとアウトロで歌うし、“focus”ではその声の破片がループとして聴こえてくるようだ。ケニー・ビーツ・プロデュースの“terms”に関していえば、曲の主題である、成功後とは逆に成功するまでは全くなんの保証もない矛盾を知るスロウタイの声とドミニク・ファイクのそれとが重なり、デンゼル・カリーが間に割り込む。大文字表記オンリーの前半で、本作のプロデューサーの一人、クウェスもエイサップ・ロッキーも普通に(つまり、声のピッチを変えたりせず)フックやヴァースを担当している。

アルバム名のタイロンとは、スロウタイの本名だ。そして、その内容が、タイロンの中身だとしても、スロウタイ前半タイロン後半の単純な二分化の枠には到底収まらず、前半のスロウタイ以上に定まらないタイロンの像をなんとかしてここに刻み付けようとしている。そういえば、スロウタイのツイッターは、その瞬間瞬間の自身の感情のメモ(記録)だという。よく意味のわからない言葉の連なりがリリックで出てきたら、ウィリアム・バロウズ作品で知られるカットアップ的なものとして捉えても考えすぎではないだろう。今回のアルバム作りの手法は、こうして書き出すと、なにか内に籠った複雑なもののようにも見えるが、例えば、アルバム・ラストの“adhd”に対する反応(多くの共感)を見る限り、むしろリスナーの直感に訴える力を蓄えた開かれた作品とも言える。

文:小林雅明

スロウタイの「悪魔を憐れむ歌」

時に、人は世界(=他者、と置きかえてもいい)の中に醜さや愚かさを発見する。そんなとき、「世界は変わらない」と感じる人間と、「世界をなんとしてでも変えなくてはいけない」と感じる人間がいる。もう一種、単に「世界は変えられる」と感じる人間もいるが、これは自己と他者の境界を知る前の青二才だから無視することにする。

世界は変わらないと感じる人間は、その限界こそを力に変える。生活においても、自己実現においても、限界がもたらす困難や不満の中から、歓びと自由を見いだしていく。

世界を変えなくてはいけない人間にとっては、限界など知ったことではない。とにかくこの世界が、他者が間違っているという確信を手放さない、というよりも手放せない。だから、彼らは他者を変えようとして傷つける。彼らにとっての理念や正しさのために人を痛めつけ、そのせいで自身も激しく苦しむことになる。しかし、リミットを無視するが故に、彼らは諦念と忘却の中で見捨てられた心にも手を伸ばす。大勢に理解されない、大勢が恐れる行為にも手を染める。そこに、未知の歓びと自由がある可能性を、誰も否定などできない。

タイロン・ケイモーン・フランプトン、通称スロウタイは後者の、「世界を変えなくてはいけない」衝迫を抱えた側の人間だ。「グレート・ブリテンに偉大さなどない(Nothing Great About Britain)」という国家への挑発をデビュー・アルバムの名にかざし、ステージで元首相テリーザ・メイに中指をつき立て、ミュージック・ヴィデオの中で友人を斧で撲殺する演技にいそしむ1994年12月生まれの声の高いベビーフェイスのラッパーは、他者に暴力的な働きかけをせざるをえない。彼は人体毀損の暴力がつまらない結果を招くことを知っているくらいには社会化された人間だから、虚構を用いて他者へ働きかける。『テキサス・チェインソー・マサカー』、『シャイニング』といった映画の恐怖意匠をビデオやリリックに拝借することで暴力をイメージへと変容させ、彼自身が感じているだろう悪夢を無理矢理に観客に喰わせる。「お前は俺の苦しみを絶対に知らなくてはいけない」と、確信を持って彼は生きているようだ。なんともハタ迷惑なヤツだ。

自らの名を冠した最新作『タイロン』のアルバム・ジャケットで、彼はふた角のついた黒いタイツに身を纏い、悪魔を装ってみせる。日本のテレヴィジョン文化に親しんだ私たちにはバイキンマンのコスプレにしか見えないが、兎に角彼は悪魔で、禁断の赤い実があまた生えている木の下で、矢を撃たれて絶命している。善意だろうが悪意だろうが、他者を変えようとする人間は悪魔として憎まれ、排除の対象となるだろう。そうした排除の勢力は外側からだけでなく、むしろ内側から、より強く現れる。自己と他者との軋轢の弁証法は、内面の強い呪いを産みだすのだ。『タイロン』は、前半に外世界の醜さを主に描写し、後半では内側の苦痛ののたうちへと、描き出す対象を次第に変えていく。

「ラスト・ワン……」という呟きと共に始まる『タイロン』最後の曲は、自殺についての歌だ。腐った流木を聞き手に幻視させるFマイナー・スケールのアルペジオと、ジリジリと鳴るレコード・ノイズのループ、そして安っぽさと重苦しさを同時に感じさせる808のビートで楽曲は展開していく。「豚みたいな気分だ、助けてくれよ(Sick as a pig, can you help)」、「握ろうとして指が滑って、俺は溶けていく(Tryna get a grip / Fingers slip, then I melt)」と、「オリンピッグ」にも似た動物差別表現を交えながら、「i」や「el」の音を重ねた細やかな韻律で、タイロンは内側から湧き出る地獄を語り始める。そこにいつもの甲高さはない。低く、ぼそぼそつぶやくようなフロウだ。コーラスに入ると声が複数現れて、分裂した抑鬱状態を暗示する。怒りと自己嫌悪の最悪の堂々巡りのなかで、「俺にできるのはさよならだけ(Goodbye is my only decision)」と弱い裏声で宣言した後、歌とビートは減速しながら消える。少し前に鳴り始めた電話の発信音が前面に出る(その前からタイロンは「頼むから電話に出てくれ」とライムしていた)。タイロンと実の兄の会話だ。「どうした?」「やぁ。何でもないけど、俺が言いたいのは、ブラザー、あんたのことが大好きってことだよ。上手くやってほしいし、あんたがここにいなくて毎日寂しいよ」。まるで遺言。ループが戻ると、ベース音が突如ブーストし、タイロンのフロウは発火したようにテンションを高めて、痛みの響きを明確にする。「重たい武器で、俺のメロン(=脳みそ)をかき混ぜてやるんだ!(Heaven weaponry / At my melon squeezed)」。バランスを失い、死へ直行する男の切迫に満ちた断末魔は、しかしながら「ビザがないってとこでオチみたいだ(Feel to exit like I ain't got a visa)」という一節に共に突如断絶され、35分間のアルバムに付き合ってきた私たちの元に沈黙が訪れる。

この、自殺の失敗をほのめかして終わる曲が“adhd”と名付けられている事実に、タイロン自身の症状を思い浮かべることも、現代人の典型的な症候を認めることもできるだろう。だが、肝要なのは、当曲、そしてアルバム全体の描き出す症例が「世界を、他者を変えなくてはいけない」という衝迫と結びついていることだ。その衝迫は度を超した愚かさや他者の心身の侵害に結実するのだから、強い嫌悪を感じるのも道理だろう。だとしても、俺が感じている衝動まで、止めようのない生理まで否定することないじゃないか。お前たちだって、本当は俺を求めているじゃないか。スロウタイの音楽に表れるのは、人々の怯えとエゴのスケープゴートとなった、「悪魔」の嘆きと怒りだ。

『タイロン』と向き合っていると、韻律と反復の快楽の中から、「お前なら悪魔とどう付き合うんだ」と、こちらを問いつめる声が聞こえてくる。気の滅入る問いだ。私たちが世界を少しでも変えたいと望んでしまったなら、不快で厄介な悪魔と契約しなくてはいけないのだから。不吉な存在と、どうにか上手くやっていかなくてはいけないのだから。そもそも、他ならぬ自分自身が悪魔でないと、一体どこの誰が断言できるのだろうか。もしそんなやつが本当にいるのなら、教えてほしい。俺がそいつのメロンをぐちゃぐちゃにするから。

文:伏見瞬

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