2019年の私は「ポスト・パンク」と「エモ」を熱心に聴いた。もっとも、「ポスト・パンク」、「エモ」といったのは他に適当な言葉が思いつかなかったからで、実際はもう少しジャンルレス――多様で、もしくは内省的な音楽たちだったように思う。
「ピークから30年か40年がたち、今日の“ポスト・パンク”は多くの意味を含むようになった」。そう伝えたのは〈ペースト・マガジン〉だが、ともあれ、何かしらの新たな気運めいたものを近年のとくにイギリスのギター・バンドに感じていたところ、ブラック・ミディの登場は自分のなかでどんぴしゃでハマった。もちろん、当の本人たちにとって「ポスト・パンク」というタグは何の意味もなさないだろう。ジャパノイズや東欧のルーツ・ミュージックまで取り込んだかれらの音楽は縦横無尽。ただし一方、名門ブリット・スクールで音楽の英才教育を受ける傍ら、ダンスやデジタル・アートなど学科を超えていろんな文化的背景やライフ・スタイルを持った人たちとクロスオーヴァーすることで育まれたというかれらの多様性は、それこそワイアーやザ・ノーマルみたくデザインや映像など多岐にわたる“ノン・ミュージシャン”の集まりだった「ポスト・パンク」の第一世代とむしろ重ねて見ることができるところもあって興味深い。
そして、フォンテインズD.C.を筆頭としたアイルランドの「ポスト・パンク」。イギリスのそれと比べてサウンドは洗練されていなくて荒削りだが、かれらの台頭の背景には、(国境線の問題を巡って揺れる)ブリグジットを契機とした政治への関心の高まりがあること。フォンテインズのグリアン・チャトゥンは、ブラック・ミディの『Schlagenheim』も手がけたダン・キャリーのプロデュースによるデビュー・アルバム『Dogrel』収録の“ボーイズ・イン・ザ・ベター・ランド”で、市民の間に広がる反英主義(Anglophobia)について歌っている。さらに、2000年代の終わりの世界的な金融危機をへて、その後の景気回復のなかで進行した格差やジェントリフィケーションの問題。ハイテク企業の増加と資本主義の拡大による伝統や文化の喪失。あるいは、人工妊娠中絶を禁止する現行憲法を廃案に追い込んだキャンペーン「Repeal The 8th」などを通じて、ロック・ミュージックがとくに若い世代を中心に勢いを取り戻しつつあることも指摘されている。再び〈ペースト・マガジン〉の言葉を借りれば、『Dogrel』には「結果を考慮せずに暴走した前世代が築いた世界に住まなければならない人々――とりわけミレニアル世代が感じる希望と罠がカプセル化されている」。
私が2019年(に限らずここ数年)、「エモ」をあらためて聴くようになった経緯としては、ひとつにアメリカン・フットボールやサニー・デイ・リアル・エステイトといったかつての牽引役の再起に触発されたというのもある。加えて、そうしたリヴァイヴァルの潮目に後押しされるかたちでフォーカスが当てられた、俗に「エモ」の“第四の潮流(forth wave)”とも位置付けられる2010年代以降に頭角を現したバンドの活況。しかし、それ以上に「エモ」への気づきをもらうきっかけになったのは、たとえばフィービー・ブリジャーズやジュリアン・ベイカーが語る「エモ」との繋がりやシンパシーだったり、あるいは、国によって反体制や同性愛のシンボル、また自殺を幇助するディプレッシヴな音楽として禁忌の対象とされている背景に触れたことが大きかったりする。
そうしたなかで、「僕と(理想の)君」というナイーヴなメロドラマに拘泥するあまり(その反動として)ミソジニックな方向に転じる性格をはらんでいた一部の「エモ」やポップ・パンクに対するフラストレーションや反省を促す動きが、当事者であるミュージシャンたちの間で起きていることを知ったのは自分にとって発見だった。昨今、ブラン・ニューやパワー・ボトムのメンバーに対して起こされた訴えを契機として、「エモ」やパンク・シーンにおける女性の立場や扱われ方、長年にわたるセクシズムやジェンダーの問題がクローズアップされたことは記憶に新しい。“第四の潮流”を代表するひとり、オソ・オソことジェイド・リリトリは〈ピッチフォーク〉のインタヴューで語る。「2000年代の半ばにかけて、エモやポップ・パンクの多くは馬鹿げていて、利己的な観点から愛について歌っていました――とても女性嫌悪的な性格を帯びたものでした。それらはけっして評価できるものではありません。なので自分の音楽に対しては内省的な態度で向き合いたかった」。「エモ」とは本来、たぶんに思春期的な音楽だったとするなら、かれらは日常の断片を拾い集めることで自らの心の内を深く掘り下げ、あるいはミドル・エイジの訪れと向き合うことで“大人になること”と折り合いをつけようと模索しているように私には映る。
それにしても、襟を正されるような思いである。音楽を聴いて(映画でも、TVドラマでも)したたかに打ちのめされるたび、そこには何かしらの学びの感覚がある。2019年の私はそうした不意打ちを食らう機会が多かった。ボクシングでいうところの「The Forgotten Arm」というやつである。
〈サインマグ〉のライター陣が選ぶ、
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