2010年代前半、全米でもっとも治安が悪く、暴力と貧困が支配する街として汚名を着せられていたシカゴ。しかし、チャンス・ザ・ラッパーという一人のカリスマの登場と、周辺に集った才能溢れる音楽家たちの尽力によって、そのイメージは鮮やかに払拭されていった。その結果、現在のシカゴは世界中から注目を集めるミュージック・シティのひとつになったと言っても過言ではない。
以下の第一弾記事では、その主要人物にスポットライトを当てた。
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2010年代ポップの外交官=チャンス・ザ・
ラッパーと共に、荒廃した街を音楽と友愛の
フッドへと変えた「シカゴ十勇士」:前編
では、彼らがリードした「新しいシカゴ」への変化は、具体的にはどのような経緯を辿り、実現していったのか? それを時系列の年表形式で紹介していくのがこの第二弾記事だ。その歴史を詳細に紐解くことで、シカゴの「今」がより立体的に見えてくるだろう。
まず振り返るのは、2013年まで。チャンス・ザ・ラッパーのブレイク前夜、シカゴがどういう状況にあったのか。彼の登場がシカゴとアメリカの音楽シーンにどのようなインパクトを与えたのか。順を追って見ていこう。
>>> ~2011年
シカゴの荒廃した状況を反映させた新しいヒップホップ・ムーヴメントとして、ドリル・シーンが注目を浴びるように。同シーンは、貧しい黒人居住区が集まるシカゴのサウス・サイドから生まれた、新種のギャングスタ・ラップ。コモン、カニエ・ウェスト、ルーペ・フィアスコ等、文化系でコンシャスなイメージが強かった以前のシカゴ・ヒップホップ勢とは一線を画す、ダークなリリックとサウンドを特徴とする。その代表曲のひとつが、チーフ・キーフの“ラヴ・ソーサ”だ。
>>>2012年4月
チャンス・ザ・ラッパーがミックステープ『10・デイ』を発表。当時19歳だったチャンス・ザ・ラッパーの処女作は、マリファナ所持で10日間の高校停学処分を受けたことにちなんで命名された。ヴィック・メンサ、ニコ・シーガルら、チャンス周辺ではお馴染みとなった面々の他、フライング・ロータス、レックス・ルガーら人気プロデューサーもプロダクションに参加。
>>>2012年12月
チーフ・キーフがデビュー・アルバム『ファイナリー・リッチ』をリリース。ビルボード・チャートで29位を記録。若干17歳という若さながら、ドリル・シーンの寵児としての名声を確立した。
>>>2013年4月
チャンス・ザ・ラッパーが2作目のミックステープ『アシッド・ラップ』を発表。DatPiffで累計100万ダウンロードされる。シカゴの音楽的遺産を散りばめた同作は、批評面でも成功を収め、同年の批評メディアによる年間ベストに多数選出された他、アメリカ最大級のヒップホップ系音楽賞〈BETヒップホップ・アワーズ〉のベスト・ミックステープ部門にもノミネート。新世代の台頭を印象付けた。
>>>2013年5月
チーフ・キーフがジョージア州のホテルでマリファナを吸ったとして逮捕される。彼は以前からドラッグや銃の所持で逮捕歴があり、この後も度々逮捕・服役を繰り返すことに。
>>>2013年6月
カニエ・ウェストが『イーザス』をリリース。チーフ・キーフをフィーチャーした楽曲“ホールド・マイ・リカー”収録。同年の年間ベスト・アルバムを総なめにした同作には、チーフ・キーフの他、キング・Lがドリル・シーンを代表してゲスト参加している。
>>>2013年6月
MyspaceのリローンチCMに、チャンス・ザ・ラッパーが登場。マック・ミラー、ファレル・ウィリアムス、スクールボーイQらと共演。Myspaceは2000年代に隆盛を誇った、音楽・エンターテイメントに特化したSNS。レーベル未契約で、ミックステープ2作品をセルフ・リリースしたばかりの新人が大型CMに起用されるのは、異例とも言える大抜擢だった。
>>>2013年8月
チャンス・ザ・ラッパーが地元シカゴで行われたフェス〈ロラパルーザ〉に初出演。元々ジェーンズ・アディクションのペリー・ファレルが1991年に立ち上げた〈ロラパルーザ〉は、97年に一旦終了したものの、2003年に復活。05年以降、シカゴのグラント・パークが会場となり、全米最大級の音楽フェスとして定着している。
>>>2013年9月
ヴィック・メンサがミックステープ『Innanetape』を発表。ヴィック・メンサはチャンス・ザ・ラッパーと共に〈セイヴ・マネー〉を立ち上げた創設者であり、彼ら2人は高校時代からの友人。インターネットとミックステープを掛け合わせた造語タイトルが付けられた『Innanetape』は、チャンスの『アシッド・ラップ』と並んで、シカゴ新世代の興隆を象徴する作品となった。
>>>2013年10月
ジェイムス・ブレイクがチャンス・ザ・ラッパーをフィーチャーした“ライフ・アラウンド・ヒア”を公開。当時2nd『オーヴァーグロウン』をリリースしたばかりだった彼は、チャンス・ザ・ラッパーと意気投合し、一時期LAでルームシェアするほどだった。また、後年プロデューサーとしてビヨンセ『レモネード』他の重要作に参加することになるジェイムス・ブレイクにとって、このコラボレーションがUSヒップホップ/R&Bとの初めての邂逅となった。
ジェイムス・ブレイクの新MVで助手席に座る
チャンス・ザ・ラッパーって一体何者なの?
>>>2013年11月~12月
チャンス・ザ・ラッパーが「ザ・ソーシャル・エクスペリメント・ツアー」を開催。ドニー・トランペットらと共に、ソーシャル・エクスペリメント名義での活動を本格化させる。バンドの形態を取って地元の仲間を積極的にフックアップし、ツアーで稼いだ資金をシカゴへと還元するという彼の行動理念は、この頃から一貫して続いていくことになる。
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チャンス・ザ・ラッパーが先導する「新しい
シカゴ」は如何に生まれたのか?その変遷を
紐解くシカゴ年表②「2014年編」