00年代は、スワンズ不在の時代だった。しかしそんな時代におけるマイケル・ジラの最大の功績は、自身のレーベルである〈ヤング・ゴッド〉を通して数々の埋もれた才能を掘り当て、60年代のサマー・オブ・ラヴを現代に甦らせたフリー・フォーク・ムーヴメントという一大ゴールドラッシュを、全米各地に波及させたことだろう。
その筆頭とも言えるのがフリー・フォークのカリスマ、デヴェンドラ・バンハートだ。南米ヴェネズエラのカラカスで育ち、カリフォルニアやパリなど世界各地を放浪していた彼は2002年、まだ21歳の時にマイケル・ジラに見出され、〈ヤング・ゴッド〉からアルバムをリリース。サンスクリット語で“神の王”を意味する名前を持ったこの男は、まさに〈ヤング・ゴッド〉の申し子とも言える存在だったわけだが、2004年にリリースされた『リジョイシング・イン・ザ・ハンズ』では、1970年に1枚だけアルバムを残して消えた伝説のイギリス人女性フォーク・シンガー、ヴァシュティ・バニヤンとのデュエットを披露し、彼女が表舞台に戻ってくるきっかけを作ることになる。本作、そして同時に録音された次作の『ニーノ・ロッホ』ではマイケル・ジラ自身がスワンズの活動休止後に始動させたバンド、エンジェルズ・オブ・ライトのメンバーがバックを務めており、のちに〈XL〉や〈ノンサッチ〉といったレーベルで咲き狂うことになるデヴェンドラがキャリアの礎を築くにあたって、ジラの担った役割は決して小さくない。
そんなマイケル・ジラがもっとも手塩にかけて育てたのが、ニューヨークの4人組アクロン/ファミリー。共演のディアハンターを完全に喰ってしまった初来日公演は既に伝説となっているが、フリー・ジャズ、ノイズ、そしてアメリカン・プリミティヴまでを飲み込んだ究極の雑食バンドである彼らは、ついにはジラのエンジェルズ・オブ・ライトまでを飲み込み、文字通り完全に同化してしまった傑作『ウィー・アー・ヒム』を最後にレーベルを移籍。その後も二度に渡って来日するなど、現在に至る活躍は知っての通りだ。
この『ウィー・アー・ヒム』にも参加していたのが、ダーティ・プロジェクターズのリーダー、デイヴ・ロングストレスの恋人でもあった女性フォーク・シンガー、ラーキン・グリム。アパラチア山脈のふもとに生まれ、タイやグアテマラを放浪したのち、アラスカでチェロキーの血を引く女性に拾われたという彼女の数奇な生い立ちを反映したアルバム『パープラー』は、そのジャケットに描かれたトカゲ同様、毒々しいまでの妖しい芳香を撒き散らしている。
現在は実質マイケル・ジラとスワンズの音源専門のレーベルと化している〈ヤング・ゴッド〉が最後に送り出した若き才能が、デヴェンドラと同じ年齢のロンドン出身ギタリスト、ジェイムス・ブラックショウだ。ジョン・フェイヒィやレオ・コッケ、ロビー・バショーといったタコマ系ミュージシャンたちの系譜を引き継ぐミニマルなギター・インストゥルメンタルで知られる彼だが、〈ヤング・ゴッド〉からリリースされた『グラス・ビード・ゲーム』ではチェロやピアノ、女性コーラスを交えたクラシカルなアレンジに挑戦し、教会音楽にも通じるような高みに到達することになる。
結局スワンズとしてはアルバムをリリースすることなく終わった00年代のマイケル・ジラだが、自宅録音によるソロ名義のアルバムや、〈ヤング・ゴッド〉を通じての布教活動によって再評価と飢餓感が高まり、ついに2010年、空から垂らされたロープに捕まって、死んだはずのバンドが地の底から這い上がってくることになるのだ。
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