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XEN Arca (Traffic) by YUSUKE KAWAMURA
JUNNOSUKE AMAI
November 07, 2014
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XEN

アンダーグラウンドの楔から解かれた稀有な才能が、自らの内奥を
潜り抜けて手にした洗練と、未だ持て余したままの粗野なる先鋭性

“シーヴェリー”のMVで踊る、あの生身ならぬ異形の裸体を一瞥して、現代美術家のマシュー・バーニーの作品をとっさに思い浮かべたのは、勿論、バーニーのパートナーであるビョークの来る新作をアルカがプロデュースしたという話に引き摺られた、安直な連想に過ぎない。しかし、その映像に映る「ゼン」という名前の何物かが、男性でも女性でもない、アルカ自身の「空想上のもうひとつの人格」の姿であると知り、バーニーが映像プロジェクト『クレマスター』で自ら演じた異物たち――半獣半人の牧神、両性具有の妖精、局部肥大した巨人――のイメージが、ジェシー・カンダの制作による他のMVもオーヴァーラップしながらそこに重なった。ちなみに、クレマスターとは睾丸に繋がる腱を包み込む筋肉のこと。胎児期に睾丸を上下させることで性の分化を左右する組織であり、転じて、存在が不確定な状態から確定的な状態へと変化する過程を表すメタファーとして用いられている。暗闇の中であてどなく腰を振り続ける「ゼン」は、まるで性差の境界を揺れ動く可変的な中間地帯のシンボルのようだ。

アルカの音楽には、この、何かが決定的に未分化な状態に留め置かれたまま推移していくような感覚が付き纏う。なるほど、去年のミックステープ『&&&&&』の「&」記号が並ぶように様々なスタイルや同時代のトレンドと隣接し、交わりを持ちながら、しかし、そのフォルムの生成はジャンルやカテゴリーといった確定された領域に漸近を見せこそすれ定位することなく、「&」が取り持つ音楽的脈絡はほとんど無秩序な手触りに等しい。たとえば、OPNのダニエル・ロパティンは去年のアルバム『アール・セヴン・プラス』について「与えられた環境に対してすぐに擬態しちゃうようなところがあってね」と語り、それがリリース元の〈ワープ〉の歴史や音楽的遺産を意識した作品だったことを明かしていたが、執拗なチョップとプロセシングで参照やアナロジーを処理する塩基配列が傷つけられたようなアルカの音楽は、『&&&&&』のアートワークを飾る異物さながらに、発生学の実験が作り出した奇形のキメラ接合体を思わせる。

2年ほど前だが、先ごろ「オンライン・アンダーグラウンド:ニューパンク」と題する論考を発表し話題を呼んだアダム・ハーパーが『ダミー』の企画で、その年の10枚に選んだ2012年のアルカのEP『ストレッチ1』に評を寄せている。その中でハーパーは同作について、巷流行りのウォンキーの類とたいして違わないとのつれない見解を示している一方(※続編的位置づけのアルバム『ストレッチ2』からはトリッキーがPCミュージックを先取りするような苦々しいキャンプ趣味も聴き取れるが)、オウテカやングズングズの名前を引き合いに出しながらもその全容を捕捉する適当な言葉を探しあぐねている様子が、多様性や複雑系の狭間で宙吊りにされたようなアルカの音楽の特異性を結果的に物語っていて興味深い。再び冒頭の連想を続けさせてもらえば――バーニーは『クレマスター』に続く『拘束のドローイング9』において神道や捕鯨といった日本文化を題材に、その伝統や様式美が象徴する“拘束”を解かれて未分化な状態に放たれるイメージを、自身と音楽も担当したビョークが演じる男女の邂逅を通じてエロティシズムや官能性に昇華して描き出したが、アルカの音楽もまた、いわば“態を擬する”のではなく“解する”ことで溢れ出すエントロピーを、既成のコンテクストや紐付けされた作家性に反発する創造の大きな揚力にしているようだ。

あるいは、そうして変化や移行のあわいにこそ創造の契機を見出し、カタルシスさえ覚えるようなバーニーと同質の身ぶりを、アルカことアレハンドロ・ゲルシからの「ゼン」の解放というプロセスに重ねて見ようとしてしまうことは、もはや妄想に過ぎないのだろうか。

すでに『&&&&&』の洗礼を受けた耳には、『ゼン』の沈殿物をかき混ぜるような不可触なサウンドも違和感なくなじむ。切り刻み、継ぎ接ぐことでビートとテクスチャーの同期/ズレを演出し、時間感覚や平衡感覚の揺らぎを循環させるアルカのプロダクション(生産物)は『&&&&&』で一綴りに巻き付けられていたが、『ゼン』においてそれはトラック毎に構成立てられることで持続感が分割された反面、逆にシークエンスの変容や転換は際立って鮮明に感じられる。十八番のエディット系と、ピアノやドローンによるアンビエント系が交互するアルバム前半部にそれは顕著で、とくに“フェイルド”や“ファミリー・ヴァイオレンス”では、『&&&&&』においてフックに過ぎなかったクラシック/現代音楽的な素養が前景化されていて興味深い。『&&&&&』のフローを濃縮したような“ゼン”や“フィッシュ”の過剰さも得難いが、そうしたエントロピーの中にもハーモニーの瞬間やオーケストレーションの意識さえ窺わせるところが、強いて挙げるなら『&&&&&』との違いかもしれない。無人機のカメラが撮影した打ち上げ花火の映像を使ったMVも幻想的な“ナウ・ユー・ノウ”しかり、鋭利なビートやサンプルが尖りを残しながら、シンセの情緒的なメロディやストリングス、ときに雅楽のような霊妙な響きも伴いさりさりと流れていく滑らかな共鳴音を、『ゼン』の随所に耳でなぞることができるだろう。

キャリアの長さも経てきた作風も異なるので単純に比較はできないが、近しい手法やスタイルでありながら徹底して物音的で具体(ミュージック・コンクレート)的なD/P/Iことアレックス・グレイと比べると、アルカの音楽はエモーショナルであると言っていい。また、最近で言えばジャイアント・クロウが披露する倒錯的なポップ嗜好、ヴェイパーウェイヴ特有の剽窃趣味とも異なる。そのフラクタルな無数の音の欠片を音楽として繋ぎとめているのは、「ゼン」というコンセプトにも窺える敏感な自意識と、それに根差した強固な美意識であり、「&(接合)」というより「⊇(抱合)」記号が並ぶ茫洋としたオンラインの海から眺めた時、陸に放たれた『ゼン』ははたしてどう映るのだろうか。〈ミュート〉からのリリースは、キャリア上のステップアップを意味こそすれ、アンダーグラウンドからオーヴァーグラウンドへの分化を意味しない。アルカの音楽にはいまだ、多義性や多価性に基づく揺らぎが感じられ、狂おしいほど乱れた瞬間を多く留めているが、その揺らぎの振れ幅は『ゼン』を通じて潤沢さを増し、表現として確実に洗練された印象を与える。

前述の論考「オンライン・アンダーグラウンド:ニューパンク」でアダム・ハーパーは、「音楽的な革命は(略)、技術的に優れたアイディアよりも、アクシデントや必要性から生まれてくる」と書いている。はたしてアルカは「新しい」のか。仮に『ゼン』が新しく、革命的な作品であるとして、しかしそれが、アーティストのセルフ・ポートレートとも取れるある種古典的な体裁を持ち、きわめて個人的でセンシティヴな問題に関わる動機や欲望をもとに生まれたというところに、個人的にはそそられるし、その生々しさ――誤解を恐れずに言えば“人間臭さ”が、『ゼン』で浮き彫りにされたアルカのチャーミング・ポイントでもあるように思う。

文:天井潤之介

インダストリアル・リヴァヴァルのなかでのアルカ
越境する機械のテクスチャー

ここでは、ひとつ『ゼン』を、ある種、エレクトロニック・ミュージックの現在の気風である“インダストリアル”を象徴するひとつのポップ・アイコンとして考えることでその紹介を進めていこうかと思っている。そりゃ乱暴だと言われればそれまでだが、なんとなく、この流れの話をおざなりにカニエだ、ビョークだ、FKAだ、ポスト・インターネットだ、と言ってもあまりにもリスナーを置いていってしまう気がするからだ。本作をとりまく、現在のエレクトロニック・ミュージックの潮流を知ってもらうことで、おそらく逆にこの作品の重要性やその優秀な“かたち”が浮き上がるのではないかと。

重さもなく、カラカラと鳴るメタル・パーカッションじみたドラムも、美しいメロディのシンセのラインも、どこか不穏な世界観を鳴らしている。もはや生物が消え去った後に、機械たちの呪術によって生まれた生命体たちが、人工皮膚から錆びたメタリックな素体を飛び出させ歌うメランコリア。SF的なディストピアのさらに向こう側で繰り広げられる、そんな妄想が頭をよぎる。ある種、ベネゼエラ、南米出身ということを考えれば、このメランコリアも彼の地の呪術的な幻想文学で展開されるSFを想起しなくもない。

漆黒の闇を飛び回るクリアでミニマルな電子音、それらの音はザラつき、歪んだ印象を与えるノイズのテクスチャーがこびりつく。そこで描かれる世界の色は、どこまでもメタリックな質感を帯びる。それは勿論、ジェシー・カンダが作り出すアートワークや映像に映る、エロティックでヌメヌメとした意匠を持ちながらどこか機械じみた、異形の存在たちのインパクトも大きい。しかし、その音のキャラクターはインダストリアルと形容して相当しい趣向性を持っている。

テクノやその他、エレクトロニック・ミュージックを聴いてる感覚からすると、昨年、カニエまでそうした趣向性の音を取り入れたのかとびっくりしたものだが、その立役者がいま思えばアルカだったと、本作やミッキー・ブランコのプロデュース作、さらには『&&&&&』も合わせて聞けばわかるだろう。

ここ数年のエレクトロニック・ミュージックのインダストリアル化は今や様々なビートを取り込み、侵食し、ザラついたテクスチャー同士で結びつき合っている。アルカも“インターネット”というひとつの媒介があったにせよ、リアルなダンスフロアも含む、そうした潮流に属する作品である、ということはあるのではないだろうか。いわゆる、ダンスフロア向けの、DJカルチャーが介在するテクノやベース・ミュージックと、インダストリアルを貫き通した実験的な電子音響の世界は、おそらくだが数年前に比べると確実に距離を縮めている。

具体的な地図を描こう。まずはジェイムズ・ブレイクがブレイクし、テクノやハウス、ダブステップの融合がなされた2010年代初頭、ハウスやR&Bを積極的に取り込んだポスト・ダブステップが「とりこまなかったもの」が、また別の流れとしてアンダーグラウンドではひとつの流れとなっていく。例えば、ベン・クロックやマルセル・デッドマンら、いわゆるベルリンはベルグハイン一派のハード・ミニマル・テクノ、さらにはリージスやサージョンといったUKのハード・ミニマル勢の新たな動き。リージスに至っては、テクノ的な趣向性のみならず、自身の〈ダウンワーズ〉や、ファンクションとの〈サンドウェル・ディストリクト〉(解散中)にて、インダストリアルな電子音響ものからニューウェイヴ的なバンドまでリリースしている。これはまたベース・ミュージックとテクノの融合点にも接続する。ベース・ミュージックにおいても、セオ・パリッシュのビートダウンやロウ・ハウス、ダブのざらついたテクスチャーを現存の“インダストリアル”なベース・ミュージックへと発展させたアンディ・ストットとさらにダーク・アンビエント~電子音響のデムダイク・ステアなど、キャラぞろいの〈モダン・ラヴ〉。ポスト・ダブステップの裏番長、アントールドがアルバム『ブラック・ライツ・スパイラル』で展開したザラついたテクノ。NYからは、クラシカルなハウスの音像をさらにインダストリアルに推し進めたロウ・ハウスを展開する〈L.I.E.S.〉、そしてワンオートリックス・ポイント・ネヴァー周辺の〈ソフトウェア〉やヴェイパー・ウェイヴ~音響/ノイズを推し進める〈RVNG〉などのジャンク感もやはり“インダストリアル”な雰囲気も感じ取ることもできるだろう……と、“インダストリアル”や今回の『ゼン』の音像から思いつくトピックは枚挙にいとまがない。勿論、変わらず電子音響をやり続け、今やアルカとは〈ミュート〉を通してレーベル・メイトとなったダイアモンド・ヴァージョンなどの〈ラスター・ノートン〉一派もここにきて、こうした流れで再度注目を集めている感覚がある。

また、現在の『ゼン』の音像と近しいのがベルリンの電子音響レーベル〈PAN〉の存在だ。もともとはアルバム・サイズの電子音響ものをリリースするレーベルだったが、ここ数年、バス・クレフなどのインダストリアル侵食系のベース・ミュージックやテクノのサウンドを12インチ・リリースするなどダンスフロアとも接続している。近日リリースのリー・ギャンブルオブジェクトのアルバムはまさに現在のエレクトロニック・ミュージックのインダストリアル・ムードという意味では、『ゼン』の作品とともに聴かれるべきサウンドと言えるのではないだろうか。

そしてここにアヴァン・ロックやレフトフィールドな音楽シーン、もっと言えばドローン系のアンビエントの静かなブームなども地続きに続いていく感覚がある。

またこうした動きの日本からの回答、そしてDJカルチャーからの回答という意味でもDJ NOBUの昨年のミックスCD『Crustal Movement Volume 01 - Dream Into Dream』も挙げておかなければなるまい。その内容は、ダンサブルなテクノからフリキーなライヴ・レクトロニクスまで様々だが、『ゼン』の背景に広がる電子音響の、まさに上記の“インダストリアル”な雰囲気をパッケージングしたCDでもある。

ここ数年は、MoMAの出展や、ミッキー・ブランコや、そしてカニエ・ウェストのプロデュースなど彼がNYやロンドンなどのヒップな界隈の音楽シーンにもある程度出入りし、そしてDJとしても活動していることを考えると、“インダストリアル”的な質感を“今”リリースするということに対して、なんらかの戦略的な考えを持っていたことはまったくないとは言えないのではないだろうか?

ちなみにアルカは今年の5月に来日し、リキッドルームにてジェシー・カンダの圧倒的な映像インスタレーションとともにDJを披露している。その時のDJはテクノ、小林雅明氏が別項で指摘していたようなヒップホップ~ゲットー・ベース的なバウンシーなビート・サウンド、R&Bを中心に、さらにはブレイクコア~IDM的な楽曲までをもミックスしていたし、ご存知のように『&&&&&』にしても、そこに含まれているものは多様だ。しかし、本作はどうだろう? アルバム一枚を通して、その意匠はシンプルなエレクトロニクスの音響とビート、そしてメタリックなテクスチャーにコーティングされている。彼がこれまで出してきた、多様な背景を要素としては含んではいるものの、やはりその音のテクスチャーにおいてはあえて「捨てたもの」も多くあると思う。彼が“インダストリアル”な気分を選びとったというのは間違いなくあると思う。

勿論、そのメロディ・センスやアルバム全体の構成力はやはり、彼の才能の大きさを感じることができる。それは、小手先の“シーンの音”だけでは覆せない、音楽としての重要な部分であり、彼の才能の根幹であるということはここで断っておこう。それは勿論、大前提だ。

この波の、ある種、メジャーなポップ・カルチャーとの接点として、アルカはその才能を持って君臨しているとすら感じる。シーンがそうした機運だからこそ、彼がトップ・アーティストになれたというのもあるだろう。ご存知のように、ポップな音楽シーンへの影響力の波及も含めて、そうした事象と完全には切り離すことはできないほどの立ち位置に彼はいる。本作が時代の寵児たる理由として、おそらく、彼を取り巻く点としてのビッグ・アーティストたちの起用や彼自身の才能とともに、そうしたエレクトロニック・ミュージック・シーン、そして彼が接続したポップ・カルチャーの大物たちをも飲み込んだ“面”としてのインダストリアル・リヴァイヴァルがその後ろを支えているところもあるという視点を、ここで提供しておきたったのだ。

おそらく本作を聴く多くの人々は例えば上述の〈PAN〉からのニュー・リリース毎に狂喜するような方が大半ではないと思うが、本作を気にいったのならばぜひともその先に広がる“インダストリアル”なエレクトロニック・ミュージックの大きなフィールドへと冒険することをお勧めする。

文:河村祐介

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